06・優しさ、あふれる
怒りに任せて住宅街を駆け抜ける私の視界に、見慣れた後姿が見えた。迷わずその背中目掛けて駆け寄り、後ろからぎゅっとその背を抱きしめる。走ってきたからか、ちょっと勢いがつきすぎて、まもちゃんの体が前方にぐらりと揺れた。
「うわっ!?」
「まもちゃん!」
まもちゃんが倒れないように私はぎゅっとまもちゃんの腰に手を回した。どうにか倒れずに済んだまもちゃんと私。まもちゃんは、ぜぃぜぃと息を切らして荒くなった呼吸の私を見て、ふっと微笑んだ。そして優しく頭に手を乗せてゆっくりと撫でてくれる。その優しい手は、私にはどうしても必要なのに……どうしたら父はわかってくれるのだろうか。私は何をどう言ったらいいのかわからなくて、そのまままもちゃんにぎゅっと抱きついた。
「……香澄? お父さんはいいの?」
いつもと変わらない口調で優しく問い掛けるまもちゃん。そのまま私の背中に手を回し、柔らかく抱きしめてくれる。大好きなまもちゃんの香りに包まれて、どうにか私も冷静さを取り戻す事ができたのだ。先程までの怒り狂った感情はもうない。でも、このまままもちゃんから離れたくない。何を言っても父は私の言葉など聞いてはくれない。だったら……どうすればいい? まもちゃんは世界で一番大切なんだってわかってもらうにはどうしたらいいのだろう。人の話を聞かない、自分の意見は絶対だという父の頑固さは、私も母も少々呆れ気味だった。でも母はそんな父の扱いには慣れている。私は一向にこの頑固さに慣れることができなかった。それならいっそ、父とは縁を切ってしまえばいい! そんな考えに達した私に、まもちゃんの優しい声が頭上から降り注ぐ。
「いつかちゃんとわかってくれる日が来るよ。香澄が大事で大事で仕方ないんだよ、お父さんは。でも、ついあんな態度をとってしまうんじゃないかな」
「……あんな頑固なお父さん、いらない」
「香澄、そんなこと言わないで。たった一人のお父さんじゃないか」
「まもちゃんは……自分のお父さんが好き?」
「……嫌いだった時もあった。けど、今は……嫌いじゃない」
「そうなの?」
「うん。感謝してる部分もあるよ。あんな胡散臭い父だけど、やっぱり元気だと嬉しいんだ」
まもちゃんの肩口からそっとおでこを離し、まもちゃんの顔を見上げた。するとそこには穏やかな笑顔を浮かべているまもちゃんがいる。私のおでこにそっと唇を当て、優しいキスをすると再びぎゅっと抱きしめられた。
「僕は、香澄と……ずっと一緒にいたいんだ。そしてちゃんと幸せにしたい。だから、お父さんには絶対認めてもらうように頑張るよ」
「まもちゃん、ありがとう。ずっとずっと一緒にいようね!」
「うん。……じゃあ、帰ろう。お父さん、待ってるよ」
幸せな気分に浸っていた。それがこのひと言でガラガラと崩れていく。結局はお父さんのところに戻りなさいと、まもちゃんはそう言っているのだ。だけど私はまもちゃんと一緒にいたいからここまで走ってきたのに……一緒にいてはいけないのだろうか。笑顔だった私の顔が曇ったのをまもちゃんは見逃さない。そのまま私の手をとり、きゅっときつく繋いだ。あったかいまもちゃんの掌に包まれているのに、走ってここまで来た道をまもちゃんと戻っていく。なんだか……少し寂しかった。
「香澄のお父さん、きっと戻ってきて欲しいって思ってるよ。香澄ともっと話したいのに不器用でうまく話せないんじゃないかなぁ……」「まもちゃんは、私と一緒にいたくないの?」
「そりゃ一緒にいたいよ? でもね、ちゃんと僕を認めてもらわないと……香澄を幸せにできないから」
「お父さんが認めなくても、私はまもちゃんが好きだよ? それじゃダメなの?」
「ご両親に認めてもらって……そしたら」
そこでまもちゃんの言葉が止まる。口をきゅっと一文字に結んで。でも少しだけ口端を持ち上げて微笑んでいた。言葉の続きは、待っていたけれどやってこない。そのまま笑顔を浮かべて、ぐいぐいと腕を引く。一体その言葉の続きはどんな言葉なのだろうか? 聞いてもはぐらかされてしまうので、ついに私の方が根負けしてしまった。でも、まもちゃんが私に何か良いことを言ってくれようとしていたことだけはわかっていた。そうじゃなかったらこんな笑顔は浮かんでこないだろうから。陽だまりの笑顔は、いつだって私に降り注いでいる。ほんの少し、私は欲張りになっていたのかもしれない。父と向き合うことを嫌がり、まもちゃんの影に隠れようとしていたことを、まもちゃんは見抜いていたんだろう。私に出来ること、それはまず、父と向き合って話すこと。そして、まもちゃんを認めてもらうこと、だ。頑固な父を説き伏せるには時間がかかるかもしれない。でも、私は頑張るしかないんだ。険しい道のりかもしれないけど……頑張ろう。まもちゃんに手を引かれながら、私の中で決意が固まったのだった。
しばらく歩いていると、マンションが見えてきた。そして入り口でそわそわと腕を組みながら行ったり来たりしている父の姿を見つけた。私とまもちゃんはその父の姿を見て、お互い顔を見合わせてからくすっと小さく笑い合ったのだった。そして、まもちゃんが私の肩をぽんっと軽く叩いた。
「ほら、お父さんのところに帰りな。僕はここで」
「……うん、まもちゃんありがとう」
「またメールするね。しばらくまた……家に籠もることが多くなるかもしれないけど、なるべく早く終わらせるからね」
「無理しないでいいよ。……でも待ってるね、連絡。それじゃ、おやすみなさい」
「ん。おやすみ」
少しだけマンションが見えない位置まで移動して、父にバレないようにこっそりキスをした。触れるだけの可愛らしいキスでもドキドキと鼓動が高まる。彼の体温を唇から感じて、それと同時に彼の優しさも強く感じる。そんなキスを交して、私はマンションへと走っていったのだった。