番外・三 幾年経ても
まるで世界が私を憎んでいるかのような雨でした。いいえ、本当は、この日が来ないことを願った私への嫌がらせかもしれません。
去年は行きませんでした。どんな顔をして、どんな態度で、笑っていられるかもわからないのに。そんな自分があまりに子どもで嫌になって、もう恋が、淡くないことを、ずっと知っていたはずなのにわかってなんて、いなかったのです。
足元はレインシューズで、汚れても良いような格好にして、お気に入りの傘をさしました。
どうしようもないならば、どうにかするしかないのです。
はたして私は、「花やはとり」の軒先にたどり着き、立て付けが悪いような、がたり、という音を立てて、中にお邪魔しました。
「……こんにちは」
「はい、こんにちは。お久しぶりですね、千代さん」
「お久しぶりです。今年も、母の日のお花をください。今年は、ピンクのバラを、指定しても良いですか?」
「はい、承りました。あがってお待ちください」
「ありがとうございます。お邪魔します」
レインシューズを置き去りにして、お座敷にあがると、花盗のおじさまはすぐ、膝にかけるものをお持ちしますか? と声をかけてくださったのですが、そんなに冷えたわけでもないので、大丈夫ですと断った。
すす、と奥に入っていかれる、おじさまは、一年くらい常連客の子どもが来なくても、唐突に来ても、態度も言葉もまるで変わりません。それが、嬉しくて、ちょっと苦しい。
幼い頃、始めて来た時から大好きなお店ですから。ここにいることが緊張につながる日が来るなんて、それこそ幼い頃には思いもしませんでした。
緊張している、という言葉を頭の中で繰り返して、噛み締めます。そんなことをしている間に、おじさまは、ピンクのバラのミニブーケを持って、奥から戻られました。
「お待たせいたしました、ご要望の、ピンクのバラのブーケです」
「ありがとうございます。わあ。素敵な咲きぶりですね」
声は震えていないか、受け取った手は汗ばんでいないか。気になりながら受け渡していただいて、その中から一番綺麗に咲いた一本を抜いて、そっと。
花盗のおじさまへ、差し出します。
「好きです」
ピンクのバラの花言葉は、愛の誓い。
向かいに座る間もなかったおじさまは、そのお花を受け取らず、いつもしっかりと伸びた背筋を、曲げて、
「申し訳ありませんが、愛した人がいます」
おっしゃった。
「昔に失った、戦友のようなひとでした。友人と三人揃って大喧嘩をして、それきり。会うことも、連絡も。もう無くしてしまったかかわりです、けれど私はそのひとを、きっといつまでも愛し続けます」
「……もう、会えなくても?」
「もう会えなくても。私は諦めが悪いんです。なので、こちらのお花は、お受け取りできません」
「私が大人だったら、何か違いましたか」
「いいえ」
おじさまは、首を振って、しっかりと、私の目を見て、お答えになります。その目には嘘はない、と、思います。
「千代さんはもう立派に自分の意思を持っています、子どもではなく、一人のひとに向ける、私の答えです」
言葉が、あまりに真摯であったから、私はたまらず涙が溢れてしまいました。一瞬では止まらなくて、すると、花盗のおじさまが、ハンカチを差し出してくださるので、ますます泣けてきます。
うっうっと嗚咽に近くのどがなるので、今お茶を、と、奥に入りつつ、一人にしてくださる。
その優しさが私は大好きです。
私を一人前に思ってくださった、花盗のおじさま。
「おじさま、もしかして、おじさまの好きな方は、お母さんに似てらっしゃったりしませんか? やっぱり、特別可愛がっていらっしゃるでしょう」
「……ないと言えば、嘘になりますね」
カップにおさまったアイスクリームを、二人並んで、ひとくち、ひとくち、すくって食べます。私はクッキークリーム。おじさまはバニラ。アイスの類がお好きなことを、今さっき知りました。
「千代さんのお母様、昔は旧姓の、伊織屋さん、とお呼びしていました。私の好きなひとのように眩しい女性で、驚いたものです」
「なのに恋はしなかったのですね」
体温ではしから溶けていく半液状のアイスを、もったいないとばかりにすくっていきます、だって多分これは、お高いアイスクリームです。美味しい。合わせて暖かいほうじ茶なんて、これはもう最高です。
おじさまの方は、不意に手を止めてみたり、また食べてみたりして、お話をしてくださいます。
「似ているから好きになる、というのは、私にはありませんでした。どちらかというと、遠い親戚の女の子を見守っているような……重ねてしまう部分もありつつ、確かにそう、でも、特別な、お客様、でした。加奈原さんを連れていらした時は、我がことのように嬉しくなったりもして」
懐かしい遠くをみている。そんなかお。やっぱり、少し、お母さんが羨ましい。私より早く出会っていて、良いなあ。こんなかおで思い出してもらえるのは、どんなに幸せでしょう。
最後のひとくちが終わって、ご馳走様でした、と、お盆に容器を戻して、ほうじ茶をひとくち、ふたくち。
すると、花盗のおじさまも遅れて食べ終わられて、ほうじ茶を、ひとくち、ふたくち。
「千代さん」
「はい?」
「私のプライベートを知っているお客様は、千代さんが初めてになります。私はこのことが、とても嬉しい。なので、これからも……こんなことをいうのは厚かましいことですが、いつでもいらしてくださいませんか? 私の大切な、友人として」
私はなんて幸せなのでしょうか。
失った恋を嘆き続けるより、得たともを嬉しく思える。自分が誇らしい。
長い片思いでした、叶うなんて本当のところは思っていなかった。歳を経ては苦しくなるばかりで、お母さんが恋敵のように思えたり、ずっとずっと、「お客様のお子さん」な自分が悔しくいて。けれど私は、私の大好きな人の中に、自分だけの居場所を作ってもらえたのです。
だから、そのお願いに対する言葉は、ひとつしかありません。
「もちろんです、どんな関係だって、花盗のおじさまは私のなかで、一番すてきな人なんですから」
引き戸を開ければ、そこには見事な夕焼けが建物の隙間すら埋めるように広がっていました。来たときは恨めしく思ったものですが、こんなに綺麗な空は久しぶりに見た、と思うほどで。心が晴れ渡っているからかもしれません。
出先まで見送りに出てくださったおじさまに、しっかりとお辞儀をして、でも、その後に続く言葉は違います。
「ありがとうございました。それでは、またね」
「はい。お待ちしております」
だって、花盗のおじさまと私はもう、友人なのですから。
「花やはとり」はすてきなお店。幼い頃から通った、馴染みの花屋。
私の大好きな友人が営んでいる。
これは加奈原千代と、花盗のおじさまの、第三話。
そして始まっていく、そういう話。




