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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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063 ~明応2年(1493年)10月 岡崎城~

挿絵(By みてみん)

大樹寺内にある松平八代墓の親忠の墓(2019年11月撮影)

 松平親忠:室町時代中期から戦国時代の武将。松平信光の三男。松平宗家4代。従五位下、左京亮。子に松平長家(-1540.7.9、左馬允、安城左馬助、安祥城主)

 初め額田郡鴨田郷(現岡崎市鴨田町)を根拠地としていたが、長享2年(1488年)か長享3年(1489年)頃に、父が死去したために家督を継ぐ。しかし、間もなく出家して西忠と号した。親忠自身の治績はあまり知られておらず、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部では疑問視されている。

 『三河物語』では、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったとされている。だが後に安祥松平氏から清康・家康らが本家を簒奪したため、親忠が4代当主扱いされたと言われている。出典:Wikipedia

    ~明応2年(1493年)10月 岡崎城~



 松平光重は、その夜、ほとんど眠れなかった。陣幕の外では、夜風が乾いた音を立て、遠くで馬の鼻息が聞こえる。


 それだけなら、いつもの陣中と変わらない。だが、今宵は違った。目を閉じれば、岡崎城の奥に残してきた妻の顔が浮かぶ。


 幼い子が、母の袖を掴んでいた姿。城を出る間際、何も言わずに頭を下げた家臣たちの背。


 ――あれは、見捨てたのではないか。


 その思いが、胸の奥で腐り始めていた。


 昼間、光重は親忠の前に呼ばれていた。親忠は、いつも通り落ち着いていた。感情を顔に出さず、敵の動きを分析し、兵の配置を整え、次の一手を考えている。


 だが、光重には分かった。この対陣は、勝てぬ。勝てぬどころか、時間が経てば経つほど、松平が削られていく。


「……岡崎を、力で奪い返すのは難しい。」


 親忠の言葉は、淡々としていた。


「だが、無理はせぬ。機は、必ず来る。」


 その言葉に、光重は頷いた。だが、胸の内は晴れなかった。


 ――その「機」が来る前に、城の中はどうなる。


 夜半、光重の陣に一人の男が訪れた。名を名乗らぬ。だが、その身なりと振る舞いで、どこから来たかは察せられた。


「……岡崎より参りました。」


 低い声だった。光重は、無言で続きを促す。


「城内の者は、皆、ご無事にございます。」


 その一言で、光重の肩から力が抜けた。


「菅沼は、手荒なことはしておりませぬ。むしろ……」


「むしろ?」


「食を与え、役目を与え、城下の秩序を保っております。」


 言葉が、刃のように突き刺さる。敵が、敵らしくない。それが、最も残酷だった。


 さらに使者は続けた。


「菅沼定行様より、お言葉を預かっております。」


 光重は、息を呑む。


「――松平光重殿の家名は、残す。」


「……。」


「岡崎の統治に関しても、参与の道を閉ざさぬ、と」


 沈黙が落ちた。それは、降伏の誘いだった。だが、辱めではない。条件は、あまりに現実的だった。


 使者が去った後、光重は一人、長く座り込んだ。怒りは湧かなかった。屈辱も、思ったほどではない。あるのは、恐怖だった。このまま戦を続ければ、家が潰える。城に残した者たちが、どうなるか分からない。


 ――親忠殿は、耐えられるだろう。


 だが、私は?


 光重は、拳を強く握った。


 翌日、光重は密かに使いを立てた。宛先は、松平親忠。言葉は、短かった。


 「このままでは、家が滅ぶ。」


 「菅沼に降りたい。」


 書き終えた後、筆が震えているのに気づいた。


 親忠は、その文を読み、しばらく動かなかった。怒りは、湧かなかった。叱責の言葉も、浮かばない。ただ、現実がそこにあった。


「……そうか。」


 短く呟く。光重の心が折れたのではない。状況が、そうさせたのだ。親忠は、陣の外を見た。遠く、岡崎城の方角。


 矢作川の流れが、陽を反射している。


 その日を境に、松平の陣は変わり始めた。兵の動きが鈍る。命令が徹底されない。小競り合いすら、避ける空気が広がる。誰も口には出さない。だが、皆が感じていた。


 ――もう、この戦は決している。


 岡崎城の本丸その評定の間で定行は、その変化を見逃さなかった。


「揺れております。」


 報告を受けた定行は、静かに頷いた。


「ならば、押すな。」


 刃を向けず、声も荒げず、ただ待つ。内部から崩れるのを、待つ。


 私は、城下の様子を見ながら、不思議な感覚を覚えていた。戦は続いているはずなのに、血は流れていない。だが、人の心は、確実に折れていく。


 定行が言った。


「戦とは、こういうものでございます。」


「……剣よりも、重いな」


 私の言葉に、定行は黙って頷いた。この岡崎で、戦はすでに次の段階へ進んでいた。



ーーーーー



 岡崎城を巡る対陣が長期化するなか、菅沼定行は動いた。


 戦を仕掛けるのではない。使者を立て、正式な交渉に踏み込んだのである。使者が携えた条件は、明快で、そして挑発的だった。


 中条・山中・西郷――三河中央部の要地については、松平方で分割せよ。菅沼はそこに一切干渉しない。


 ただし、その代償として、旧大草松平家――松平重光の旧領。矢作川下流域一帯。そして、岡崎。この地を、菅沼の領と認めよ。


親忠は、その文言を一読しただけで、思わず鼻を鳴らした。


「勝手なことを言う。」


 それが率直な感情だった。岡崎は松平にとって、ただの城ではない。三河を束ねる要であり、街道と川を押さえる要衝。それを丸ごと差し出せという要求は、敗北宣言に等しく聞こえた。


