25・話すことから始めよう
「まもちゃん? ど、どうしたの。その格好」
「しっ!」
人差し指を口の前でピンと立て、ちらりと二階の様子を窺っている。そして私と誠吾さんを家に上げ、リビングへと押し込むまもちゃん。リビングの扉を閉めて、まもちゃんがほっと一息つきながら、ウィッグを取り外したのだった。
「はぁ……。ひとまずお帰り、香澄。なんで父さんが一緒なのかはわからないけど、とりあえず僕の話を先に聞いてほしい」
「うん」
「実は、担当さんからアシスタントを回されてきてね。翠や樹だけだと追いつかないほど仕事が増えたから、どうしてもアシスタントを雇わなくちゃならなくなったんだ」
確かに。最近、翠ちゃんも樹くんも忙しくて、まもちゃんの仕事を手伝えていない。私はというと会社もあるし、まもちゃんの仕事にはノータッチなのでお手伝いもできない。だから担当さんがアシスタントを手回しするのもわかる。けれど、まもちゃんの漫画家としての顔は「女性」だ。男性ということを隠して漫画家として仕事をいているのに、アシスタントさんにバレてしまっては意味がない。そこでこのウィッグというわけか。
「アシスタントさんの前では、女性として過ごすことにしたんだね?」
「まぁね。すごく肩が凝るよ、ホントに」
まぁ、まもちゃんの普段の声ならきっと大丈夫だろう。普通の男性より少し声は高めのまもちゃんだ、きっと大丈夫。問題はアシスタントさんの前で、ずっと女装していなければいけないということだ。それは、まもちゃんにとって毎日が大変になるに違いない。これならいっそのこと『渋楓は本当は男です』と、世間に公表してしまったほうが良いのではないかと思ってしまう。頑なにまもちゃんが自分の正体を隠そうとするのは何故だろう。やっぱり、お母さんの漫画嫌いが原因なのだろうか。でも、お母さんに一生秘密にすることなんて、きっと出来ないと思う。だからこれは、まもちゃんにとってのチャンスなんじゃないかと思い、私の口は勝手に動き出していた。
「ねぇ、まもちゃん。いっそのこと、ちゃんと自分のことを表に出したらどうかなぁ」
「どういうこと?」
「……まもちゃんが、一生女性として漫画家を続けるより、今、公表したほうがいいんじゃないかって思って」
「前にも言ったけど、僕の母親は大の漫画嫌いなんだ。それに、一度女性として表に出ているのに、今更変更なんてできない」
まもちゃんは、結構頑固なほうだと思う。でも、時には素直になることも大事なのに。
まもちゃんは忘れていると思うけど、隣には誠吾さんがいる。誠吾さんは、まもちゃんが漫画を描いているなんて知らないはずだ。それなのに、この話題を出しても隠そうともしないなんて、心に余裕がない証拠だ。
しばらく沈黙が続くリビングに、飛び切り明るい声が響いた。
「守ったら、やっぱり漫画家だったのね! 父さん、自慢だわ!」
「あっ……! い、いや、それはその」
誠吾さんに言われて初めて気付いたまもちゃんは、しどろもどろになってしまった。
まもちゃん、誠吾さんの言葉をちゃんと聞いていた? 誠吾さんはまもちゃんに「自慢」と言ったことに、気付いているだろうか。しかし、まもちゃんは動揺するばかりで、誠吾さんの言葉は届いていないようだった。
「守。お母さんにきちんと話しなさい。それができないなら、漫画家なんて辞めたほうがいい」
誠吾さんの真面目な顔と突然低くなった声のトーンに、まもちゃんは一瞬、グッと詰まらせた。いつものちゃらちゃらした感じは全くなく、今の誠吾さんはまもちゃんの父親としての顔をしている。そして誠吾さんが言っていることは、尤もだと思う。ちゃんと隠さず、素直に自分の夢であった漫画家になったと、お母さんに伝えてほしい。全てはそこから始めるべきなんだと、改めて思った。
まもちゃんが頑なに自分の正体を明かさないのは、やっぱりお母さんのためだったのだ。自分を大事に女で一つで育ててくれた母親を、これ以上苦しめたくなくて、悲しい顔をさせたくなくて吐きたくもない嘘を吐く。それは、まもちゃんの精一杯の優しさから始まった嘘だった。
「まもちゃん。誠吾さんの言いたいこと、わかる気がする」
「香澄まで、そんなこと言うの?」
「だって、まもちゃんを大事に思っているお母さんが、まもちゃんが夢を叶えたことを喜ばないわけないもん。少なくとも、私はそう思う」
まもちゃんは目を伏せて、悲しげな表情をしている。きっと自分でもわかっているんだと思った。迷いが生まれて、正しい答えを自分で出せなくなることは、人間なら誰でもあると思う。今だからこそ、まもちゃんは自分に正直になるべきだ。私と誠吾さんができることは、今、少し臆病になっているまもちゃんの背中を、そっと押してあげること。お母さんがどんな答えを出しても、私はいつだってまもちゃんを受け入れる自信がある。だから、まもちゃん。素直になって、お母さんと向き合うところから始めてほしい。世間に性別を偽っていたことを言うか、このまま伏せて過ごすかは後で考えればいい。握手会は迫っているけれど、まずはお母さんと話すことだけを考えてみてほしい。それを伝えようと思ったけれど、まもちゃんはもう、わかっているのだろう。さっきまで伏し目がちだったまもちゃんが、今は真っ直ぐ前を見つめている。
「今度……話してみよう、と思う」
ぽつりと小さな声で呟いたまもちゃんは、まだ少し自信はなさげだけど、今まさに、小さな一歩を踏み出そうとしている。
心の中で『頑張って』と、そっと呟いた。