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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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069 ~明応3年(1494年)7月 東条城~

挿絵(By みてみん)


〜登場人物〜

吉良(きら) 左京大夫(さきょうだいぶ) 持清(もちきよ)…東条吉良(下吉良)氏六代目当主

    ~明応3年(1494年)7月 東条城~


 

 矢作川の支流が運ぶ風には、どこか甘い湿り気が混じっていた。


 岡崎から南へ。馬を駆り、吉良の荘園へと足を踏み入れた高力源八と幸田兵庫の二人は、その道中で奇妙な感覚に襲われていた。


「……なんだか、空気が違うな。兵庫。」


 手綱を握る源八が、居心地悪そうに首を巡らせる。無理もない。


 岡崎周辺の村々では、田畑を耕す農民の目にも戦乱への警戒色が宿り、道行く行商人は常に背後を気にしている。


 だが、この吉良の地はどうだ。すれ違う領民の衣はこざっぱりとしており、争いよりも、日々の祭事や暦の巡りを重んじる――そんな、一種浮世離れした穏やかさが漂っている。


「吉良殿は足利御一家。その御心は常に京の都にあります。この地は、泥臭い三河の戦場とは(ことわり)が違う場所なのでしょう。」


 兵庫は馬上から周囲を観察しながら、静かに答えた。


(ことわり)が違う、か。……得物(えもの)を持ってくるなと言われた意味がわかった気がする。」


 源八が腰の太刀を軽く叩く。今日の二人は、戦場往来の具足姿ではない。直垂(ひたたれ)烏帽子(えぼし)という、儀礼用の正装である。


やがて、小高い丘の上にその屋敷は見えてきた。


 東条城――城とは呼ぶものの、荒々しい石積みや逆茂木(さかもぎ)は見当たらず、優美な白壁と、青々と茂る庭木が塀越しに覗いている。櫓や矢狭間よりも、月を愛でるための縁側の方が重要だと言わんばかりの構えであった。


「……参りましょう。」


 兵庫の合図で、二人は門をくぐった。



ーーーーー



 通された書院には、焚き染められた香が、むせ返るように満ちていた。汗と鉄の臭いが染みついた岡崎の評定の間とは、あまりに隔絶した世界だった。


 開け放たれた障子の向こうには、計算し尽くされた枯山水の庭が広がっているが、まとわりつく夏の湿気と、わざとらしいほどの静寂が、高力源八の苛立ちをじりじりと煽っていく。


 待たされること、すでに一刻(二時間)以上。


「……兵庫。我らはいつまでこうして膝を揃えておればよいのだ。足が痺れてきたわ。」


 源八が小声で唸るが、隣の兵庫は石像の如く微動だにしない。むしろ、床の間の掛け軸や、違い棚に置かれた香炉を、まるで鑑定人のような鋭い眼差しで観察している。


「静かに。これは『試し』にございますよ。」


「試しだと?」


「田舎侍が痺れを切らして騒ぎ出すか、じっと待てるか。品定めでもしているので御座ろう。」


 兵庫が涼しい顔で囁いた直後、襖が音もなく開いた。


 現れたのは、白塗りの厚化粧を施し、季節外れに重厚な直垂(ひたたれ)(まと)った男――東条吉良家の当主、吉良 持清(もちきよ)である。後ろには、これまた能面のような白塗りの側近たちが控えていた。


 吉良持清は上座に座ると、扇で口元を隠し、源八と兵庫を見下ろすように細い目を向けた。


「ふん……。泥の匂いがするかと思うたが、そこまではなかったか。」


 厚化粧の側近達のクスクスとしたざわめきに源八の眉がピクリと跳ねた。隣で、そのような雑音を全く意に介さぬ兵庫が優雅に手をつき、頭を上げる。


「お初にお目にかかります。菅沼膳大夫定忠が臣、幸田兵庫にございます。本日は、吉良様の御威光を――」


 持清はパシリと扇を鳴らし、兵庫の言葉を遮った。


「よい、よい。口上は聞き飽きておる。」


 兵庫が、さっそく持参した書状と目録を持清に差し出す。内容は明白だ。菅沼は東条吉良を「主」として仰ぎ、その名誉を守るために武力と銭を提供する。


 対して吉良は、菅沼に「御一家預かり」として、足利将軍家と同族たる吉良家旗印「足利二つ引き」の使用を許す。大した武力を持たぬ持清にとって、渡りに船の話であるはずだった。


