37・握手会
内海先輩と共にまもちゃんが見える位置まで行くと、少し高くなっている場所にまもちゃんが立っているのが見えた。その姿を見て、隣にいる内海先輩は首を傾げている。
「なんで守が?」
「……」
私は何も答えられなかった。
これからまもちゃんが話すことを、内海先輩がちゃんと受け止めてくれればいいなぁと心から思った。
しばらく会場内はざわめきが収まらず、まもちゃんも少々困惑している。しかし、そこで怯まずに、しっかりとマイクを握り締めて会場に来てくれたお客さんへと言葉を投げかけた。
「今日は、握手会の前に皆様にお詫びをしなくてはなりません」
マイクを通してまもちゃんの声が会場内に響き渡ると、ざわめきたっていた会場が少しずつ静けさを取り戻していく。そして、まもちゃんは真っ直ぐ前を見据え、いつもより少し声を張り上げて話を始めた。
「前回の握手会で、僕は皆さんに嘘を吐きました。本当は男なのに女性のフリをして皆さんの前に立ちました。性別を偽っていたこと、深くお詫び申し上げます」
言葉の終わりと共に深々と頭を下げるまもちゃんの姿に、私は胸を打たれていた。
このまま、まもちゃんが本当のことを言わなくても、きっとバレはしないだろうし、バレたとしても何も言わなければそれで済むと思う。実際、性別を偽っている人もいるだろうし、顔を晒さない人だっているのだ。少々の嘘くらい、なんてことないはず。でも、まもちゃんは真面目すぎる性格の持ち主だ。一つの嘘が心苦しくなってしまうだろう、と父親の誠吾さんは言っていた。これはまもちゃんの大きな一歩。しっかりと見届けたい。
まもちゃんが深々と頭を下げている間、会場内のざわめきは収まる気配がない。その時、小さいながらもぱらぱらと拍手が聞こえてきたのだ。小さい拍手は、やがて大きなものへと変化していき、やがて会場内を揺るがすほどの大きな拍手に変わっていった。
まもちゃんの作品が好き。そう言ってくれているお客さんが殆どで、皆がまもちゃんを受け入れてくれたのだ。勿論、女装していたまもちゃんが好きでファンになった人には受け入れてはもらえなかったようだけど、まもちゃんの表情はとても優しく、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「うう……まもちゃん、良かったよぅ」
目には涙、鼻から鼻水、そんな私の泣き顔は誰にも見せられないけれど、まもちゃんが一つのことをやり遂げたことが嬉しくて、そしてその場にいられたことが幸せで、つい、人目を気にせずグスグスと泣き喚いていた。ハンカチで涙を拭い、ふと気付いてしまった。隣にいる内海先輩が、固まってしまっていることに。
「う、内海先輩?」
「……守が、彼女だったというのか? そんな馬鹿な!」
「あの」
「いや。きっと嘘に違いない。この俺が守の女装姿にときめいた、だと?」
「あの」
「これは夢だ。夢に違いない」
ぶつぶつと念仏のように一人で喋っている内海先輩は、今にも砂となり風に飛ばされてしまいそうなほどショックを受けている。そんな彼が哀れで、どんな言葉をかけていいのかわからない。だから、私はそっとしておこう。そう思い、再びまもちゃんに目を向けたのだった。
その後、握手会は滞りなく終わり、まもちゃんは右手を押さえながら私の元へと帰ってきた。沢山の人と握手をしたので、まもちゃんの右手が少し腫れてしまっているようだ。
「まもちゃん。お疲れ様。手、大丈夫?」
「香澄……ありがとう。でも大丈夫。今、すごく晴れ晴れとした気持ちなんだ」
「そう。それは良かった。でもね、ちょっとあっちにショックを受けている人がいるんだけど」
「あ……」
私の指先の方にいる人物を見て、まもちゃんが苦笑いを浮かべている。部屋の隅っこで小さく体育座りをしている内海先輩。持ってきた大輪のバラの花束までもが、どこかどんよりしているように見える。
まもちゃんは内海先輩の背中に少しずつ近づき、小さくまるまっている先輩の肩を遠慮がちにポン、と叩いた。
