33・黒川と一柳
デレデレの表情で延々と可愛い我が子の話をするのはいいけれど、一体いつまで続くのだろうか。それにどうしてここがわかったの? 疑問はいくつもあるけれど、なかなか口を挟ませてはもらえそうもない。始めはちゃんと出来ていた笑顔も、少々引きつってきてしまった。そんな私の様子に気付いたのは、目の前にいる社長さんではなく、傍で控えていた第一秘書の一柳さんだ。
「社長、ご自分のお話はそろそろその辺にされては如何ですか?」
「あ……っと、すまない。つい、昨日の感動を話したくて話したくて」
照れくさそうにぽりぽりと頭を掻いた社長さんは、改めて姿勢を戻し、私に自己紹介を始めた。
「私は黒川譲といいます。昨日は妻が大変お世話になったとか。どうしてもお礼が言いたくて押しかけてしまったが……迷惑ではなかっただろうか」
「いえ、そんな迷惑だなんて。それにしても奥様が無事にお子様をご出産されて、良かったですね」
「本当に君のお陰だ。ありがとう。感謝してもしきれないくらいだ。それと、昨日病院にこれを忘れていったようだったので届けにきたのだが」
そう言って一柳さんが黒川社長の後ろから控えめに差し出してきたのは、私が今朝、なくしたと思っていたファイルだ。ファイルの中には、会社名も私の名前も書かれている。きっとそれを見て届けてくれたのだろう。
差し出されたファイルを両手で受け取り、私は思い切り頭を深々と下げた。
「ありがとうございます! 探していたんです……良かった」
ファイルを胸にぎゅっと抱きしめ、ホッと安堵の息を吐いた私を、ジッと見つめる黒川社長は、何かを考えているのか顎に手を当てたまま黙ってしまった。
「あの、何か?」
「あー、その、ファイルの持ち主について何か書かれていないかと思い、無断で中を見てしまったのだが、これは接待の資料だね?」
「ええ。それが何か」
「その、接待には君が行くのか?」
「はぁ。その、藤野社長のご指名ですので、断れなくて」
「藤野の指名、か」
黒川社長は、どうやら藤野さんのことを知っているようだ。社長同士の繋がりでもあるのかと思いきや、秘書の一柳さんが言ったことに私は驚きを隠せなかった。
「藤野社長と言えば、最近はあまり良い噂を聞きませんね。会社の急成長と共に社長の黒い噂も多く出回っております。特に女性関係の噂は絶えません」
「じょ、女性関係ですか?」
「ええ。女性の前ではとても言い難い内容ですが、確かな情報です。……その接待、貴女はご同行されないほうがよいのではないかと思いますが」
「そんなこと言われましても、突然キャンセルなどしてしまっては契約が破談になってしまいますし」
口ではそんなことを言いながらも、正直怖くなってしまった。
そんな噂なんて聞いたことはなかったし、部長だって何も言っていなかった。
藤野社長が直々に指名したのは、お見合いの時に私を気に入ってくれたからなのかと思ったけれど、それは違うのだろうか。女性関係の噂、女性の前では言い難い内容、そんなこと言われてしまったら明日の接待に行くのが本当に怖い。でも、今更キャンセルするわけにもいかない。
色々考え込んでいると、黒川社長の大きな手が私の肩に置かれ、にかっと白い歯を見せて笑う。
「……あまり考えすぎるな。でも、気は張っておけ。嫌なことはきちんと断ること。接待だからって何でも許していいわけじゃない」
「はい」
「よし。大丈夫だ。そんなに心配そうな顔するな」
黒川社長の言葉は力強くて、とても励みになる。太陽のような笑顔を浮かべ、ぽんぽんと肩を叩かれると、なんだかとっても気持ちが軽くなった。
不思議な人だなぁ。あんなに怖くて緊張していたのに、いつのまにか早鐘を打っていた心臓も穏やかになっている。
「あの、ありがとうございます。なんだか、とても落ち着きました」
「そうか、それは良かった。あ、それと君の連絡先を教えてもらいたい」
「連絡先ですか?」
「妻がどうしてもちゃんとお礼を言いたいと、そして無事に生まれた子供を見てほしいと言っているんだ」
何度も何度も断ったが、負けました。黒川社長にすっかり言い包められ、私は携帯の番号を教え、改めて自分の自己紹介もする羽目になってしまった。まぁ、生まれた赤ちゃんに会いに行けるのはとても嬉しいけれど、この強引さにはすっかり参ってしまった。これが急成長している会社の社長パワーなのだろうか。
無事ファイルが手に戻ってきたことは嬉しいけれど、なんだかすっかり気が重くなってしまった。接待は無事に終わるのだろうか。さくっと終わらせて、まもちゃんのところに一刻も早く駆けつけたいのに。
話は済んだのか、黒川社長と一柳さんは一礼をすると、満足気に会社を去っていった。その後ろ姿を見て、急にどっと疲れが出たのは言うまでもない。
色々、不安なことはあるけれど、私にはこれがある。まもちゃんから貰ったお守りをそっと胸に抱いて、愛しい彼の顔を思い出していた。
まもちゃん……頑張るよ、私。
弱音は吐かない。決めたことは貫き通す。まもちゃんが頑張ろうとしているのに、私がここで怯んではいけない。
自分に言い聞かせて、再び目の前の仕事にとりかかったのだった。
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