花を買おうというはなし 梅雨
花を買おう。
思い立ったが吉日だった。傘をさしてもたいして意味のないほどの土砂降りの中、パンプスやストッキング、スカートも、何もかもひどく濡れた状態であったけれど、誰の目も迷惑も考えないようにして、電車に乗って、慣れた土地で降りる。アパートより会社に近い駅。少し歩くと、「花やはとり」がある。
もくもくと、今度は傘すらささないで。どんなに不審がられてもよかった。一目散に目指して歩く。
お店の軒先が見えると、自ずと早足になる。
品良く閉じられた引き戸が優しく感じて、やっと息をつき、なるべくゆっくりと戸を引いた、それでも、ガタン、という音はした。
「いらっしゃいませ…伊織屋さん、そんなに濡れて、…はい」
入り口の横に構えられた和室、いつものように柔和な笑みで迎えてくださった花盗さんが、驚いて目を見開き、そして、そっと身を正した。ああ、そんなことまでわかられてしまうのだな。思わずいつものように笑ってこんにちはを言おうとして、
「こ、ん…」
言葉に詰まった。
すると優しい花屋の主人は、いっそ慈しみのこもっていると錯覚しそうな声音でおっしゃった。
「どんなお花をお探しですか?」
「…悲しい日に、ぴったりの、花を」
「承りました。少々お待ちください、拭くものと掛けるものをお持ちします、その後に、お花も」
そそと、少し急いだふうな足取りで奥に向かわれる、ああ、濡れていたんだった。そんなことまで、忘れていた、参っている。
なんとなく、寒気がしてふるりと体を震わせてしまう。
風邪をひくかなあ、ぼうっとして、花盗さんが横にいらしたことすらわからず、「伊織屋さん」と呼ばれて、わ、と口から音が洩れる。
「はい、これで、髪などお拭きになってください。水気が少し取れたら、座敷にあがって、これを掛けていらしてくださいね」
左手にはタオルと、体がすっぽり収まるだろう毛布を持って、右手には御膳のような例のものに、暖かそうに湯気を立てたマグカップがふたつ、のせてある。
お心遣いに感謝し、今度はきちんと、ありがとうございますと言えた。タオルを受け取り、わしわしと髪をかき混ぜるように拭く。綺麗に整えてきた髪も今となっては意味が無いから、こんなことをしたって平気。
「それではもう少しお時間をいただきます、どうぞ寛がれてください」
見えないタオルの向こう側で花盗さんが動いたのがわかって、はい、と返事をした。
ごしごし、わさわさ。ある程度拭き終えたところで。ぐっしょり濡れたパンプスを脱ぐか迷い、やめておいて、座敷の端、段差になているところに腰掛けて、花を待つ。
ああ。と、息を、大きく吸い込んでみた。「花やはとり」には、特有の、外とは違う空気がある。それに、むしょうに胸をつかれた。
ささ、と、聞き慣れた床を擦る足音。
「伊織屋さん、お待たせいたしました。ああ、毛布はお使いにならなかったのですね。六月とはいえ、こんな天気では冷えます、寒いと感じられたらお使いください」
「はい。あの、それは、紫陽花ですね」
戻られたこの店の優しい主人は、小さなブーケを持っていた。
「はい、紫陽花にございます。伊織屋さんも、花言葉はご存知かと思います」
「…移り気、ですね」
なんだか、むしょうに、むしょうに、泣き喚きたくなる。やめてほしいと言いたくなる、けれど、悲しい日にぴったりな、といったのは自分なのだから、だから。泣かないで。
奥歯の方で、歯軋りしそうなほど噛み合わせ、嗚咽が出てなんて来ないように。そんな私をみながら、花は紐解かれてゆく。
「失礼ながら、…商売柄、恋についてのお客様はたくさんいらしていただいていますので…恋を失うというのは、辛いことです」
「………はい」
「なのでこの紫陽花には、アルストロメリアをご一緒させていただきました」
「ある、その、白い花ですか?」
「そうです。なぜ今日、こちらのピンクの紫陽花と、白のアルストロメリアをお出しするか、ご説明いたします。
紫陽花が、土壌によって色の変わる花なのは有名なことですね。そして、花言葉の残酷さも有名です。けれど、ピンクの紫陽花は、母の日の贈り物として好まれるのです、紫陽花がピンクのお色の場合の花言葉は「元気な女性」。実は前向きな花なのです。
さて、アルストロメリアのほうですが、白は仏花にも使うので躊躇いましたし、お花の雰囲気として紫陽花と融和するかは…少し目を瞑ってくだされば幸いです。こちらは外の国のお花でして、アルストロメリア全体の花言葉は「未来への憧れ」、そして白の場合には「凛々しさ」とつきます。花言葉重視でお持ちしたブーケになります。
「悲しい日にぴったりのお花を、とのことでした。なので、普段の元気な伊織屋さんに移ろって戻れるよう。凛々しさも持ち合わせる素晴らしいご自身で、見返すくらいの勢いで」
「見返すんですか?もう、会えないのに」
「恋愛は、思い出の中のかつてのひとに勝てるか、なんですよ」
「思い出…」
「思い出になるんです、失えばうしなうだけ。それとも、元に戻られたくていらっしゃいますか?」
元に戻る、それは、なんだか違う気がする。私はかれを好きだったけれど、あんな自分勝手なひとだとは思いもしなかった、それくらいひどい別れ方だった。だから今日は、特別に悲しいから、悲しみに寄り添ってくれる花があって欲しくて、ここに訪れた。
そう、そうなんだ。
花をねめつけるかのように見つめていた目を、そっと閉じて、ゆっくり瞼を持ちあげる。
目の前のブーケは、和とジャングルを混ぜたみたいで、歪なはずなのに妙に愛くるしかった。
私はようやっと花盗さんが差し出してくださった、私を勇気づけてくれる花々を受け取って、今日一番なはずの笑みを、浮かべる。
「私、すすめますか」
「もちろんです」
「勝てますか」
「伊織屋さん次第では、優勝も可能だと思います」
少しユーモアを含ませた言い方が面白くて、はい、と、素直に言えた。
「けれど」
「はい」
「今日くらいは…失った日には、泣かれたって、よいのですよ」
その穏やかな口調に、つられそうになる、泣いたっていいと、花盗さんの視線ひとつすら、いたわりを持って伝えてくださっている。
けして可哀想がらずに。
だから私は、泣かない。
「大丈夫です、私は、強くて凛々しい、女なので」
いつも私を強くしてくれる、この「花やはとり」で、こんなに優しさをもらって、泣けるわけがなかった。
悲しみは少し、薄れていた。
「…そうですか。そう、ならば、ミルクティーをお飲みになられてみてください、さらに強くなれるお味になっておりますよ」
「強くなれるお味ですか」
すぐそばにあった、のせられたマグカップを、頂戴いたします、と断って、そっと持ちあげ、ひとくち。
少し冷めたミルクティーは甘い、はちみつの風味がした。
あっ、と。思わず歓声みたいに声が出た。花盗さんに顔を向けると、お気に召したようで何よりです、深く、笑んでくださった。
「ありがとうございます」
暖かい空間、あたたかいおもてなし、なんでもわかってしまわれる店主。最高のブーケをいただいて、深くお辞儀をする。
ガラリ、引き戸を閉めて、私は再び歩き出す。
「花やはとり」は不思議なお店。常識なんて知らん顔、お客に花を選ばせたりしない。
でもそのかわりに一等いいものをくれる。
今日は、思い出にしていける、自分の強さを証明していただいた。
優勝できる気持ちにさせてくれる。
そういうお店と、今日の私の、そういう話。