「内海、騙しててごめん」
ゆっくりと振り向く内海先輩の表情はどんよりと曇っている、というよりも地獄にでも落ちたような鬼の形相をしていた。その表情に一瞬まもちゃんは怯んだが、負けないように真っ直ぐ内海先輩を見据え、次の言葉を待っている。
「俺を、騙すつもりだったのか」
恨めしそうに内海先輩がまもちゃんに言うと、まもちゃんは大袈裟すぎるほど首を横に振った。思わずその首が飛んでいってしまうのではないかと思ってしまうほど、大きく大きく横に振る。そしてまもちゃんは内海先輩の前で正座をし、大きく体を前に曲げた。
「本当にごめん! どうしても言い出せなかったんだ。内海を騙そうなんて気持ちはこれっぽっちもなかったけど、僕が臆病なせいで傷つけてごめん」
しっかりと内海先輩に謝罪の言葉を述べ、まもちゃんは床に額をこすりつけて土下座をした。でも内海先輩は何も言わない。それどころか再び小さく体育座りをして、大きな溜息を吐く始末。まもちゃんは、おろおろとするばかりだ。
しかし、次の瞬間。内海先輩がくるりとまもちゃんの方を向き、両手でまもちゃんの腕を力強く掴んだ。
「もうこの際だから、守! 性転換してくれよ! それで俺の彼女になれよー!」
あまりのショックで、涙を浮かべながらまもちゃんに性転換しろなんて、とんでもないことを言う内海先輩。まもちゃんは思いがけない言葉を向けられて、何も言えなくなってしまった。でも、ここで内海先輩に反抗したのは、他でもない、この私だ。
「何言ってるんですか! そんなのダメに決まってるじゃないですか! 私からまもちゃんを盗るつもりですか……?」
「このショックから、どう立ち直れって言うんだ。好きになったと思ったら、実は男でしかも親友。二重に裏切られたんだぞ、俺は!」
「内海先輩なら大丈夫です。女性にモテモテじゃないですか! やっぱりかっこいい人はオーラも違うし、なんていうか華がありますしね!」
なるべく早くショックから立ち直ってもらわないと困るので、一所懸命内海先輩を褒めちぎると、どんよりと暗くなっていた内海先輩の表情がどこか嬉しそうに、口端が持ち上がっている。
「……そ、そうかな?」
照れながら、ちらりと私を上目遣いで見上げる内海先輩は、嬉しそうに頬が紅潮している。なんと簡単な男だ! と内心思いながらも、完全に立ち直ってもらうために私はなおも内海先輩を褒めちぎる。
「うちの女子社員の半分は内海先輩のこと好きって聞いたことありますよー。出世も秒読みだって噂だし、取引先の企業の方も内海先輩だと契約するのが安心だーなんて言ってましたよ!」
やばい。調子に乗って言い過ぎたかな。あまり持ち上げられると、人間かえって不審に思うだろうけれど、やっぱり内海先輩は普通とは一味違う。
「そ、そうか。まぁ、知ってたけどね」
すっかり機嫌を良くした内海先輩は、すでに満面の笑みを浮かべて、少し自慢げに背を反らしている。呆れるほど単純な内海先輩、でもそれが内海先輩の良いところでもあるのかもしれない。
ご機嫌になった内海先輩が立ち上がり、大輪のバラの花束をまもちゃんに手渡した。
「これは俺からのお祝いだと思って貰ってくれ。そしたら、俺はこれで」
そう言いながら背を向けて歩き出す内海先輩は、後姿もやっぱり浮いている。ドレッシーなスーツで握手会に来る人なんていないので、皆が同じように彼を振り返る。
ああ、それにしてもひとまず握手会は終了だ。内海先輩も案外早く立ち直ってくれたし、本当に良かった。
ちらりとまもちゃんを見上げると、何やら手にカードらしきものを持ったまま、固まっている。
「まもちゃん?」
「……」
固まったまま動かないまもちゃんの手元のカードを覗き込むと、それは内海先輩の花束についていたメッセージカードのようだ。
『結婚してください 内海』
たったひと言だけ書かれていたプロポーズの言葉。こんなことカードに込められても、絶対貰ったほうはドン引きに違いない。
「す、ストレートな奴だなぁ」
苦笑いを浮かべるまもちゃんの姿が、とても印象的だった。