22・夢を語る男
青ざめたまもちゃんを残して出社した私は、駅までの道のりで何度樹くんの背中を叩いたかわからない。通勤用のバッグで背中をばしばし叩きながら歩いていく私達の姿は、通行人から見たら酷く滑稽な姿を晒していただろう。だって気がつけば、じろじろと怪しげな目で見られていたのだから。中高生くらいの男女なら、こんなじゃれあいは微笑ましく皆の目に映ったかもしれないけれど、社会人と大学院生のじゃれあいは、ただの男女の喧嘩にしか見えない。こうして私は周囲の視線に気付いてから、ようやく通勤バッグで樹くんを殴りつけるのをやめたのだった。
「なんでそんなに凶暴なんだよ、お前は……」
結構痛かったのだろう。樹くんは薄手のシャツを羽織っているだけなので、きっとバッグで殴られた衝撃がダイレクトに伝わったに違いない。でもいいのだ。まもちゃんにショックを与えた罰なのだから。
「樹くんが悪いんだからね? まもちゃんに変な冗談言わないで欲しいなぁ」
「兄ちゃんが信じすぎるのが悪いんじゃねぇか」
「でも、そういうまもちゃんが樹くんは好きなんでしょう?」
ちらりと上目遣いで樹くんを見つめると、どうやら言葉に詰まってしまったようだ。まもちゃんのことが大好きな樹くんは、そのことを他の人から指摘されると何も言えなくなってしまう。ただ、返事として顔だけがみるみる赤くなっていくのだが……。
照れ屋さんなところは、まもちゃんとちょっと似てる。血の繋がりはなくとも毎日一緒に暮らしていれば、血が繋がっていても遠く離れて暮らしている兄弟よりも、よっぽど兄弟らしいかもしれない。そう思わせるくらい樹くんはまもちゃんの弟なんだなぁと、強く思わせるほど何かが似ている。もしかしたら、本人はそのことに気付いていないかもしれないけど。一歩前を歩く樹くんは照れているせいだろうか、ちらりと髪の毛の隙間から覗く耳朶が赤く染まっている。こういうところも本当にそっくりだ。思わず一人、くすっと笑ってしまったのだった。
駅までの道のりを進み、最寄り駅の改札を二人で通る。樹くんと私は同じ電車に乗ることになった。私が勤めている会社より、もう少し先の駅で降りるという樹くん。電車内は人の熱気でむんむんしている上、酷いラッシュに巻き込まれてしまった私達。夏が始まり、暑さはもう最高潮! という時の電車は、冷房なんて全く効いていない。数年前から電車の中は『弱冷房車』なるものばかりが多くなり、ガンガン冷房が効いているものがなくなってしまった。確かに効き過ぎる冷房は、ただひたすら寒さばかりを覚えるだけだし、地球温暖化の影響も大きい。CO2の排出を抑えるためにどこの企業も必死だというのに、必死になりすぎて暑くなり、冷房の設定温度を低くしてしまったら本末転倒というものだろう。そう、頭では納得しているけれど……これは酷すぎる!
「香澄ちゃん、大丈夫?」
「……ん、なんとか」
「あんたが潰されないようになんとかするけど、おっぱいさわっちゃったらごめんね?」
「大丈夫よ。ちゃんとまもちゃんに報告するから」
もう樹くんの冗談には慣れっこだ。樹くんは冗談を言う時、必ずといっていいほど同じ笑顔を向ける。だから冗談も本気も私にはお見通しだ。何年も一緒に住んでいても未だ樹くんの表情に気付かないのは、まもちゃん唯一人だけ。それはまもちゃんが樹くんを、何時いかなる時も信じているからかもしれない。
樹くんの冗談もほどほどに、気がつけば会社の最寄り駅に電車が停車した。すると樹くんが「あ」と、一声あげて、人の波に押されながら下車している私に何か叫んでいるようだ。
「何? 樹くん、聞こえないよ」
けれど、私の声は駅員のアナウンスと発車のお知らせの音楽、おびただしい数の乗客の声によってかき消されてしまったのだ。そして電車の扉が閉まり、口をパクパクさせたままの樹くんを電車が運んでいってしまった。ああ、何言ってるか全然わからなかった。まぁ、何か大事なことならメールが送られてくるに違いない、それまでは放っておこう。樹くんのことは諦めて、私はこの人混みの中に紛れて、混雑しているホームを抜け出したのだった。
駅から徒歩で会社に向かうと、後方からなんだかご機嫌な声が聞こえてきた。
「おはよう、香澄ちゃん」
「あ、内海先輩。おはようございます」
「聞いたよ、聞いたよ? 今、渋沢の家に住んでるんだって?」
情報掴むの早っ! ということは、まもちゃんが内海先輩にいつのまにか話したということか。どれだけこの二人、仲良くなってるんだろう。内海先輩がマメなのか、まもちゃんが真面目なのか、もうどちらでもよくなってきた。私達のことが何でも内海先輩に筒抜けになってしまうのかと思ったら、途端に頭が痛くなる。先が心配だわ、と溜息を吐きながら頭を押さえる押さえる私の隣で、内海先輩はうきうきした口調で話をぺらぺらと始めてしまった。
「いやぁ、もうすぐ会えるんだよね。早く彼女に会いたいなぁ」
彼女? ああ、まもちゃんの女装版の姿のことかぁ。死んでもあれがまもちゃんだなんて言えない。内海先輩はもう、女装版のまもちゃんの姿に夢中で、しかも恋してしまっている。ちなみに、まもちゃんの漫画家の名前は『渋 楓』という。渋沢という名字から一文字とり、楓というのは男か女かわからない、どちらにも適用する名前だから使ったという。ペンネームの由来など、何一つない。
「実はさ、俺、楓先生が出している出版社に転職しようと思ってるんだ」
困ります。そんなキラキラと少年のような瞳で語られると、何も言えなくなってしまう。出版社で働けば、何か接点が生まれるのではないかと、内海先輩は大きな希望を胸に抱きながら私に語るのだった。
先輩。その恋、叶いませんので……早く忘れてくださいね。