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34・契約の条件


 翌日、いよいよ接待の日がやってきた。

 昨日は仕事を終わらせてからまもちゃんと電話はできたけれど、握手会の準備やら打ち合わせやらで忙しいのか、五分ほどしか話はできなかった。その時、何度も「無茶はしないで」と念を押されたのだ。

 大丈夫、大丈夫。冷静に、冷静に。

 自分に言い聞かせるように心の中で呟き、胸にまもちゃんから貰ったお守りを握り締めた。

 今日の接待は、忙しい藤野社長のスケジュールの合間を縫って行うことになっている。通常なら夜に行われる料亭での食事は、少々早いけれど昼間になっていた。店も藤野社長のお気に入りということで、指定の料亭の個室を押さえてある。真新しい畳の良い匂いがする座敷は、塵一つ落ちていないほど丁寧に掃除が行き届いており、床の間には立派な活け花が飾られている。掛け軸なんかも掛けられているけれど、正直何が書かれているのかはさっぱりだ。

 個室のチェック、料理やお酒などのチェックを完璧に済ませ、料亭の玄関先で藤野社長が着くのを私と部長、そして話なんてしたことがない社長とその秘書が並んで待っていた。程なくして一台の車が店の前にやってきた。その車の後部座席からは藤野社長が優雅に出てきた。


「お待ちしておりました」


 深々と頭を下げる社長。藤野社長よりも何十歳も年上なのに、何度も何度もぺこぺこと頭を下げる。それだけ、この契約が大事なのだろう。私も深々と頭を下げて藤野社長を迎えたのだった。

 座敷に案内を済ませ、穏やかな談笑が続く。

 藤野社長は社長らしく堂々と振舞い、そして私に対して何をしようとするわけもなく、仕事の話をしている。

 良かった。この調子なら何事もなさそうだわ。

 空いたグラスにビールを注ぎながら、内心ホッとしていた。

 だが、その気の緩みを見透かされたのか、藤野社長の視線が私に降り注ぐ。そして、しばらく凝視した後、楽しそうに笑い声を上げた。


「いやいや、君が本当は来ないんじゃないかなぁって心配していたんだよ」


 ぽん、と肩を叩かれ、わはは、と笑う藤野社長。

 来なくていいなら来たくなかったわよ! と心の中で悪態をつきながら、にっこりと微笑み、ビールを注ぐ私。こんな席で何を話したらいいのかわからないので、ボロを出すくらいなら黙って微笑んでいたほうが無難だと踏んだのだ。


「君がここに来るのが条件とは言ったが、契約の条件をもう一つ増やしてもらうよ。社長、それでいいでしょうか?」


 藤野社長は突然、契約についての話を始めた。話の流れを突然断ち切り、契約の話に持っていくなんて吃驚だ。うちの会社の社長は、恐る恐るその条件とやらを聞き、藤野社長は楽しそうに、そして愉快そうに笑いながら私の肩を抱き寄せた。


「あ!」


 あまりにも強い力で引き寄せられたので、藤野社長の肩にそのまま頭をもたれるような体勢になり、私は慌てて藤野社長から離れようとした。だけど、藤野社長の力は緩むことなく、私の肩を力強く抱き寄せたままだ。目の前にいる部長も社長も、困ったような表情で、でも何も言えずに座ったまま。

 誰も助けてはくれない。自分がなんとかしなくちゃ!

 そうは思ったものの、破談になってしまってはせっかく準備してきたものが全て水の泡だ。肩に置かれた手はかなり不愉快だったけれど、必死で堪えて笑顔を見せた。大人の女の余裕を魅せる! なんてスキルは私にはないので、笑顔もきっと引きつっていたに違いない。仕方ないので、藤野社長の付加条件を話しだすまで待つことにした。すると、藤野社長が私の方を向き、ついに条件とやらを話し出した。


「彼女を、私の会社に引き抜くこと。それが条件です」


 誰もが口を開く事ができなかった。

 それはあまりにも唐突で、そしてあまりにも意外な条件だったからだ。

 私を引き抜く? この私を? こんなふつうのOLを引き抜いて何がしたいの?

 頭の中はクエスチョンでぎっしり埋まっている。きっと、社長や部長、秘書の方々もそうだろう。私を引き抜いたからといって、藤野社長の会社に有益になることなど何もない。数字や資料と睨めっこすることや、お茶を淹れることくらいしか出来ないのに、一体どうしてこんな条件を? ますます理解できないこの男の言動を理解するのは、どうやら無理そうだ。その時、藤野社長が席を立ち、私の手を強引に引き上げて立たせた。そして再び肩を抱かれて、楽しそうに話し出す。


「少し外の空気を吸ってくるよ。ここは庭も美しいからね。こちらの女性を、お借りするよ」

「え、あの……!」


 ぐいぐいと引っ張られて個室を出て行く私達。座敷には唖然としたままの社長と部長の顔が、少し見えたまま襖は閉められてしまったのだった。


 料亭の庭は見事な日本庭園で、植木の手入れは完璧だし、小さいながらもちゃんとした池があり、中には立派な錦鯉が華麗に泳いでいる。その日本庭園が見渡せる、一番良い場所に席が設けられており、私と藤野社長はそこに腰をおろした。そして開口一番、私は藤野社長を責め立てた。


「なんですか、あの条件は!」

「なんですかって、君を近くに置くにはこれが一番良いだろう?」

「人手が欲しいなら募集したらどうですか!?」

「あのねぇ……」


 呆れたように溜息を吐き、藤野社長はちょっと楽しそうにくっくっ、と喉の奥で笑っていた。


「見合いのときに言った筈だよ? 私は諦めが悪い、と。君を近くに置くには私の会社で、そして誰よりも私の傍で働いてもらうのが一番だ。そのほうが君を拘束しやすい」

「諦めが悪いと言われても、私にはちゃんと恋人がいます。藤野さんとはお付き合いなんてできませんよ?」

「嫌だ、と言わせないようにすることは容易いんだよ。私には地位も名誉も金もある。何でもできる。あんな貧相な恋人とは別れて私と付き合ったほうが絶対に君には良い」


 改めて、彼を本当に嫌なやつだと思った。

 地位? 名誉? 金? そんなものに目がくらむ私ではない。そして、そんな権力に屈する気なんてさらさらない。こんなお決まりのような台詞を吐くような男が、私は大嫌いだ。そう思ったときには、すでに私は冷静ではいられなかった。


「馬鹿みたい! 地位も名誉も金もある、だからなんだっていうのよ! そんなことで私はまもちゃんから離れたりしないんだから。しかもまもちゃんは貧相なんかじゃない!」


 激しく捲くし立てた後、はっ、と気付いたときには、もう遅かった。

 今日は冷静でいるんじゃなかったの? 私!

 でも今となってはもう遅い。それに私は沢山の暴言を吐いたことを、後悔していなかった。まもちゃんの悪口を言われて黙っていられるほど心の広い女じゃないのよ!

 眉間に皺を寄せながら、藤野社長を睨みつける私。

 ああ、会社の皆さんごめんなさい。きっとこの契約は白紙に戻るでしょう……。

 辞表を書かなきゃなぁ、と、どこか冷静な私がいた瞬間だった。

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