だが――


 親忠は感情で席を蹴る男ではなかった。まず、兵数。菅沼軍は、赤備えの精兵を揃え、城と街道を完全に押さえている。城下ではすでに補修が進み、「仮の占拠」ではないことは誰の目にも明らかだった。


 次に、内情。松平光重の動揺。岡崎城内に家族を残したままの光重や大草松平の連中が、いつまで踏みとどまれるかは分からない。


――勝ち目は薄い。


 力攻めに出れば、失うものの方が多い。親忠は黙して天幕の中を歩いた。これは屈服ではない。退くべき時を見極める戦だと、自らに言い聞かせる。数日の逡巡ののち、親忠は使者を呼び戻した。


「条件を呑む。」


 中条・山中・西郷については、松平方で処理する。岡崎と矢作川下流域は、菅沼の支配を認める。


 その場に、勝鬨はなかった。ただ、静かな合意が成立しただけだった。この交渉は敗北ではない。親忠にとって、それは次に備えるための撤退であり、三河を取り戻すための、時間を買う選択だった。


 一方、菅沼は岡崎を得た。城と川と街を手に入れたその瞬間から、戦はすでに、別の形へと移り始めていた。



――――松平(まつだいら) 右京亮(うきょうのすけ) 親忠(ちかただ)


 三河の大地に、まだ「徳川」という名が影も形もなかった頃。その礎を、静かに、しかし確かに打ち固めた男がいた。


 ――後の徳川幕府による系図改竄によって、その生涯には霧がかかるものの、松平家を一族から勢力へと押し上げた安祥松平家初代当主そして松平家四代目当主、松平 親忠(ちかただ)である。


 親忠は、岩津城を拠点に西三河に勢力を伸ばした松平家三代目 信光の子として生まれた。三男とも四男とも伝えられ、血筋だけを見れば本来、家督とは縁遠い立場にあった。


 松平家の中心は岩津城にあり、宗家はあくまで岩津松平家。信光の代に攻略された安祥城を本城とした親忠の家は、宗家を支える庶家――それが、本来の位置づけだった。


 だが、戦乱の世は系図の順を必ずしも尊ばない。武に優れ、判断に迷いなく、人を惹きつける胆力を持つ者こそが、実務を担い、家を動かす。親忠は、その条件をすべて備えていた。


 親忠が拠点とした三河安城は、湿地と河川に囲まれた地である。守るには難しく、攻めるにも骨が折れる。親忠はその地の癖を読み、伊賀八幡宮を創建し、大恩寺を中興するなど、武と信仰の両輪で西三河の支配を固めていった。


 応仁元年(1467年)、井田野において尾張・三河の軍勢を迎え撃った第一次井田野合戦では、わずか五百騎で敵を潰走させたと伝えられる。一夜半に及ぶ激闘――後世に徳川幕府により紡がれた物語だが、この時代の安祥松平家が、もはや小領主の域を越えつつあったことだけは確かだった。


 明応二年(1493年)、再び井田野で諸氏連合軍と相まみえた戦いも、親忠の名を後世に残す戦の一つである。親忠は限られた兵で応じ、三河全体へと影響力を広げた。


 親忠は、武だけの男ではなかった。文明七年、彼は成道山大樹寺を建立する。「大樹」とは、中国において征夷大将軍を意味する言葉。亡霊を弔うための念仏堂から始まったこの寺に、彼は松平家の行く末を重ねたのかもしれない。


 やがて時代は下り、刀が鞘に収められ、戦の時代は終わりを告げた。そのとき、権力は武よりも言葉を必要とするようになる。


 家康が築いた徳川幕府は、単なる勝者の政権ではない。それは「永く続くこと」を宿命づけられた体制であり、そのためには武功以上の根拠――正統性が求められた。


 なぜ、徳川家が天下を治めるのか。その問いに答えるため、松平家の歴史は紡ぎ直される。安祥松平親忠は、徳川家康の祖である。ゆえに、その家は主家を簒奪した庶家であってはならなかった。


 松平家の系図は改竄され、一本の揺るぎない血脈として描き直されていく。親忠は庶家の実務者から、松平家の中核へと引き上げられた。それは虚偽というより、思想だった。統治のための歴史。


 儒教的秩序のもと、家は国家の縮図とされ、祖は尊く、系譜は整っていなければならなかった。分岐は、泰平の世にとって不安でしかない。


 こうして、あまりにも現実的で、あまりにも戦国的な親忠は、武功が強調され、系譜も入れ替えられる事で、後代の価値観が投影され理想化された祖先像となる。


 おそらく親忠は、秩序ではなく実務で、理念ではなく戦で家を支えたのだろう。大樹は、一夜にして育たない。根を張り、嵐に耐え、静かに時を待つ。


 松平親忠とは、徳川という大樹を、三河の大地で支え続けた「根」そのものだった。

〜参考記事〜

四代 松平親忠 | 歴史 / みかわこまち

https://mikawa-komachi.jp


松平親忠の歴史 / ホームメイト

https://www.touken-world.jp


〜参考文献〜

覇王の家(上下) 合本版 / 司馬遼太郎 新潮社

電子書籍 Amazon Kindleストア


〜舞台背景〜

 謎の一族、松平家。そういうカッコいいニュアンスは、なんか違う気がするのですが、徳川幕府の資料偽造のせいで見るサイトによって親子兄弟関係や出生没年が違っており、解読するのに1週間かかりました。それでも、よく解りませんでしたw

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