35・翼があったなら
「やっぱり君は強気でイイ女だ!」
満面の笑みを浮かべながら両手を広げる藤野社長の仕草は、あまりにも大袈裟で思わず呆気にとられてしまう。そして訝しげに彼を見つめると、彼はスラックスのポケットに手を突っ込みながら私に問い掛ける。
「返事は君次第。君が我が社に来るというのなら、この契約は成立する。だけど、君が否を唱えるのなら、契約は破談だ。さぁ……どうする?」
先程、契約相手の社長に向かって「馬鹿」と叫んだことは怒っていないようだ。むしろなぜか喜んでいるようにも見えるから不思議だ。
契約破談は、まだされない。ここで私が返事をするのなら、会社は安泰だ。でも、私、藤野さんの会社には行きたくない。どうしたらいいの?
苦渋の決断を迫られて、私は頭を抱え込む。すると、藤野さんは鼻で笑いながら私に手を差し伸べて、きっぱりと言い切ったのだ。
「君には、何不自由のない生活を約束しよう。今のまま、強気な君でいてくれればそれでいい。仕事も比較的楽なものを与えるよう手配しておこう。……さぁ、部屋に戻ろうか。返事は皆の前でしてくれ。良い返事を期待しているよ」
藤野さんの中では、すでに私の返事が「YES」だと決まっているようだ。でも、私はまだ悩んでいる。まもちゃんとの思い出がつまった会社を窮地に立たせるようなことはしたくない。けれど、会社の為に自分の意思に反したことをするのは、やっぱり何かが違うと思う。
藤野さんの背中を追うように庭を出て、再び個室へと足を運ぶ私達。部屋に辿り着くと、そこには先程よりも人数が一人増えていた。その姿を見て、思わず声を上げた私を見つめる瞳は、とても優しい。まさかこんなところで会うなんて、思いもしなかった。
「藤野社長、どうも」
「な、なんで黒川社長がここに!?」
「いや、久しぶりにここで食事したいなぁと思ってね。そうしたら君がここにいるって玄関にいる君の部下に聞いてね、顔でも見に行こうかなぁと思ったんだ」
「それは……とても光栄ですが」
藤野さんの顔色が優れない。黒川社長は、相変わらず素敵な笑顔で、飄々と嘘を言いのけた。ここで食事をしたい、なんて嘘。絶対資料を読んで、この場所で接待を行うことを知っていたに違いない。どこか確信めいたものが私の中にはあった。
「やぁ、香澄ちゃん。元気かな?」
「か、香澄ちゃん……」
元気かなって。黒川社長とは昨日会ったばかりなのに、あまりにもわざとらしい彼の挨拶に、思わず吹き出しそうになってしまった。けらけらと明るく笑う黒川社長は、とても社長には見えないくらい砕けていて、とても話しやすい年上のお兄さんという感じがする。先程の契約条件の上乗せによって暗い表情をしていた社長と部長に、少し明るい色が戻っている。どうやら黒川社長は、場の雰囲気を良くする力があるみたい。
しかし、明るいお兄さんの顔は、次の瞬間、すっかり消えていたのだ。目の前にいるのはビジネス用の顔をした『黒川社長』だ。お兄さんなんて気軽に声をかけられるような感じではない。表情一つで、こんなにも雰囲気が変わる人を、私は初めて見たかもしれない。
「藤野社長、どうやら契約をするのに、条件をつけたとか」
「それは、黒川社長には関係ないのでは?」
「いやいや。彼女が絡むような契約条件なら、私は引かないよ? 彼女は私の妻にとって命の恩人なんだから。彼女を悲しませるようなことをするのなら、黒川を敵に回す、と言っているのと同じだ」
黒川商事を敵に回す。それは企業にとって脅威になるだろう。それほどまでに黒川という企業は、信じられないくらい業績を伸ばし続けている。何より長く続いている歴史ある会社だから、他企業との繋がりもある。そんな会社を敵に回すなんて、誰もしないだろう。現に藤野さんの額には汗が滲んでおり、顔色もかなり悪い。先程まで私と一緒にいた時の、自信に満ちた藤野さんの姿は、欠片もなくなっていた。
黒川社長は、ふっ、と笑みを零すと、私の方を向いて声をかける。
「さぁ、契約の条件は無しだ。そしてこの契約話、私も混ざっていいかな?」
「黒川社長が契約話に!?」
「ああ。だから香澄ちゃん、君はもう帰りなさい。せっかくの日曜日だ、どこか出かけたいよなぁ。さぁ、行きなさい」
黒川社長は、どこまでお見通しなの? 私がまもちゃんのところに駆けつけたいことを知っているの? そんな話は一切していないのに、黒川社長の配慮が今の私にはありがたかった。
座敷から荷物を取り、社長や部長に挨拶をして私は座敷から抜け出した。
まだきっと間に合う。まもちゃんのサイン会にはきっと間に合わせてみせる。握手会で自分が性別を偽っていたことを話すまもちゃんは、きっと心細いに決まっている。だから一刻も早く、彼の元に辿り着かなくちゃいけない!
まもちゃん、待っててね!
お行儀は悪いけれど、長い廊下を走り抜けて玄関まで辿り着いた。靴箱から靴を取り出し、そのまま駆け出そうとすると、私の前に一人の男性が立ちはだかる。その人はとても大きくて、私とは全く面識のない人だ。
「申し訳ありませんが、藤野社長に、あなたをここから出さないように言われているのでお戻りください」
「そんな!」
その男性が私の腕を恐る恐る掴もうと腕を伸ばすと同時に、「ぎゃ」と品の無い悲鳴あげた。目の前の男性が腕をとられ、背中で捻られている。そこにいたのは、黒川社長といつも一緒にいる、秘書の一柳さんだった。
「一柳さん!」
「前園様、お怪我はありませんか? 全く……女性に手をあげようとするなんて、とんでもない輩ですね」
呆れたように溜息を吐き、腕を捻っている男性を前へと突き飛ばした一柳さんは、涼しい顔をしたまま手を叩く。そして私に微笑みかけるその姿に、うっかりときめきそうだ。
「さぁ、お送りしましょう。ここは駅から遠いですからね。ご自宅までお送りいたしましょうか?」
一柳さんは車のキーを私に見せて、前を歩く。本当なら断らなきゃいけないってわかっているのに、今日はどうしても早く、まもちゃんのところに行きたい。
「あの! 駅まででいいんです、お願いできますか!?」
都内は道が混みやすい。渋滞なんかに巻き込まれたら大変なので、私はここの最寄り駅から電車で、そう遠くない握手会の最寄り駅まで送ってもらうことにした。
一柳さんが車を料亭の玄関前まで持ってきて、私は後部座席に乗り込む。そして祈るように両手を合わせ、まもちゃんのことを考えていた。
ああ、こんなとき翼があれば、まもちゃんのところに飛んでいくのに! そう思わずにはいられないくらい、私の心は焦りの色に帯びている。大事な人の大事な場面を、ちゃんと見守りたい。
まもちゃんのお守りを握り締め、私はゆっくり目を閉じたのだった。