46・ご褒美は苺ミルクの味
結婚情報誌を二人で眺めて楽しいひと時を送った後、数日間、私達はすれ違い生活を送っていた。と、いうのも、私自身も今週は仕事がいっぱいいっぱいで、毎日残業していたのだ。夕飯を作る暇も無く、毎日へとへとになって帰宅していた。そして今日はやっと金曜日。今週の仕事は今日でおしまいだ。
今日も残業をし、ようやく仕事が終ったのは夜の九時。もう肩がパンパンだ。とんとん、と肩を叩きながら立ち上がり帰り支度を始めると、同じく残業していた内海先輩に声を掛けられた。
「香澄ちゃん。どう? 一杯呑んで行かない?」
せっかくのお誘いだったけれど、私はもうへとへとで呑みに行く体力なんて残っていなかった。
「内海先輩、ごめんなさい。もう、へとへとすぎて……」
「そっか。まぁ、とりあえず遅いから、駅まで送ってくよ」
「大丈夫ですよ? 大した距離じゃないし」
「でも、嫁入り前に変な男に襲われたら大変だし」
内海先輩は真面目な顔でこう言うけど、覚えているだろうか? まだまもちゃんとお付き合いする前、私が内海先輩に憧れていた頃のこと。家まで送ってくれた内海先輩が私に無理矢理キスをした。あれは正直、衝撃的すぎて、忘れたくても中々忘れられない出来事だった。ドラマのような展開が、まさか自分の身にふりかかるとは誰が思うだろうか。ただ、一生封印したい出来事であるには間違いない。
内海先輩は、きっともう、忘れてしまっているだろう。いや、忘れていて欲しい。忘れていてくれてこそ、今の関係が心地良い。
「先輩。それじゃあお願いします」
「うん」
内海先輩が、こくんと頷きながら「うん」とか言うと、顔はカッコイイのに言動とのギャップがあって、なんだか可愛く見える。ここのところ内海先輩は、ちょっとお馬鹿っぷりが目立っていたから、つい、カッコイイということを忘れがちだった。
先輩と並んで駅までの道を歩きながら談笑していると、駅の改札があっという間に見えてくる。話しながら歩くと、駅までの距離がいつもより近く感じるから不思議だ。そして改札に目をやると、私は驚きの声をあげてしまった。
「え!? なんで」
「あれ? おーい、渋沢!」
改札から出てきたのは、まもちゃんだった。
仕事をしている時とは違う、スーツ姿で寝癖もない。そして、あの瓶底眼鏡ではなく、ちょっとお洒落な黒縁の眼鏡をかけている。どこかに出かけていたのだろうか。
すると、まもちゃんが私の方を見て、にこりと笑いながら「お疲れさま」と声を掛けてくれた。
「ちょっと出かけてたから、時間も時間だったし、香澄を迎えに行けるかなぁって思って。すれ違いにならなくてよかったよ」
「迎えにって、どこか行ってたの?」
「うん。まぁ、取材ってとこかな」
肩を竦めながらおどけてみせるまもちゃんは、少し窮屈な首もとのネクタイを緩めながら、えへへ、と小さく笑った。そんな彼の笑顔を見て、うっかり可愛いと胸をきゅん、とさせたことは、彼には内緒にしておこう。可愛いって言葉は、男性にとって褒め言葉にはならないらしい。女性からすれば、褒めてるんだけど……やっぱりカッコイイと言われたいものなのだろうか? 男心とは難しいものだ。
勝手に一人で色々思い巡らせているうちに、内海先輩がまもちゃんの首元に腕をまわし、軽いヘッドロックをかけていた。一体、どういう流れでこうなった!? と眉を寄せながら二人を見ていたが、ただ単にじゃれあっているようにしかみえない。どうやら内海先輩は、もうすっかりまもちゃんの女装のことを許してくれているようだ。と、思ったが、ほんの少し苛めっ子の内海先輩が顔を出した。
「あーあ。せっかく香澄ちゃんと二人きりで呑みに行くところだったのに。渋沢がこんなところまで来るから二人きりになれないじゃん」
「香澄と、二人きり?」
「そうだよ。せっかくこれから口説こうと思ったのに」
ふふん、と鼻で笑う内海先輩は、女性社員に騒がれている時の、ちょっとイイ顔をしながらまもちゃんを挑発する。そもそも呑みに行くこと事態、早々にお断りした筈だ。しかし、まもちゃんは内海先輩の言葉を真に受けて、真っ青になっている。
「いやいやまもちゃん。これは冗談だから」
「ほ、本当?」
「もう! 内海先輩、意地悪しないでください。まもちゃんは信じやすいんですから」
「渋沢ばっかり幸せそうだから、ついね」
そう言いながら、内海先輩は私達の先を行く。そして大きく手を振って、「お疲れ」と言いながら微笑み、改札口へ吸い込まれていったのだった。
まもちゃんと二人になり、ちらりとまもちゃんを見上げる。すると、少し元気がないように見えた。
「どうしたの? まもちゃん」
「……いつのまに僕はこんなに人を信じやすくなってしまったのかなぁ」
確かに。付き合う前のまもちゃんは、今みたいに人を信じる信じない以前に、人を寄せ付けないところがあった。どこか人と壁を作り、それがどんどん剥がれていき、今のように信じやすいまもちゃんになっていったような気がする。
「まもちゃん。人を信じるって良いことだよ? 私は、そう思う」
「香澄がそう言うなら、それでいいや。それじゃ、帰ろうか。……あ、香澄。手、出して」
「はい?」
まもちゃんに言われるがままに手を差し出すと、手のひらにポンと乗せられた小さなお菓子。
「毎日残業頑張っている香澄に、ご褒美」
手のひらに乗せられたのは、小さな苺の包み紙に包まれたキャンディだ。包み紙をくるくると剥がし、淡いピンク色のキャンディを口に頬張る。それは苺ミルク味の、優しくて懐かしい味だった。
「じゃ、行こう」
そう言って、さっ、と目の前に差し出される手のひらに、そっと自分の手を重ねる。じんわりとまもちゃんのぬくもりが伝わって、ゆっくり体温が上がっていくのを感じる。
前もこうやって、手を繋いで駅までの道を歩いたっけ……。
さりげなく車道側を歩いたり、少し前を歩いて人にぶつからないように盾になってくれたり、歩調を緩めて私に合わせてくれたり、紳士的なまもちゃんの態度に、私は嬉しさを噛み締めていたなぁと思い出す。今もその時と変わらず、まもちゃんは私を守るように歩いていく。狭い肩幅に広くない背中だけど、逞しさを感じるその背中を見つめるのが大好き。
まもちゃんの背中を見つめながら、口の中でころころとキャンディを転がす。そしてそのキャンディはまもちゃんに片思いしていた頃のことを思い出させ、私はバッグから手帳を取り出した。
その手帳の一番後ろのクリアポケットに、一枚の紙切れが入っている。可愛い可愛い、苺柄の包み紙。
「懐かしいな」
まもちゃんに聞こえないように、ぽつりと呟いた。
苺柄の紙は、前に残業を手伝ってくれたまもちゃんからの初めてのご褒美。
あの時の甘さを忘れない。甘くて優しい、苺ミルクのキャンディの味。優しい甘さに包まれて、まるでまもちゃんのようだと思った、あの残業の夜。
いつまでも、この気持ちの原点を忘れないように、大事に大事に手帳にしまって。時々、片思いの頃の甘酸っぱい気持ちを思い出しながら、私は前に進んでいく。
優しい思い出が詰まった手帳をバッグへしまい、まもちゃんの手を握る手に、少しだけ力を込めた帰り道だった。