 持清は、まるで汚い物でも見るかのように、兵庫が持参した目録を扇の先で突く。


「三河の土豪どもの不穏な動きは憂慮しておる。菅沼のような気骨ある武家が、当家の門葉として働いてくれるのであれば拒む理由は無い。」


 持清の返答に源八が安堵の息を漏らしかけた、その時である。


 持清が、ふと視線を庭に向けたまま、涼やかな声を上げた。


「……庭の“女郎花(おみなえし)”が、よう咲いておる。」


 唐突な言葉だった。


 源八が戸惑って顔を上げる。持清は源八や兵庫を見ることなく、独り言のように続けた。


「秋の七草のひとつなれど、今はまだ 文月(ふみつき)(七月)。いささか気が早いが、古歌には、この花をなんと詠んだか……そなたら、知っておろう?」


 ピシリ、と空気が凍りついた。――これは、ただの世間話ではない。「試されている。」と源八は直感した。


 武力や金は受け取ろう。だが、無骨な田舎侍に「吉良」の名を貸して、泥を塗られるのは御免だ――そんな、名門特有の傲慢さと警戒心が、その問いには隠されていた。


 側近達も源八にねっとりとした視線を這わせ、意地悪く唇を歪めた。明らかな挑発だった。


 源八の背中に冷や汗が流れる。戦場の駆け引きなら負けぬ自信はあるが、歌など嗜んだこともない。沈黙が痛い。


 側近たちの目が、値踏みするように細められる。

 

 その時、兵庫が深々と頭を下げたまま、静かに口を開いた。


「……『秋の野に なまめき立てる女郎花(おみなえし) あなかしかまし 花もひと時』」


 朗々とした、それでいて押しつけがましくない声だった。


 持清が、扇を下げ、兵庫を見た。兵庫は顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべて続ける。


「古今和歌集にある、遍昭(へんじょう)の歌かと存じます。女郎花(おみなえし)が野に媚びを含んで咲き乱れる様を『あなかしまし(やかましい)』と詠んだ一首。その華やかさと賑々しさを愛でる……まさに、生命溢れる夏の庭に相応しい歌にございましょう。」


 室内が、完全な静寂に包まれた。


「ほう…。」


 それは先ほどまでの凍りついた沈黙ではない。感嘆の余韻であった。


 ぱち、と扇が閉じる音が響いた。


 「よかろう。三河の武士は皆、槍しか持たぬ猪ばかりと思うておったが、その博識に免じて、此度の申し出、聞き届けてつかわす。」


 源八と兵庫は深く平伏した。



ーーーーー



 交渉を終え、屋敷を出た頃には、すでに日は西に傾きかけていた。緊張から解放された源八が、大きく息を吐き出す。


「……寿命が縮んだぞ、兵庫。お主、いつあのようなことを覚えたのだ。」


「書を読んでいれば、自然と身につくものです。」


 兵庫は何事もなかったかのように手綱を操るが、その伸び切った鼻の横顔に、微かに安堵の色も見えた。


「ですが、これで岡崎に『足利二つ引き』の旗が立ちます。松平も今川も、うかつには手出しできませぬ。」


「ああ。お主の舌先三寸が、城壁一枚分になったというわけだ。」


 源八の軽口に、兵庫がふっと笑う。


 振り返れば、夕陽に染まる東条城は、やはり要塞というよりは優美な神殿のように輝いていた。武力なき権威と、権威なき武力。その二つが今、菅沼の手によって結びついたのだ。


「帰りましょう、源八殿。竹千代様がお待ちです。」


「おう。土産話には事欠かん。」


 二騎の影が、岡崎へと続く道に長く伸びていった。



――――戦国期東海地域の武家文化



 15世紀後半、応仁の乱による京都の荒廃は、日本文化史においてパラダイムシフトとも呼ぶべき現象を引き起こした。中央(京)における文化資本の独占が崩壊し、地方への拡散・浸透が加速する。


 この「文化の下向」において、東海地域――三河・尾張・駿河――は極めて重要な受容体として機能した。


 当時、経済的基盤を喪失しつつあった公家階層や、宗祇・宗長といった連歌師たちは、新たな庇護者(パトロン)を求めて東国へと下向する。彼らを迎え入れたのは、実力によって地域支配を確立しつつあった戦国大名や国人領主たちだった。


 彼ら武家領主にとって、中央の文人を招聘し、高度な文芸を嗜むことは、単なる余暇や遊興の範疇を越えた、統治上の政治的要請であった。


 鎌倉期以来の「文武二道」の観念は、室町・戦国期において社会規範へと昇華されていく。武力(武)のみならず、教養(文)を兼ね備えることこそが、支配者としての正統性を担保する不可欠な要素と見なされたのである。


