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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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060 ~明応2年(1493年)10月 井田野~

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

ビスタライン(Vista Line):愛知県岡崎市の岡崎城と、その北に位置する徳川家ゆかりの菩提寺 大樹寺だいじゅじを結ぶ約3kmの直線的な景観軸(眺望線)のことです。1641年に徳川家光が「祖父(家康)の生誕地を望めるように」と大樹寺の伽藍を配置したことに由来し、門越しに岡崎城が額縁のように見えるのが特徴で、現在も高さ制限などで景観が守られています。 出典: 岡崎市ホームページ


~登場人物~

松平信光−Γ親長(ちかなが)(岩津松平家)

     Γ乗元(のりもと)大給(おぎゅう)松平家)

     Γ親忠(ちかただ)−長親−信忠−清康…家康(安祥(あんじょう)松平家)

     Γ乗清(のりきよ)(滝脇松平家)

     Γ光重(みつしげ)(大草(岡崎)松平家)

      ∟他、多数

※徳川家による改ざんが酷すぎて、この時期の松平家の系図&生没年は滅茶苦茶らしいのですが「三河物語」説を採用



    ~明応2年(1493年)10月 井田野~



 最初に火が見えたのは、井田野の南だった。秋の終わり、霜の気配がまだ土の芯に残る朝。村外れの納屋が燃え、乾いた藁が音を立てて弾け、黒煙は低く棚引いて野を這った。


 風は矢作川の方から冷たく吹き上がり、火の粉と匂いだけが、戦の到来を誰にもわかるように告げた。


 知らせは、ほとんど同時に三方から届いた。中条が動いた。山中が兵を集めている。西郷が岩津との境を越えた。狼煙に重なる伝令の息は乱れ、言葉は短く、だが確かだった。


 ――さっそくか……。


 安祥松平家の当主、松平 親忠(ちかただ)はそう思った。岩津軍が菅沼相手に()いた――小競り合いを仕掛け勝ちきれず退いた、という噂が、いつの間にか「大敗」という尾ひれを生やし、三河じゅうを駆け回っている。三河の国人たちが匂いを嗅ぎつけるのに理屈は要らない。松平が弱った、それだけで十分だった。


「兵は、集まりますか。」


 家臣の問いに、親忠は即座に答えた。


「集める。数は要らぬ。動ける者だけでよい。」


 集まったのは、結局二千に満たなかった。だが、遅れるよりはましだ。井田野は平野で、遮るものが少ない。逃げ場はない。ここを越えられれば、岡崎は裸になる。だからこそ、守れなければ――裂けるのは岩津だけではない。松平という名の腹そのものが、真っ二つに割れる。


「井田野で迎える。」


 親忠が言うと、家臣たちは顔を見合わせた。敵は合せて四千、こちらは二千に足らず。しかも岩津松平は動かず、大給(おぎゅう)松平も沈黙を保っている。


 ――またか。


 誰も口には出さないが、皆が同じ思いを飲み込んだ。先の国境戦でもそうだった。惣領家を名乗りながら、岩津は城に籠もり、周囲の消耗を待つだけだ、と。


 矢作川から吹き上げる冷風が、草を伏せ、露をこそげ落とし、黒い土をさらす。親忠は馬上から地を見た。敵は散っている。一つの大軍ではない。小さな群れが、火を上げ、奪い、また散る。乱戦に見せかけて、動線だけは巧みに繋がっている。


