君と奏でる最後の曲
以前書いた作品のリメイクになります。
2作目の短編だったのですが、今ならもっと上手く書けると思って書きました。
どっちが読みやすいかな?よければ教えてください。
卒業式まであと二週間という中途半端な時期に校内放送で呼び出されるのは、だいたい面倒ごとだと相場が決まっている。
瀬尾奏多は三年の教室で、開きかけていた弁当箱の蓋を閉じた。隙間から唐揚げが一つ覗いている。箸すら持っていないのに昼休みを途中で打ち切られた気分になり、短く息を吐いた。
『三年二組、瀬尾奏多くん。至急、第二音楽室まで来てください』
放送が終わると同時に、周りの視線が集まった。前の席の男子が椅子ごと振り返り、面白がる顔で口角を上げる。
「呼び出しとか、何かやっただろ」
「してないよ、何にも」
「怪しい」
「うるさい」
奏多は軽く手を振って席を立った。
受験を終えた教室には、独特の緩い空気が漂っている。授業はなく、卒業式の練習と進路の連絡ばかり。棚の教科書を持ち帰り始めている生徒も多く、あと二週間もすればここへ来ることもなくなる。
そんな時期に、第二音楽室。
廊下へ出ると、三月の乾いた風が頬をかすめた。
特別棟の三階へ向かうにつれて、脚が重くなる。音楽室そのものが嫌いなわけではない。かつては放課後になれば当然のように鍵盤へ向かい、休日も音楽教室へ通っていた。家でも手が空けば鍵盤に触れていた。
それをやめて、もうすぐ二年になる。
第二音楽室の前に差し掛かったところで、靴音が止まった。
扉の向こうからピアノが聞こえる。一音、二音。短い旋律が途切れ、少し間を置いてまた同じ箇所から始まる。次の音へ進むのを迷っているような弾き方だった。
扉に手をかけないまま、その音を聞く。誰が弾いているのか、考えるまでもなかった。
同じ音楽教室の発表会で。互いの家で。そして、付き合っていた頃に。
何度も聞いてきた弾き方だった。
「……はぁ」
奏多はドアを二度ノックしてから、横へ滑らせた。
「失礼します」
窓際のグランドピアノに、白石莉音が座っていた。
長い黒髪を揺らし、譜面台から顔を上げる。合唱部部長で、卒業式では学年の合唱をまとめる立場。そして奏多にとっては幼なじみであり、高校一年の終わりまで付き合っていた元恋人でもあった。
「来てくれてありがとう」
莉音が鍵盤から手を離し、柔らかく笑う。昔と変わらないその顔を見て、奏多はわずかに視線を逸らした。
「放送で呼ばれたら来るしかないだろ」
扉を閉め、ピアノから二歩ほど離れた位置で足を止める。莉音と視線が重なる前に、黒く光るグランドピアノ本体へ目が向いてしまった。
「直接言ったら、来ない気がしたから」
「よく分かってる」
「彼女してましたから」
「『元』カノさんがなんの用だ」
が滑ったと気づく。莉音の眉がわずかに下がった。
「……急にごめんね」
落ちた声が静かな部屋に残る。
二人きりになるのは久しぶりだった。廊下ですれ違えば目線くらいは交わすし、共通の知人がいれば話もする。だが別れて以来、二人だけで向き合う時間は互いに意識して避けていた。
奏多は背中を壁に預け、ポケットに手を突っ込んだ。
「何?」
莉音は譜面台の楽譜に手を置く。端には鉛筆で細かな書き込みが残っていた。卒業式の全体合唱曲だ。
「伴奏、お願いしたいの」
奏多は答えず、楽譜からピアノへ視線を移した。理解するまでに時間はかからない。理解できてしまったからこそ、声が出なかった。
「……伴奏」
「卒業式の」
「それは見れば分かる。だけどもう決まってたろ」
「昨日、指を痛めちゃって。先生も、本番まで二週間しかないから無理はさせられないって」
納得はいく理由だった。ただし、自分が選ばれた理由にはならない。
「他に弾けるやつはいるだろ」
「いるよ」
「ならそっちに」
「奏多がいい」
重なった声に、言葉が詰まる。
