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31・ハプニング


「え」


 朝一番、会社に着いたと同時に部長に呼び出された私の口から出た言葉は、部下として相応しい言葉ではなかった。ただ、部長が言った事があまりにも唐突で、他に言葉が出なかったのだ。


「今度の日曜日って明後日ですか?」

「そうなんだ。急だとは思うが、なんとか接待の準備も整いそうだし、何より藤野社長の都合がその日しかつかないんだ。予定があったら悪いが、こちらを優先してもらえるか?」

「は、はい」


 今度の日曜日。その日はまもちゃんのサイン会の日だ。このサイン会は女装をせず、素のままのまもちゃんで行うので私もこっそりついていこうと思っていた。でも、よりによってそんな日に接待だなんて。

 がっくりと肩を落としながら部長室を出て行き自分のデスクに向かう時、後ろから部長が再び私の名を呼んだ。


「前園。この資料をよく読んで頭に入れといてくれ」


 部長に手渡されたファイルを開くと、そこには藤野社長のプロフィールのようなものが書かれており、経営している会社概要や細かなことまで記されている。これを頭に入れるのは、とても大変そうだ。ペラペラとページをめくっていくと、もう何がなんだかわからなくなってくる。日曜日までに覚えられるか不安になった私は、このファイルを家に持ち帰ることにした。

 仕事が終わり誠吾さんのマンションに向かう途中、私はずっとファイルを読んでいた。社外秘のファイルではないので、持って帰っても構わない、と部長に言われたため私は頭に内容を詰め込むためにも、帰宅途中の合間もファイルを読んでいたのだ。ちょっとぶつぶつと呟きながらファイルを見ていたので、周りから見たら怪しい女に見えたかもしれない。それでもこの貴重な時間を無駄にするわけにもいかず、周りは一切気にせず、ひたすらファイルに夢中になっていた。

 誠吾さんの家に向かう途中、あまりにもファイルに集中しすぎていつの間にか知らない道に出てしまった私。

 なんで私、こんな川沿いの道にいるの……? ていうか、ここどこ!?

 夕日が沈みそうな川沿いの道は、犬の散歩やジョギングの人が溢れている。子供の賑やかな声も少しずつ減っていき、やがてこの道も闇に包まれようとしていた。そんな中、目の前を散歩している人が、突然前にふらつき、地面に膝をつく様が目に飛び込んできた。


「大丈夫ですか!?」

「う……」


 顔色が悪い。真っ青になって沢山の汗が額に浮かんでいる。その人はよく見るとお腹が大きく、すぐに妊婦なのだとわかった。

 このままにはしておけない。救急車呼ばなくちゃ!

 咄嗟にバッグからハンカチを取り出し彼女の額を拭き、携帯で救急車を呼んだ。あんなに溢れていた人は大分少なくなっていて、数人の人が心配そうに覗きこんでいる。背中をさすってくれる人、一緒に支えてくれる人、そして汗を拭いてくれる人、皆がとても親切で私は妊婦さんに一所懸命話しかけていた。


「大丈夫ですか? 今、救急車呼びましたからね!」

「ありがとう……」


 艶やかな黒髪が肩上で切り揃えられており、身に付けているものは何となく上質なものだ。派手なわけではなく、地味なわけでもない。控えめで清楚な服に身を包んだ妊婦さんは、不安げな表情で私を見上げ、震える手で私の手を握っていた。その手を励ますように私も握り返すと、少しホッとしたような表情に変わり、私も同じようにホッとしていた。

 やがて遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、その音がだんだん近くなり、やがてすぐ傍で救急車は停車した。すぐに担架に乗せられ運ばれる妊婦さんは私の手を離そうとしない。


「すみませんが乗ってもらえますか?」


 救急隊員の方に促され、私はうっかり首を縦に振ってしまった。全くの赤の他人だというのに、良いのだろうか。そう思いながらも、彼女の小さな手を握り締めながら病院へと運ばれていくのだった。



 病院に着いた途端、バタバタと慌しく看護師や医師が飛び出してきて、顔色を変えながら医師が看護師に指示を仰いでいる。その様子をただ見ていることしかできない私はおろおろするばかり。看護師に聞いた話では、どうやら破水しているようでもう分娩室に入ったということだ。彼女のことを何も知らない私は、彼女の家族にすら連絡する事ができず、分娩室の前の長椅子の前でうろうろするだけ。何もしてあげられることもなく、かと言って、何も言わずにここから立ち去るのも何だかなぁと思ったら、足だけが動いていた。

 分娩室に入ってもう、一時間ほど経った頃だろうか。扉の向こうから元気な産声が私の耳まで届き、その元気の良さに安堵していた。ちょうどその産声と同じ頃、バタバタと忙しない足音が聞こえてきて、その足音は私の目の前でピタリと止まった。


「産まれた……!」


 汗びっしょりの男性が喜びに体を震わせながらガッツポーズをしている。多分、彼女の旦那様なのだろう。


「おめでとうございます。可愛らしいお嬢さんがお生まれになりましたよ」


 分娩室から助産師さんが出てきて、男性に笑顔を向ける。男性はちょっと涙ぐみながら満面の笑みを浮かべた。そしてくるりと私の方を振り向き、嬉しさのあまり私の手を握って上下にぶんぶんと振った。


「ありがとう! ありがとう!」


 男性は舞い上がっているのか、私に疑いの目を向けず嬉しそうに子供が産まれた喜びを噛み締めていた。そして助産師さんに促されるように中へと入って行き、再び私の周りは静けさに包まれていた。

 どうしよう。帰ろうかな……。

 そう思っていた頃、もう一人の男性が私の元に近づいてきて、深々とお辞儀をした。


「奥様についていてくださった方ですね。ありがとうございます」

「いえ、そんな」

「私、こういうものでございます」


 スッと懐から名刺入れを取り出し、一枚の名刺を私に差し出した。名刺なんて貰っても困るけれど、いらないというわけにもいかず両手で受け取った。その名刺に書かれている名前と会社名、それはここ最近社長が変わり、この不景気だというのにぐんぐん成長している会社として何度もメディアに取り上げられていた会社名だった。

 そこに書いてあった名前は、『黒川商事 社長第一秘書 一柳 晶』

 そう書かれていた。

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