16・王子様、いらっしゃい
藤野さんの表情が妖しく変化した時、その、あまりにも綺麗な顔立ちに一瞬背中がゾクリとした。なんだか今までの優しそうな藤野さんではなく、まるで別人のように妖しく笑う。たろちゃんの友達と言っていたから、どこか気が緩んでいたのだろうか。たろちゃんは人を見る目があると思っていた。でも、なんだかこの人は、たろちゃんの周りにいる友達とはどこか違う気がする。それをうまく言葉で表すことはできないけれど、なんとなく纏っている空気が違うのだ。長年たろちゃんの隣にいて、傍で彼を見つめてきた私だからこそ、わかるのかもしれない。そんなことを考えていたら、いつのまにか藤野さんは私の手をとり、私の顔の高さまで持ち上げた。
「……俺なら、香澄ちゃんを幸せにできるよ」
真っ直ぐに見つめられ、そっと私の手の甲に唇を落とす。それはまるで将来を誓う儀式のようで、私は何も言えなくなってしまった。そんな時、頭の中に浮かんだのはまもちゃんの顔だ。そう、私の幸せはまもちゃんが傍にいるから叶うのに、藤野さんと幸せになんかなれるはずないのに……。まもちゃんの笑顔が頭の中を支配すると、私の瞳からは涙が自然に零れていた。私はお姫様扱いをされたいわけじゃない、楽な生活をしたいわけでもない。ただ、まもちゃんと一緒に支え合って、笑い合って過ごしたいだけ。そう思ったら、私は藤野さんの手を払い除けていた。勢いよく手を払い除けた後、藤野さんをキッと睨みつけて、思い切り叫んでいた。
「私の幸せは、藤野さんでは掴めない! 私にはまもちゃんだけなの!」
声を振り絞って本心を叫ぶ。その声は庭園内に響き渡りそうなほどの大きさだった。そんな私の声が届いたのだろうか、庭園内から聞こえてきたのは、私がこの世で一番好きな声だ。
「……香澄、迎えにきたよ」
はぁはぁと息を切らせながら庭園に来てくれたのは、やっぱり私の王子様、まもちゃんだった。いつもこういうピンチの時には、まもちゃんが必ずやってくる。今日なんてお見合いのことを告げてもいないのに、ここまで来てくれた。気がつけば私の足はまもちゃんの所へ駆け出したいた。大きく手を広げて彼の胸に飛び込んだら、何も言わずにまもちゃんが強く抱きしめてくれる。そう、これがないと私はダメなんだ。いくら他の男性に抱きしめられたとしても、まもちゃんじゃなきゃ意味が無い。ドキドキしないし、安心できない。私の心を暖めてくれるのは、まもちゃんだけなの。この腕の中にいると、本当の自分を取り戻したような気がするのはどうしてだろう。まもちゃんの傍にいることで、本当の私になれるのかもしれない。たったの一週間なのに、随分長いこと会っていないような気がする。体中の全ての細胞が、彼を求めていたのかもしれない。私はようやく、心の底からホッとする事ができたのだ。
「藤野さんと仰いましたか。すみませんが、香澄だけは譲れません。これは絶対です」
「しかし、香澄ちゃんのお父上から是非にと言われてこの席を設けたのですが」
「今から香澄のご両親のところへ参ります。そこで全てをぶつけますから。では」
まもちゃんが珍しく早口になっている。これは相当怒っているにちがいない。やっぱり私が今日のことを言わなかったからかな……。踵を返して、ずんずんと力強く歩いていくまもちゃんの手に引かれながら、私達はホテルの中へ戻っていった。ホテル内をずんずん突き進むまもちゃんだけど、一回も道を間違えずに私の両親がいる部屋へとやってきた。まるで全てを知っているかのように。
「失礼します」
声をかけて障子を開く。そこには驚いた顔をした藤野さんのご両親と、やっぱり驚いた顔をしたお父さん、そしてこんなときでも冷静で穏やかな表情をしたお母さんが一斉にこちらを見た。しかしまもちゃんはそれに怯むことなく、入り口で正座をする。私もそれに合わせて、少し後方で正座をすると、まもちゃんが突然大きな声を出した。
「お父さん……僕はあなたが僕を認めてくれるまで何でも我慢するつもりでした。でも、今回のこのお見合いは我慢できません。僕に辛い仕打ちをするのは結構、でも香澄を無理矢理お見合いさせるのは、如何なものかと思います」
「む……お前よりもこちらの藤野さんのほうが、香澄を幸せにできると思ったから見合いをお願いしたんじゃないか」
「何がご不満ですか。私の職業ですか、年収ですか、それとも僕自身が気に食わないのですか」
「香澄に何不自由なく暮らせるくらいの収入がないと、俺は認めん」
「では僕の去年の収入を見ていただければわかるでしょう。どうぞ、ご覧ください」
差し出した紙切れには一体どんな事が書かれているのだろう。まもちゃんの年収が書かれていることだけは確かだけど……。まもちゃんがお父さんに手渡した紙切れを見て、お父さんの顔色がみるみる青ざめていく。まもちゃんはその様子をジッと見つめて待ち構えていた。そして静かに口を開く。
「……如何ですか。ちなみに贅沢などしていませんので、その大半は貯金してあります。それでも不満ですか!?」
「むむむむ……」
「僕自身のことを、もっと知ってください。僕は香澄……さんが好きです。彼女がいるから頑張れる。僕は、彼女を……僕の一生をかけて幸せにしたいのです」
これは……これは、紛れも無く両親に向かって、結婚宣言していることになる。まもちゃんの固い決意が、私の両親に打ち明けられた今、ここにいる人全員が、すっかり言葉を失っていたのだった。