 逆に、和歌や連歌の素養を持たない者は「文無(ぶんなし)」と侮蔑され、武家社会における信用と権威を著しく損なうリスクを負っていた。


 室町幕府 政所(まんどころ)執事の世襲家にある伊勢貞頼が『宗五大草紙(そうごおおぞうし)』において記した「歌・連歌は和国の風なれば、思い捨てらるまじく候」(連歌は日本文化だから(おろそ)かにするな。)という言説は、当時の武士階級に共有されていた文化受容に対する規範意識を如実に物語っている。


 とりわけ連歌は、座の文芸として複数の参加者が句を継ぐ形式をとることから、共同体の結束を強化し、あるいは他国者との外交的接点を形成する「場」として機能した。


 連歌師・宗長は、駿河の今川氏を拠点としつつ、三河・尾張の諸勢力とも広範なネットワークを構築した。彼の存在は、対立する勢力間を行き来する情報の媒介者であり、同時に地域の文化的成熟度を測る指標でもあった。


 三河国における象徴的な事例として、安城松平家の動向が挙げられる。松平広忠が天文12年(1543年)に大浜(碧南市)の称名寺において催した夢想連歌は、単なる文芸活動ではない。


 広忠が発句「神々乃なかきうき世を守かな」(神はこの世を守るのか。)に対して脇句として詠じたのが、「めくり八ひろき園のちよ竹」(庭園に根を張る竹の千代(ちよ)八千代(やちよ)の繁栄。)という一句であった。


 家康の父・広忠はこの句に込められた「永劫の繁栄」への祈りを我が子に託し、嫡男の幼名を「竹千代」と定めたとされるが、これは連歌という儀式を通じて、一族の繁栄を神仏に祈願し、その正統性を内外に宣明する政治的パフォーマンスであった。


 後に天下人となる徳川家康(竹千代)の誕生が、連歌という文化的コンテクストの中で位置づけられている事実は、三河武士団が決して無骨なだけの集団ではなく、中央の文化コードを介して自らの支配論理を構築しようとしていたことを示唆している。


 そして16世紀に入ると、武家の文化関心は和歌・連歌に加え、茶湯――当時の呼称で言う「数寄(すき)」――へと拡大を見せる。これは、文化の重心が「言葉ソフトウェア」から「ハードウェア」へと移行し始めたことを意味する。


 「名物」と呼ばれる唐物茶入や高麗茶碗の所持は、一国一城に匹敵する経済的価値を有すると同時に、所有者の審美眼と財力を誇示する象徴資本となった。


 尾張の織田弾正忠家や美濃の斎藤氏(後の一色氏)が、京の茶人と交流を持ち、「数寄の座敷」や「名物」を積極的に収集した背景には、伊勢湾岸の経済的繁栄がある。


 熱田や大浜といった湊を掌握し、流通経済の富を蓄積した新興勢力こそが、高価な茶道具を蒐集(しゅうしゅう)し得るパトロンとなり得たのである。


 斎藤道三が茶人・不住庵梅雪から茶室図面「数寄厳之図(すきげんのず)」を伝授され、それを家臣の稲葉一鉄へと相伝した事実は、茶湯の奥義が主従関係を強化する紐帯として利用されていたことを示している。後の織田信長が推進する「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」の萌芽は、すでにこの時期の東海地域において形成されていた。


 戦国期東海地域の武家文化は、都からの受動的な模倣に留まらず、領国経営や外交、家臣団統制といった現実的な政治課題と密接に連動して展開した。今川氏や織田氏、松平氏による文芸・茶湯の受容。これらは全て、乱世における生存と覇権確立のための、多層的な戦略の一環であったのである。


 これら東海地域の文化的蓄積こそが、やがてこの地から天下統一の覇者が現れる歴史的必然性を醸成してゆくことになる。

〜参考記事〜

連歌の基礎知識 / ホームメイト 刀剣ワールド

https://share.google/P96CozbuwFYfCAMXx


〜舞台背景〜

 文字数が多くなってしまいましたが戦国文化の要素を絡めてみました。お茶はまだしも蹴鞠や能、和歌はお公家様のモノというイメージだったのですが、色々ググっていたらどうも戦国武将の必須教養だったようです。

 また興味深かったのが、現代のSNSのコメントやリアクションは、言ってみれば言葉を咏み継ぐ連歌のようなものであり、現代人も知らず知らず和歌・連歌を嗜んでいるという言説がありました。(〜参考記事〜参照)

 なので是非、本話の発句に対して「イイね」で脇句を継いで頂ければ…あら不思議、ここは令和の連歌会w

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― 新着の感想 ―
有名な茶碗出てたから、大陸に青田買い行くのかと。まてよ、このまま勢力拡大したら、信長さんより先に黒人従者パターンもかな。
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