39・甘えちゃうかも
リビングのドアを開き、賑やかだったリビングが急に静かになる。それと同時に私の緊張も限界を越えてしまいそうだ。
ソファーに腰をおろしているまもちゃんのご両親の視線が、まもちゃんをすり抜けて私へと向けられると、私は深く頭を下げた。
「ははは初めまして! まままま前園かしゅみです」
「香澄ちゃんったら噛んでるよー」
くすっと笑いながら私につっこみを入れたのは翠ちゃん。そして私は真っ赤に顔を染めたまま、また自己紹介をやり直した。
うわぁん! 大失敗だよー!!
心の中でさめざめと泣きながらも、表面では笑顔を浮かべている。緊張しすぎて自分が立っているのかすらもよくわからないくらいだ。握り締めた手は震え、笑顔はきっと引きつっているだろう。こんな私に、まもちゃんのご両親は、とても優しく微笑んでくれた。
「そんなに緊張しないで。ね?」
わざわざソファーから立ち上がり、私の肩を撫でる優しい手は、やっぱりまもちゃんの母親だ。まず人を安心させようとしてくれるところなんて、そっくり。笑顔が優しいのも、まもちゃんと同じだ。私はその笑顔を見て、ホッとした。
まもちゃんのお母さんは私とまもちゃんをソファーに座らせて、改めて口を開く。
「香澄さん、初めまして。守の母親です。そしてこちらは主人です」
まもちゃんのお母さんの隣に座っているお父さんはは、見た目は少し強面な感じだけど、にこりと微笑むと意外にも可愛らしい笑顔を見せる。
しばらくご両親の海外での話や、まもちゃんたち兄妹の小さな頃の話などに華を咲かせていると、まもちゃんのお母さんが真剣な表情でまもちゃんと向き合った。
「守。あなた、本当に漫画家を続けるつもりなの?」
私とまもちゃんは驚きを隠せなかった。
まもちゃんのご両親に、まもちゃんは漫画家になったことを話していなかったはずなのに、どうして知っているのだろう。あまりにも私達二人が驚いているので、まもちゃんのお母さんは察したかのように言葉を付け加えた。
「誠吾さんに聞いたのよ。どうか守を応援してやってほしいって」
「父さんに……? そっか」
「で。どうなの? 続けるつもりなの?」
「母さんが漫画嫌いなのは知っている。だから言えなかったけど、僕はこの仕事に誇りを持っている。だから、続けていきたいと思ってるんだ」
その後、しばらく沈黙が続いたが、まもちゃんのお母さんが大きく息を吐くと、穏やかな笑みを浮かべていた。
「守が決めたのなら、私は応援する。そのかわり、この道は決して楽ではないの。今売れていても、次が売れなければ食べていけない。読者の期待に応える作品を作っていく、プロの仕事は厳しいの。その覚悟はある?」
「聞かれなくても、覚悟がなければこの世界に足を踏み入れないよ」
「……そう。それなら私は何も言わない。守がやりたいようにやりなさい」
「ありがとう、母さん」
やっぱりまもちゃんのお母さんは、まもちゃんの味方だ。でも、釘を刺すことを忘れないのはさすがだ。きっと、厳しい現実を知っているからこういう忠告ができるんだろうな。だって私だったら、手放しで喜ぶしか出来ないと思うから。
まもちゃんの仕事がお母さんたちに認められて、どこかホッとしたのかまもちゃんの表情はとても明るい。モヤモヤしていたものが全て吹き飛び、ようやくまもちゃんの本当の笑顔を取り戻したかのようだ。その様子を見ていたら、なんだか私も凄く嬉しい。まもちゃんが嬉しそうに笑っている姿を見るのが、私にとって幸せなのだから。
「ところで守。今日だけ私達、ここに泊まっていくつもりなんだけど」
「ああ、構わないんじゃない? だってここは母さんたちの家でもあるんだし」
「じゃあ、夕飯は香澄ちゃんも一緒に食べましょうよ」
「あ、香澄と僕はこれからでかけるから」
え? まもちゃんとこれからでかける? そんな約束してたっけ?
約束を思い出せなくてキョトンとしていると、まもちゃんが私の方を向いてニコリと微笑む。そして私の手を握り、リビングにいる家族に向かって、少し照れくさそうにボソリと呟いた。
「……今日は香澄と二人きりで過ごしたいから」
頬を染めながら呟くまもちゃんは、やがて顔いっぱい赤くなり、私の手を強く引いてリビングから出て行った。
玄関を出てからも、まもちゃんの腕は私を強く引っ張る。目の前にある、照れた背中がなんだかやけに可愛くて、思わず私の顔もほころんだ。人前で照れくさいことを言うのが苦手なはずなのに、兄妹や両親の前で「二人きりで過ごしたい」と言ってくれたまもちゃんが、たまらなく愛おしい。大好き、まもちゃん。
ぐいぐい引かれた腕が少し緩み、まもちゃんは足を止めた。そして私の方に振り向くなり、頭を深く下げたのだ。
「ちょ、ちょっとどうしたの!?」
「ごめん! なんだか無理矢理連れ出したみたいな形になって」
「そんな、気にしてないから頭を上げてよ」
まもちゃんが頭を上げ、私と目を合わせる。そしてふわりと笑い、私の体を引き寄せる。暖かなまもちゃんの腕の中に閉じ込められた私は、少しの戸惑いと、眩暈がするほどの幸せを感じていた。自分の居場所は、やっぱりここだ、と。
「今日は、僕と一緒にずっといてほしい。……だめかな」
「ダメじゃないよ! むしろ嬉しいよ」
「良かった。握手会が終わったら、香澄と一緒に過ごしたくて……部屋、予約してあるんだ」
「部屋?」
一瞬、なんのことだかわからなかった。
部屋って、部屋ぁぁぁ!? ホテルの部屋ってことだよね。
実はまもちゃんと私、ホテルに泊まったことなんて一度もない。急に心臓がドキドキと激しく鼓動を打ち始め、私はその場で固まってしまった。まもちゃんの腕の中で急速に高まる緊張感が、まもちゃんに伝わってしまったらどうしよう。そんなことを考えていたら、まもちゃんが私の耳元にくちびるを寄せて、甘い声で囁いた。
「僕の方が、甘えちゃうかも。そしたら……ごめんね?」
いつも甘えさせてくれるまもちゃんが、私に甘える?
耳にいつまでもまもちゃんの甘い声が、こだまする。二人で過ごすなんて、慣れているはずなのに……私の心臓は、ドキドキしすぎて壊れそうなほど高鳴っていた。