「……岩津の親長(ちかなが)は、何をしている。」


 独りごとのように漏らした声に、返事はない。間もなく、敵の先鋒とぶつかった。昼前、中条の旗「鷹の羽」が見えた。数は千余。親忠は迷わなかった。


「押せ。」


 短い命。横から回り、正面は崩さず、退路を断つ。兵法書のような手堅い戦い方だが、戦場で実際にそれをやれる者は少ない。中条勢は、思ったより脆かった。


 安祥は本気だ。――そう悟った瞬間、足は止まる。止まった軍は、負ける。夕刻までに、中条勢は潰走した。


 だが、勝っても終わらない。火は消え切らず、煙は別の方向から這い寄ってくる。その夜の評定は短く、重かった。


「殿、山中が北から。」


「西郷は引きません。」


 地図の上で、岩津の位置だけが空白だ。誰もそこへ線を引かない。親忠は井田野の真ん中を指で押さえた。


「……ここは、守る。ここを越えさせねば、松平は持つ。」


 松平一門の惣領が言うべき言葉を、惣領家ではない安祥松平が言った。誰も反論しなかった。


 翌日、山中勢と西郷勢とが交互に波のように押し寄せ、刃を噛み合わせた。最初の衝突の刹那に、侵入者たちは悟った。


 ――安祥は、引かない。


 勝敗の勘定よりも、その事実の方が重くのしかかる。血は流れ、死体は並んだ。しかしその日も、井田野は破られなかった。野の端で、夜風が鉄の匂いを運んだ。


 三日目、親忠は松平諸家に命じた。


「兵の数を数えるな。立つ場所を数えよ。」


 井田野は広い。だが、軍が動ける場所は限られている。湿地、用水、畦道。隊をむやみに広げれば、足が止まる。敵の背を、水に向けさせろ。


「突っ込むな。水辺に押し込め。」


 意味は一つ。――殺すな。散らせ。討ち取るより、動けなくする。逃げれば、また来る。散れば、整うのに時間がいる。


 太鼓が鳴り、安祥の隊列がほどけ、また結び直されて前へ出た。正面から、だが深くは入らない。山中の兵が応じる。数で押せると見たのだ。そこで地が牙を剥いた。足が止まる。湿地に踏み込み、抜けられない。後ろは味方で詰まる。


 大軍は、身動きが取れぬほど脆い。包囲ではない。だが、密集という檻は同じだ。


「今だ」


 親忠の合図で、横から矢が降る。濡れた地表を跳ねて、矢羽が泥を散らし、叫びが上がる。山中の残兵は湿地に足を取られ、西郷勢は水辺に押し返され、弓と太鼓の拍に合わせて、隊列が波打つように乱れた。


 その(とき)だった。東の丘に、法螺貝と太鼓の音が重なって響き、赤い雲霞(たいぐん)が沸いた。


「……赤?」


 誰かが呟く。赤備え。槍は揃い、旗がはためき、列は乱れない。動きは早いが、無駄がない。丘の稜線に沿って並び立ち、赤い釘抜き紋の旗の中央で、見慣れた旗印が風に翻った。


 剣銀杏紋(けんいちょうもん)――岩津松平の印。


 岩津の弥三郎が生きている。担ぎ出されている。ざわめきが、敵陣をそして自陣を走った。


「岩津は、あれを捨てたのか」


「いや……菅沼が抱えている」


 どちらに転んでも、意味は同じだった。岩津松平の旗印が、いま菅沼の手中にある。


 ――背後に、新たな敵がいる。


 それだけで、山中勢は一歩が出ない。振り向けば水、前へ出れば赤。安祥松平の兵は、今度は深く突き入った。


 安祥松平勢が井田野の草を踏み荒らし、踏み再び押し込んだ。今度は、深く。そして敵は崩れ始めた。



――――井田野(いだの)


 三河には、幾度も戦国の武者たちの血が吸われ、叫びが土に鎮まった大地がある。


 井田野(いだの)。あるいは戦死者たちの霊の苦悶の声が絶えず響くため、魂場野(こんばの)魂魄野(こんぱくの)とも呼ばれた、現在の愛知県岡崎市井田町の一帯である。


 井田野は岡崎市北部、矢作川流域に広がる開けた平野である。尾張と三河を結び、さらに伊保・挙母(豊田)・岡崎を縫うようにつないだ交通の結節点。軍勢が横陣を敷きやすく、進軍線も退路も確保しやすい――迎撃にも追撃にも適した、軍事的条件が過不足なく揃った土地だった。


 だからこそ、ここを押さえる者が三河を制し、ここで退く者は三河を失う。井田野は単なる合戦場ではなかった。三河の支配者を定める「試金石」であり、勝者と敗者の運命を峻別する場所だ。


