23・ご指名
内海先輩の報われない恋の話を聞きながら会社に入ると、先程までの恋する乙女のような表情をスッと消し、会社仕様の表情に変化する。元々はカッコイイ人なので、女子社員からはとてもモテる内海先輩だが、私にはもう、内海先輩がカッコよく映ることはない。憧れてはいたけれど、彼の変な一面も知っているせいか、彼の周りできゃあきゃあと黄色い声をあげている女性の気持ちがわからなくなってしまったらしい。どうにかして内海先輩という人の、本当の姿を周りの女性に教えてあげたい気持ちになるが、彼女達にとってそれが幸せなことなのかはわからない。要するに、放っておこう。そんな結果に落ち着いた。
午前中、パソコンとずっと睨めっこ状態が続き目がしょぼしょぼしてきたので、気分転換に席を立ち、自動販売機でコーヒーを買うことにした。デスクの引き出しにしまった財布を取り出し、私は席を立つ。すると、ちょうど会議から戻ってきた部長が部署内に入る時、私と思い切りぶつかってしまった。
「すまん。大丈夫か? ……と、前園。ちょうどよかった。今からデスクに来てほしい」
「今、ですか?」
「そうだ。至急聞きたい事がある」
部長があまりにも真剣な表情で言うので、内心首を傾げながらも部長の後ろを追うことにしたのだ。コーヒーを飲めなかったのはちょっと残念だけど、なぜか部長の顔色が優れないような気がして、コーヒーを飲みたいだなんて言い出せなくなってしまったのだ。そして私は、部長と共に部長室に入室し、扉をゆっくりと閉じたのだった。
こじんまりとした狭い空間の真ん中に鎮座している部長のデスクは、いつも通り綺麗に片付いていて埃一つ見当たらない。意外なところで部長の几帳面さが見えてくる。部長室の壁面にあるブラインドを全て下げ、部長がゆっくりとこちらを振り向く。そして静かに口を開き始めた。
「実は、我が社にとって大きな契約の話が舞い込んできたんだ。この契約一つで、我が社の業績は前年よりもはるかに上回ること間違いなしと言っても過言ではないくらい、大きな契約なんだが」
「はぁ……要するに、会社にとってなんとしても契約を結びたいということですね?」
「そうなんだ。それでだ、その契約相手の条件が……その、お前を指名してるんだ」
「私ですか。……え!? ななななんで私なんですか!?」
「上層部も首を捻ってるんだよ。お前、藤野社長と知り合いなのか?」
「社長の知り合いなんて、え? 今、藤野社長と仰いましたか?」
「ああ」
藤野社長って、もしかしてこの前のお見合いの相手の藤野さんのことだろうか? 元々、父が勝手に進めて来たお見合い話だったので、私は相手を知ろうともしなかったし、あの時は、どうやってお見合いの席をぶち壊すかしか考えてなかったから、藤野さんの職業や住んでるところなど、細かな情報は全くと言っていいほど聞きもしなかったのだ。
彼について覚えていることは、諦めが悪いと耳元で囁かれたことだけ。あの囁きは、今でも私の耳に残っている。感情もなにも読み取れないくらいの声で、ぼそりと呟かれた言葉は、恐ろしいくらい私の心を鷲掴みしたのだ。それは私のことをどうこうしたいというものではなく、彼のプライドをズタズタにしてしまったことへの復讐を誓ったような囁きに聞こえたから。あれから暫く、私の胸は嫌な気持ちでいっぱいだった。せっかく、まもちゃんと一緒に住むことになってから、その嫌な気持ちが無くなってきたというのに、こんな形であの気持ちが甦ることになるとは思いもしなかった。仕事とプライベートは別物のはずなのに、こうして仕事を絡めて私を指名してくるなんて、なんて卑怯なのだろうか。恐怖というよりは、怒りの感情が私の中に静かに渦巻き始めていた。
「部長、藤野さん……いえ。藤野社長は、私にどういったことをお望みなのでしょうか」
「それがな、まぁ、うちとしてはこの大きな契約を必ずモノにしたいと思っている。だから逃がさないように、その、まぁ、接待をすることになったんだ。その接待の主賓である藤野社長の横で、前園に接待してもらいたいと言っているんだ」
「要するに、お酒を注いだりお話をしたり……ということですか? 私、接待の席はついたことがありませんから、細かなことはよくわかりませんが」
「大雑把に言えば、そういうことだ。契約の書類などの交わしは、上役の仕事になるから心配するな。とりあえず前園は、藤野社長のご機嫌を悪くしないように心掛けてほしいんだ」
接待をするのも初めてなのに、相手先の社長、しかも藤野さんのご機嫌をとるために笑顔でお酒を注いだりしなくてはいけないなんて、本当は嫌だ。でも、これは仕事だ。私がここで「嫌だ」と言ったら、もしかしたら最悪の場合、会社にとって大きな契約が白紙に戻ってしまうかもしれないのだ。突然大役を貰ったような気がして、私の胃がキリキリと痛み出す。普通のOLなのに、なぜそんな大役を!
ああ、まもちゃん。私、明日にも胃に穴が空きそうだよ。