莉音は自分が言った内容の重さに気づいたのか、瞬きをして視線を泳がせた。けれど、前言を撤回する気配はない。
「今回の曲、伴奏で全部変わるの。人数が多いから、ピアノがブレたら歌も崩れる」
「それで俺?」
「うん」
「二年近く触ってない」
「でも、弾けなくなったわけじゃないでしょ」
言い逃れを潰される。子どもの頃から並んで弾いてきた相手に、見透かされた嘘は通じない。
「……今さらだろ」
抑えた声が出た。莉音から笑みが消える。それでも視線を逸らさず、じっとこちらを見つめていた。
「うん。今さらだと思う」
素直に認められる方がやりづらい。奏多は窓の外へ目をやった。グラウンドでは運動部が昼休みの残り時間でボールを追っている。歓声はガラス越しに遠く、音楽室には二人の呼吸と時計の針が進む音だけが残った。
「音楽やめたの、私のせいだよね」
声のトーンが下がる。
奏多が視線を戻すと、莉音は膝の上で両手を重ねていた。右手の親指を左手で包み込む。緊張したときに出る、本人は気づいていない彼女の癖だった。付き合っていた頃、何度その手をつないで解いただろうか。
「……お前のせいだけじゃない」
「じゃあ、少しは私のせいなんだ」
「変な拾い方すんな」
「ごめん」
奏多は前髪をかき揚げた。
嫌いになったわけではない。ピアノも、音楽も。
目の前にいる莉音のことも。
だから触らなかった。鍵盤に触れれば、隣で並んで弾いた連弾の記憶や、発表会前日に言い争ったこと、間違えるたびに自分の腕を軽く叩いて笑っていた彼女の温度が全部戻ってくるからだ。別れたあとの日常には必要のない記憶ばかりが、音の中に残っている。
莉音はそれ以上何も言わず、ただ待っていた。
「……それでも俺なのか」
「うん。上手い人に弾いてほしいだけなら、他の人に頼む」
莉音が鍵盤の横に立ち上がり、一歩踏み込んできた。
「奏多のピアノ、歌いやすかったから」
記憶の底から言葉が一つ浮かぶ。中学最後の発表会、直前で緊張し声が出なくなった莉音に投げかけた言葉。
『俺が合わせる。好きに歌え』
あのとき、彼女は泣きそうな顔で笑っていた。
「最後に一回だけでいいから」
莉音の声が落ちる。
「一緒にやってほしい」
ずるい頼み方だった。断りにくいことを分かっていて言っているのか、無意識なのか。
「……仕返しか、あれの」
「何が?」
「いい、なんでもない」
奏多は小さく息を吐き、ピアノの前へ歩み寄った。丸椅子を引き寄せる。脚が床を擦る乾いた音が響いた。
「一回だけだ。弾いてみて無理そうなら他を当たれ」
莉音の目が丸くなる。
「……うん」
安堵の混じった返事から目を逸らし、奏多は椅子に腰を下ろした。
目の前に白と黒の配列が並ぶ。膝の上の手を開き、鍵盤へそっと置いた。ひんやりとした鍵盤の感触。一度息を深く吸い込み、吐き出す。
——ド。
澄んだ一音が広がる。
指先が勝手に動き出した。頭で思い出すより早く、手繰り寄せるように右手が旋律を追い、左手が和音を支える。途切れていた二年間の空白を埋めるように、滑らかに音が繋がっていった。
一小節、二小節。楽譜を見る余裕はないが、指が鍵盤の位置を覚えている。指先は重く、細かな音の粒は揃わない。それでも、破綻せずに曲の形を成していく。
最後の和音を打ち鳴らし、余韻を響かせて手を離した。
「……弾けるもんだな」
つぶやくと、隣から忍び笑いが漏れた。
「だから言ったでしょ」
「嬉しそうだな」
「嬉しいよ。久しぶりだったから」
まっすぐ見返され、奏多はすぐに視線を鍵盤へ落とした。
「……余計なこと思い出す」
莉音は何も言わなかった。静寂が落ちる。
弾けるかどうかが問題ではなかった。音を鳴らした瞬間、胸が跳ねた感覚を覚えてしまったことが問題だった。
「卒業式までだ」
奏多は鍵盤を見つめたまま告げる。
「そこまでやったら終わり」
「……うん」
「歌ってみろ。合わせる」
