17・ストレートでいこう
しん、と静まり返った和室に、一つの咳払いがこの空気を打ち砕いた。咳払いをしたのは、藤野さんのお父様。彼は渋い顔をして、静かに話し出した。
「……前園さん、これは一体どういうことでしょうか」
ジロリと睨みつける相手は勿論私の父だ。父はたじろぎ、少々ばつが悪そうな顔をしている。そんな時、割って入るように声を掛けたのは、私のお母さんだった。
「主人は、娘の幸せをただ望んでいただけです。藤野様はとても知的で、そして申し分ないお仕事に素晴らしい性格だとお聞きして、主人は是非にとお見合いの席を望んだのです。藤野様には申し訳ないことをしてしまったと、心よりお詫びいたします」
ゆっくりと指をついて頭を下げる母の姿を見たら、私も同じように頭を下げていた。藤野さんのご両親は怪訝な表情を浮かべ、父は恐縮している。母は深く頭を下げたまま、じっと動かなかった。そこへ後からやってきた藤野さん本人は、その場の空気を断つように口を開いた。
「嫌だな父さん、母さん、そんな顔しないでよ。俺は……気にしてないから。むしろ香澄ちゃんに出会えたことを喜んでるんだから」
にこっと笑いながら、窮屈だったのか、自分のネクタイを少々緩めながら穏やかな口調で話し出す。藤野さんはそれから私の方を見て、目線を合わせて頬に触れた。彼の掌は熱く、そして逃すまいと強く私の頬に手を置いて、何事もなかったかのように私に囁いた。
「俺、諦めは悪いほうなんだ。……忘れないでね」
それだけ言い残し、さっさとこの部屋から出て行ってしまった藤野さん。その後を追いかけていくのは彼のご両親だった。お見合いの席は、彼が残した一言で締められたのだった。
頬に残る藤野さんの掌の感触と彼の言葉が私の頭の中でぐるぐると回っていく。つけられていないのに、大きな傷を私はつけられたような感覚に陥っていた。『諦めは悪いほうなんだ』、この言葉が意味するものを、今の私は知らない。これから先、藤野さんに会う機会があるというのか……それは藤野さんにしかわからない。
最後の最後で、恐怖にも似た感情が私の心に渦巻いていく。次に彼に会った時、私はいったいどうなってしまうのだろう。まもちゃんだけ、そうまもちゃんだけなのに……がっしりと掴まれてしまった心から彼を追い出すことは不可能だった。それは恋とは違うまるで別の感情、恐ろしい彼の執念が私を捉えて放さない。
「香澄、顔色が悪い。どこかで休もうか?」
「え……あ、ううん。大丈夫」
どうやら顔色が悪いらしい。自分でも気付かなかったけれど、恐怖心は顔色にも出ていたようだ。それを見た父は、私を無理矢理この座敷に寝かせて、ひと言も口を開かないままただ傍にいるだけだった。母は、まもちゃんの前に行き、深々と頭を下げる。まもちゃんも母につられて同じように頭を下げた。
「守さん、初めまして。香澄の母です。お電話ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。不躾な電話を……失礼しました」
その会話を何気なく聞いていたが、どうもまもちゃんは私の実家に電話をしたようだ。母は不思議そうな顔をしている私に、そのことを説明してくれた。
「今日の朝、守さんから電話があったのよ。お見合いをすることは知っていたようだったから、このホテルの場所と部屋を教えてさしあげたの。……香澄は彼を待っていたのでしょう?」
「え……お母さんに電話……?」
何が何だかわからなかった。だってまもちゃんは私の実家の電話番号なんて知らないし、まさかお見合いのことまで知っているなんて思わなかったから。私は話した覚えは無いし、誰にも話していないのに。訳がわからないまま口をポカンと開けていると、まもちゃんがにっこりと微笑んで私に事情を説明してくれた。
「実は一週間前に、内海からお見合いの話を聞かされたんだ。僕は……信じられなかったけど、でも気になって。平日は毎日会社に行っていることは知ってたから、恐らくお見合いは土日だろうと思ってマンションに行ったら、香澄はマンションにはもういなくて。焦った僕は凄く挙動不審に見えたのか、マンションの住人が不審な目をして僕に話しかけてきたんだけど、事情を説明したらその人がちょうど香澄が大きなバッグをもってマンションを出て行ったのを見ていたんだよ。だから僕はそのまま太郎くんに電話して、香澄の実家の番号を教えてもらったんだ」
長い長いまもちゃんの説明が終わると、私は必死でまもちゃんが私を探してくれていたことを痛感した。こんなことなら自分で何とかしようなんて思わないで、ちゃんと相談すれば良かったんだ。結局、今日はまもちゃんを駆けずり回してしまい、疲れた体を休めることもせず、ただ彼を疲れさせてしまい心配をかけただけだった。解決すると言っていたのに、最後は結局まもちゃんが守ってくれた。私は、やっぱりただの役立たずだ。
「まもちゃん……ごめんなさい。私、自分でなんとかしようってそればっかり考えて……」
「僕はいいんだよ。結果的に香澄を見つけられたから」
「まもちゃんっ」
もう夢中だった。一緒に親がいることなんてすっかり忘れて、ただまもちゃんにしがみ付いていた。力いっぱい彼を抱きしめて、たくさんの涙が溢れてくる。まもちゃんを、ただひたすら感じていたくて、この腕を離したくなくて、何もかもを忘れて夢中で彼にしがみ付いていたのだ。そっと背中に回されたまもちゃんの手が優しく私を包み、もう片方の手で私の頭を撫でてくれる。撫でられているだけで、本当に安心できる……この手があったから私は笑えるんだ。それを確信した時、私は父に向かって叫んでいた。
「お父さん、私……まもちゃんがいなきゃ、笑うこともできないよ! まもちゃんがいなきゃダメなの! だから……だから……」
必死で父に懇願するように叫んだ。でもその後の言葉が続かない。何て言えばいい? どう言ったらいいの? 後に続く言葉を出せない私の代わりに、言葉を続けたのはまもちゃんだった。
「香澄さんを僕にください」
ストレートなその言葉に、私も父も母も、皆一様に固まったのは言うまでもない。
活動報告で拍手コメントのお礼を書かせていただきました。
お時間がありましたらどうぞご覧ください。