表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

65/71

065 ~明応3年(1494年)2月 大樹寺~

挿絵(By みてみん)

    ~明応3年(1494年)2月 大樹寺~



 三河の冬は乾いていた。矢作川の風が原を横切り、杉皮を吹き鳴らす。足場が外され、白木の香を放つ巨大伽藍が、井田野の丘に姿を現した。


 大樹寺——梵鐘はまだ沈黙しているが、その伽藍の巨大さは門前に立つ者の胸に、見ぬ先の鐘の低音を想像させた。


「分けて流せば、濁りは浅くなる。」


 幸田兵庫は袖の中で指を折った。本證寺、勝鬘寺、上宮寺——三河三箇寺。戦国の騒乱のたびに芽を出す門徒たち。地中に深く根が張り巡っている。


 ならば、同じ太さの根をもう一本、地に伏せるのだ。寺は城であり、鐘は軍扇。大樹寺は、そのための城となる。


 「…で、ご覧のとおりだ、専如殿。このような馬鹿でかい寺を建てはみたものの、さて、どう扱ったものか……。」


 袖口で鼻をこすりながら、幸田兵庫が笑った。向かいに立つ凌雲寺の住職・専如は、忙しなく数珠の玉を弄んでいる。


 巨大な伽藍を前にして、専如の胸には歓喜が込み上げていた。それを喉の奥で必死に押し殺す。


 酒を欲する渇きが、ふいに舌の奥によみがえった。


(堪えろ……ここで笑えば負けじゃ。)


 額の汗を袖で押さえ、眉間に深く皺を刻んで、専如は重々しく口を開いた。


「……しからば……拙僧が、この寺を動かしましょう。」


 口中には、昨夜の酒の甘みがまだ残っている。笑えば歯茎に白粉が残るのも分かっている。だが、舌はよく回った。


 兵庫は扇で帳面を押さえ、ゆっくりと開いた。専如にも中身が見えるよう、わざとらしいほどの速度で。


 寄進の名、額、そして行き先の寺。行き先の欄だけが不自然に空いたまま続く頁がある。帳面に記された、奥三河の田舎とは比べ物にならない大きな額が、否応なく専如の目に飛び込んできた。


 兵庫は専如が唾を飲み込むのを見届けてから、低く呟く。


 「紐というものは、締め具合で名を変える。枷にもなれば、手綱にもなる。この寺にふさわしいのは――」


 帳面から目を逸らせぬまま、専如が応じた。


「…まぁ…手綱、でよろしかろう。」


「分かっているなら、よい。」


 専如は袖の内で、汗に湿った数珠をそっと拭った。都から携えてきた香の粉を水に溶き、耳の後ろに塗ってある。都の香は女受けがいい。男にも、だ。香の芳しい薫りの陰には嘘がよく隠れる。


(馬は御せるふりをするのが肝心。今は菅沼の鞍を載せてやる。手綱を握られている限り…じゃが。)