 室町後期、守護の力が衰えた三河では、阿部・中条・鈴木・三宅・那須といった国衆たちが割拠していた。その中で勢力を伸ばそうとしたのが松平氏である。だが、その一歩一歩は必ず反発を招いた。そして決まって衝突の場として選ばれたのが井田野だった。


 応仁元年(1467年)第一次井田野の戦い。松平信光とその子・親忠は、尾張品野や三河伊保の勢力とこの地で激突し、辛くも勝利を収めた。しかし、戦いの代償はあまりにも大きかった。敵味方を問わぬ死者が野に横たわり、屍は積み重なった。やがて怪異が相次ぎ、人々はこの地を「魂の集う野」と呼ぶようになる。親忠は戦死者を敵味方の別なく葬り、千人塚を築く。


 そして文明七年(1475年)、その霊を弔うために建立したのが大樹寺である。大樹寺は単なる松平家(徳川将軍家)の菩提寺ではない。血で築かれた松平家の基盤と地位、武の裏側にある「鎮魂」という意志を、石と木に刻み込んだ場所だ。


 明応二年(1493年)――第二次井田野の戦い。中条氏を中核とする三河国衆連合四千が松平領へ侵攻する。松平親忠は二千の兵でこれを迎え撃ち、井田野で正面から衝突した。兵数で劣りながらも、岩津勢の加勢による挟撃が決まり、敵は総崩れとなって敗走する。この勝利で親忠は一族内での地位を決定的なものとし、井田野は再び「誰が三河を率いるか」を明確に示す秤となった。前例は力を帯び、以後の戦もまた、この野へと引き寄せられていく。


 その後も井田野の地は沈黙を拒んだ。永正三年(1506年)には、伊勢宗瑞(北条早雲)を客将に戴く今川軍に対し、松平長親が対峙し、田原城主戸田憲光を寝返らせて今川勢を駿府へ退かせた。天文二年(1533年)には、広瀬城主三宅高貞、寺部城主鈴木重辰らが再び岩津城を脅かし、松平清康がこれを迎え撃って払う。同年、信濃から押し寄せた兵数千を清康が井田野で撃退したことも記憶される。


 さらに天文四年(1535年)、松平清康暗殺後の混乱に乗じて侵攻した織田信秀に対し、わずか十歳の松平広忠が軍を率いて対峙したのも、この地でのことであった。


 こうして松平長親、清康、広忠の代に至るまで、戦火は繰り返しこの地を舐め、焦がし、また肥やした。井田野は常に、岡崎城の手前で敵勢を食い止める最後の防衛線であり、三河の趨勢を測る物差しであり続けたのである。


 そして永禄三年(1560年)。桶狭間で敗れ、追撃を受けつつ大樹寺へ逃れた松平元康――後の徳川家康を守るため、僧兵たちは命を賭して戦い、数多の死者を出しながらも織田軍を退けた。遺骸は西光寺裏の大衆塚に葬られ、井田野の記憶はさらに一段、重さを増した。祈りと武の交錯は、ここで確かに一本の筋となったのである。


 征夷大将軍の唐名「大樹」を寺号とする大樹寺の三門に立てば、後奈良天皇の勅額が掲げられた門の奥、一直線の延長に岡崎城が見える。いわゆる「ビスタライン」で結ばれた眺望は、単なる景観ではない。井田野で流された血と、城で継承された権力とが、一本の視線の上で結び直される無言の証言である。


 井田野は語る。――三河の覇者は、偶然に生まれたのではない。井田野という血と魂の交差点を、幾度も越えた末に、生まれたのだと。

〜参考記事〜

ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座 / 愛知戦国史跡ナビゲーター・みかわのひで

https://sengokushiseki.com/?p=2662


ビスタライン / 岡崎市ホームページ

https://share.google/nh4dAoievq7qL49Fa


〜参考動画〜

ビスタライン / 岡崎市広報

https://youtu.be/xjkHM7alStQ?si=YbHjEQHRLi-lmp32


〜舞台背景〜

 明応二年(1493年)第二次井田野の戦いを史実どおりの骨格(戦上手の安祥松平親忠の少数迎撃)で書きました。詳細表現は数で劣る東晋が前秦を川に追い込んで勝った中国故事「淝水(ひすい)の戦い(383年)」のイメージで作文しました。

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