「今?」
「合わせたいんだろ」
莉音が慌てて立ち位置を整える。その動作につられて、口元が少し緩んだ。
「頼んだ本人が準備できてないのか」
「奏多がすぐ引き受けてくれると思ってなかったの」
「一回断ったろ」
「最終的には折れてくれたでしょ」
「そういうとこ変わんねえな」
言葉が出てから、空気が止まった。『昔から』という意味が自然に混ざる。
莉音は何も言わずに微かに笑い、奏多も深追いせずに鍵盤へ手を戻した。
「いくぞ」
前奏を鳴らす。
四小節遅れて、莉音の声が重なった。
その瞬間、奏多の指先から余分な力が抜ける。自分の演奏を主張するのではなく、歌のブレスに合わせて旋律の端をわずかに引き延ばし、声の輪郭を際立たせる。指示されたわけではない。過去の演奏で体に染み付いた癖だった。
二番に入ると、莉音の声の伸びが変わった。サビへ向かうところで、奏多の右手が少し強く入りすぎ、莉音の発声が一瞬詰まる。だが、止まらない。お互いのズレを次の拍で補正しながら、最後まで音を流し切った。
残響が消えるのと同時に、息を吐く。
「「 サビ前 」」
声が被った。奏多が横を見ると、莉音もこちらを見ていた。数秒の間のあと、莉音が吹き出す。
「なに」
「昔も同じところで引っかかったなって」
「言うな」
「奏多も思ったでしょ」
「思ってない」
「嘘」
「うるさい」
さっきまでの固い空気は薄れていた。奏多は誤魔化すように鍵盤をぽんと叩く。
「お前、入りが少し遅い」
「奏多の音が強かった」
「分かってる。次は軽く入る」
「じゃあ私も少し詰める」
「俺が合わせる」
吐き出した瞬間、莉音が口を噤んだ。
『俺が合わせる』
あの日と同じフレーズに、莉音の口元が緩む。
「……何」
「なんでもない」
「笑うな」
「笑ってない」
「もう一回。サビ前から」
音を鳴らす。今度は綺麗に噛み合った。
声の息遣いに指が寄り添い、伴奏の響きに声が乗る。言葉によるすり合わせは必要なかった。二年間途切れていた時間を埋めるような会話をしなくても、音を交わすだけで互いの距離感が測れてしまう。
「そこ、もう少し伸ばせる?」
「その方が歌いやすい」
「了解」
繰り返すうちに、昼休みの終わりを告げる予鈴が校内に響いた。
奏多は鍵盤から手を離す。
「……やば」
莉音が時計を見上げる。
「ごめん、お昼まだだったよね」
「唐揚げが……」
「ふふ、明日何か買ってきてあげようか?」
「いらん。そこまでされたらやりづらい」
楽譜を取り、立ち上がる。差し出そうとすると、莉音は首を横に振った。
「それ、持ってて」
「いいのか?」
「明日も使うから」
手元の楽譜に目をやる。鉛筆でびっしり書き込まれた、見覚えのある丸っこい文字。二年間触れることのなかった楽譜が、自分の手元にあることに違和感がある?
「卒業式まで、やってくれるんでしょ?」
莉音がまっすぐな目で言った。
奏多は一瞬だけ間を置き、楽譜の端が折れないよう、慎重に持ち直した。
「放課後?」
「うん。今日と同じくらい練習したいかな」
「分かった」
莉音の表情が少し緩む。
「じゃあ、また明日」
ドアへ向かいかけた足が止まる。
『また明日』
昔は当たり前だった挨拶。別れてから一度も言わなくなった言葉。
奏多は振り返らないまま、手にした楽譜を軽く掲げた。
「……なるべく早く来いよ」
「奏多もね」
廊下へ出ると、引き戸が閉まる乾いた音がした。
歩き出そうとした瞬間、背後の部屋から再びピアノの音が漏れてくる。さっきまで莉音が一人で途切れさせていたフレーズだ。今度は止まらない。音は迷いなく繋がり、廊下の奥へと流れていく。
奏多は足を止めず、鞄を開けた。楽譜の角が傷まないよう、教科書と教科書の間にそっと差し込み、ファスナーを静かに閉めた。
「卒業式まで時間がないが精一杯やってみるか」
帰宅する足取りは、いつもより軽かった。