 兵庫は扇を閉じ、分厚い帳面もぱたりと閉じた。


「三箇寺に並ぶ触頭寺院(ふれがしらじいん)とする。名は大樹寺。住持は専如殿、御坊とする。ただし――耳は、常にこちらへ向けておくこと。」


 専如は一瞬、目を細めた。襟首を掴まれたままでも、頭の中は軽やかに回り始めている。


 大工たちの笑い声が広がる。その隙間を舐めるように、専如は眺めた。


 人は群れれば熱を帯びる。熱は言葉で導ける。


 ――それを、専如はよく知っていた。



    ~明応3年(1494年)4月 大樹寺~



 半歳と少しで大樹寺の伽藍は体裁を得た。棟木には願文が納められ、根方には鎮物が埋められる。


 落慶の日、稚児が花冠を揺らし、鉦鼓と太鼓が冷気に張りを帯びる。暁の靄の中を、僧衆が二列に進む。


 冷気に張った太鼓の皮は、打つごとに澄み切った音を高く放つ。磬の余韻は鳥の羽音のように重なり、散華は白木の梁を仰ぎつつ、ゆるやかに舞い落ちた。


 ――導師入堂。


 専如は濃紺の法衣を整え、ひとつ息を置いて堂の中心へと歩み出る。珍しく昨夜、酒は断った。今、舌に載せるのは別の酔い――言葉という酒である。


 「此の伽藍は、一本の大樹なり。枝は四方に伸び、その蔭は地を冷やす。世に争いの熱が満ちるとき、この寺の影が人々を守ろう。」


 その声は梁に打ち返され、幾重にも重なって堂内に満ち、やがて平伏する門徒たちの背へと静かに降り積もった。私は脇間に控え、合図に応じて兵庫がわずかに頷くのを見た。


 落慶法要は、まさに荘厳を尽くすものであった。


 洒水により土は鎮められ、薫香は天へと昇る。壇上の香炉から立つ煙は光を孕み、堂内の空気を絹のように柔らかく染め上げる。読経は途切れることなく、水脈のごとく流れ続けた。


 散華が舞い、香煙が光の筋を描く。


 (けい)の音が、高く――ひとつ、またひとつ。堂内に集まった人々の気息までもが、その響きに合わせて揃えられてゆく。


 専如は合掌を崩さぬまま、わずかに伏せた瞼の奥で、参列者の顔を追っていた。


 商人の額の艶、船大工たちの肩幅、米問屋の帯の締め具合。女衆の数、連れの多さ、袖口の布地。祈りの形を保ったまま、勘定は滑らかに進む。


 (多い……思った以上じゃ。)


 口元に上りかける笑みを、経文の抑揚で押し戻す。


 それでも頬の内側は緩み、喉の奥で密やかな喜悦が泡立つ。広い堂内を埋め尽くす人々が、同じ影に身を寄せている。その事実だけで、酒にも似た酔いが胸に満ちた。


 今日、この寺の影は誰を包むのか。誰の懐を、誰の運命を、この堂の紐は縛るのか。


 専如は磬の余韻に紛れ、その答えを舌の上で転がし続けた。


 最後に大樹寺の梵鐘が初めて鳴った。遅れて、三箇寺の方角から別の鉦の音が薄く返る。


 風が二つの音を混ぜ、町の屋根に下ろす。門徒たちは耳を傾け、どちらに参ろうかと首を傾げる。選ぶという行為そのものが、力を分ける。兵庫の意図はそこにあった。


 勿論、専如も理解していた。己の唱える祈りが、これから菅沼の槍となり弓となることを…。



――――Divide(ディヴィデ・) et(エト) impera(・インペラ)


 「Divide(ディヴィデ・) et(エト) impera(・インペラ)」はラテン語の「分割して統治せよ」を意味する政治・軍事戦略であり、古代ローマ時代から使われる支配の極意である。


 徳川幕府の宗教統制の中核に据えられたのが、超巨大武装宗教団体である一向宗に対する分割統治(ディヴィデ・エト・インペラ)である。


 一向宗(本願寺)の東西分裂は家康の専断だけで生じたのではない。


 前史として、智慧者豊臣秀吉による介入と、母・如春(にょしゅん)と長子・教如(きょうにょ)、末子・准如(じゅんにょ)の愛憎が宗門内部の断層を深く穿っていた。


 ・教如(きょうにょ)真宗大谷派(しんしゅうおおたには) 【略称】東本願寺,大谷派,お東。包括宗教団体数8,638。


 ・准如(じゅんにょ)浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは) 【略称】西本願寺,本派(ほんぱ),お西。仏教系宗教法人最多信者数 796万人


 教如は如春によって隠居に追い込まれた身となってなお「大谷本願寺釈教如」と署し、文禄五年(1596年)銘の鐘を鋳て宗主活動の継続を誇示し、慶長四年(1600年)の直前には『正信偈』『三帖和讃』を刊行して教化を加速する。


 しかも慶長二年(1597年)には、三河では上宮寺・勝鬘寺・本證寺が教如方(東本願寺)に属する旨を表明し、三箇寺の坊主衆は、同じく三河にある准如方(西本願寺)の本宗寺に参詣した門徒の葬送は導師を務めないとする誓紙まで交わしていた。


