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32・ファイルの行方


 目の前の男性は丁寧な挨拶と共に深くお辞儀をし、特に必要もないのに名刺まで手渡してくれた。正直、なんと言葉を返せば良いのかわからず、私はただ、頂いた名刺を両手に持ち、彼を見つめ返すしかできない。

 しばらく呆然としていたが、やがて一柳さんという方が目を細めて優しく笑いかけ、言葉をかけてくれた。


「今日は本当にありがとうございました。奥様が大変な時にずっとついていてくださったのですよね。黒川に代わりお礼を申し上げます」

「いえ、そんなに何度もお礼なんて言っていただかなくても……でも、無事に産まれたようですね。本当に良かった……」


 私はホッとして体から力が抜けた。やっぱり緊張していたのだろうか。体から力が抜けた途端、急激な眠気に襲われた。このままここにいるよりも、今日は帰って眠ったほうがいいかもしれない。親子感動の対面に他人はいらないだろう、そう思った私は、一柳さんに頭を下げた。


「では……私は帰ります。おめでとうございます、とだけお伝えくださいね」

「そんな。何もお礼もしないまま帰してしまっては、私が黒川と奥様に叱られてしまいます」

「何度も言いますが、お礼は結構です。私はそんな、何もしていませんから。では」


 これ以上話を続けると一柳さんに言い負かされそうだったので、私は再び頭を下げてその場から逃げるように立ち去っていったのだった。

 病院を出たものの、ここが何処なのかさっぱりわからない。辺りを見回したけれど、あまりこの辺りの地理に詳しくない私は途方に暮れてしまった。

 仕方ない。タクシーで最寄り駅まで行って、電車で帰ろう。

 病院前に並んでいるタクシーの一台に乗り込んで、私はそのまま駅へと向かい、家まで帰ったのだった。


 家に着いた私は欠伸を噛み殺しながらシャワーを浴び、その日はそのままベッドに潜って眠ろうと思っていた。あ、勿論まもちゃんにはメールはするけれど。電話をしようかとも思ったけれど、もし、仕事が忙しかったら悪い気がして、メールにとびっきりの愛を込めて送ることにした。接待の日がサイン会に重なってしまったことも書き、今日の出来事も書いた。そうしたらメールの文字数が大変なことになってしまった。電話にしたほうが良かった? いやいや、一息ついたときにでも私のことを思い出してくれれば、それで充分だ。メール送信を済ませ、私はベッドに潜り込んだ。

 誠吾さんのベッドは一人で眠るには贅沢なほど広くて、枕も掛け布団もシーツも、全てが新品のように綺麗だ。いつもと違う布団や枕だけど、私はそんなことは関係なく眠りの国へと誘われていったのだった。


 翌朝。今日は土曜日だというのに会社は休みではなく、久しぶりの土曜出勤になっていた。月一回は必ず土曜出勤の日があり、それが今日。

 今日も会社、明日は接待……なんだかこの一週間、かなり忙しいなぁ。

 休みというものがなく、溜息ばかり零れる朝。さぁ出社しよう! そう思った時の事だ。


「あれ。あれ? あれー!?」


 会社用のバッグは昨日と同じものを使用している筈なのに、部長から手渡されたファイルが見当たらない。内容を頭に入れておけと言われ、昨日は帰りながらファイルをぶつぶつ読んでいた。それから妊婦さんが倒れて救急車を呼んで……。そこからファイルの記憶は一切ない。


「どどどどうしよう!」


 青ざめながら部屋を探すもののファイルは見つからない。必死に昨日のことを思い出すものの、やっぱり何処からファイルを手放したのか、ちっとも思い出す事ができなかった。

 その時、ふと、ある物を思い出す。それは昨日、特に必要ないと思いつつも捨てる事ができなかった彼の名刺。もしかしたら、あの廊下の長椅子に置き忘れてしまったのかもしれない! そう思った私は、名刺に書いてある番号に電話をすることにした。

 

「……繋がらない」


 名刺に書いてあったのは会社の電話番号のみだ。会社に電話しても繋がらないということは、まだ会社に誰もいないのかもしれない。私は再び、途方に暮れてしまった。

 途方に暮れていても仕方がない。そう思い会社に向かった私は、部長に謝ろうと出社してすぐに部長室へ向かった。だが、部長は早朝会議に出席していて、今は席を外している。私はそのまま自分のデスクに戻り、自分の仕事を片付けながら部長の帰りを待ちわびていた。

 土曜日の会社は全員出社ではなく各土曜日に数名社員がいればいい程度なので、今日休んでいる社員も当然いる。だから、いつもはたくさんいる社員も今日は半分以下だ。加えて営業の社員が部署から出て行ってしまったので、今、この部署内には私しかいない。なんだかとても、寂しい感じがした。

 パチパチとキーボードを打つ音が部署内に響いている。何度も息を吐きながら時計を見るけれど、部長は一向に帰ってくる気配はなかった。


「はぁ……どうしよう」


 デスクに頬杖をつきながら目を閉じると、足音がだんだん近づいてくる。私は閉じていた目を開き、部署の入り口に目を向けると、そこには昨日「ありがとう!」と何度も叫びながらぶんぶんと手を振る彼と、名刺をくれた一柳さんがいた。


「あ、社長。あちらの方です」


 社長と呼ばれる男性が私の方を向くと昨日とはまるで違う男性のように、パリッとした上質なスーツに身を包み、顔付きも昨日の緩んだ表情とは百八十度違うといってもいいくらい凛とした瞳で私を見据えていた。そしてゆっくり私の方に近づき、片手を差し出す。


「昨日は妻が世話になったそうで……本当に感謝してます。ありがとう」


 差し出された手に自分の手を重ね、握手をすると、嬉しそうにニコニコと微笑みながら昨日のように手を大きく振った。

 なんだか、社長さんには見えないなぁ。

 敏腕社長とワイドショーなどでやっていたけれど、本当なのかしら? どちらかというと秘書の一柳さんの方が敏腕という言葉が似合っているような気がする。

 ……なんて、失礼なことを考えていたけれど、彼らが何をしに来たのか、それすらもわからないまま、社長さんの待望の第一子の可愛らしさと感動の話を延々とされたのだった。

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