 すなわち、分裂の「素材」は太閤政権下ですでに寺内と在地で熟していたのである。


 対照的に、関ヶ原の年(1600年)の准如は、政治の水脈に自らの安堵を繋ぎとめるため、周到な縁故工作に出た。


 慶長五年(1600年)石田三成方に与した嫌疑への弁明文案を、公卿・柳原淳光(やなぎわらあつみつ)とその妻・楊林院(ようりんいん)に宛てて送ったのは偶然ではない。


 柳原家は家康上洛の際の宿館として頻用され、楊林院の近縁には本願寺一族の西光院祐従(さいこういんゆうじゅ)があり、さらにその侍女・阿亀(あき)は楊林院の養女となって家康の側室に入り、まさにこの年に御三家尾張名古屋藩主となる義直(よしなお)を産む。


 准如は「三成に与せず」「鉄砲玉薬の搬入なし」「岡崎から引き返したのちも内府への不敬なし」と具体に列挙し、柳原家の縁を梃子に家康の機嫌回復を図った。寺中ではこれに呼応するように、下間仲之・頼廉らの忠誠誓紙が相次ぎ、表向きの結束を装う一方、内実の分極は露骨化していく。


 関ヶ原直後の家康—教如—准如の三角関係は、ここで名軍師本多正信の設計思想に接続される。教如は江戸で家康に謁し、活動の場を新たに得る機運をつかむ。他方、准如には石田三成方縁故の風説が付きまとい、上記の弁明で火消しに走る。


 智将正信は「一方を取り潰すのではなく、両方を立て勢力を二分し力を削ぐほうがよい。」と進言し、指令系統を二分して相互を公儀に依存させる制度枠へと落とし込む。


 慶長七年(1602年)には烏丸六〜七条の四町四方が教如に与えられ、上野・妙安寺伝来の親鸞像の移座という象徴操作も重ねられて、堀川西を「西」、烏丸を「東」とする二本立てが定着する。この分割の効用は三つに要約できる。


 第一に軍事的消炎。三河一向一揆(永禄六〜七年)の記憶が示すように、門徒ネットワークの動員力は単一中心ゆえに危険だった。二本化により指令は拡散し、いずれも最終裁断を公儀に仰ぐ構造へ転位する。


 第二に行政の導線化。東西の紛議は寺社奉行の机上で合一され、訴えは往復書簡の形式で平準化される。——この相互参照が公儀への常時依存を制度化する。


 第三に教化の再配線。一向宗の旧来の「一枚岩」は、触頭寺院(ふれがしらじいん)と在地権力の間で分権的に運用され、門徒の参詣・葬送・法要の経路は寺社奉行や藩の調整案件へと変質する。


 宗教実務の細目が、為政の毛細血管として機能し始めたのである。


 ここで三河の現場に目を戻すと、教如(東本願寺)に属した三箇寺と、准如方(西本願寺)の本宗寺の対立は、門徒に儀礼と葬送という生活実務の位相で「選好」を強いた。


 謀将正信はこの「選ばせる構図」を上位から制度化し、対立そのものを管理する。結果、東西の正統主張は互いを消し合わず、公儀の傘の下で併存し続ける。


 分けて治め、治めて続く——歴史上、極めて稀な宗教統治の成功は、稀代の策士本多正信の設計思想により以後三百年、静謐で綴られてゆく。

〜参考文献〜

本願寺はなぜ東西に分裂したのか / 武田鏡村 扶桑社 2018年


〜参考動画〜

大樹寺の成り立ち〜1475年 松平親忠公が建立

https://youtu.be/lDpVec_t5-I?si=Hktuxc96aTdTG5bR


〜舞台背景〜

 宗教を書くにあたって以前、生臭坊主キャラを仕立てたのですが、有り難い事に「また登場させろ」と感想を頂戴しましたので、地方最強クラスの寺院の住寺(住職)として再登場ですw

 大樹寺は、東大寺や延暦寺、本願寺のような国家級・宗派総本山クラスではありませんが地方寺院としては異常にデカい史実どおりの設定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