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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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059 ~明応2年(1493年)6月 飯田街道~

挿絵(By みてみん)

豊田市簗平町付近(2013年(平成25年))

矢作川または矢矧川 (やはぎがわ)は、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本川。最上流部は「根羽川」とも呼ばれる。出典:Wikipedia

    ~明応2年(1493年)6月 飯田街道~



 霧が晴れきらぬ朝だった。矢作川は、夜半の雨を含んで水位を増していた。激流ではない。だが、決して穏やかでもない。鎧を着けた兵が列を成して渡るには、あまりに重く、あまりに冷たい。

 

 岩津松平家当主、松平 親長(ちかなが)は、岸辺に立っていた。その視線の先――川向こうの街道には、赤が見える。当主としてではなく、一人の決断者として、川を見ていた。


 ――越えねば、終わる。


 ――越えれば、終わる。


 (ことわり)は、前者を選べと言っていた。だが、家中は理で動かぬ。背後では、兵が起き始めていた。焚き火の残り火。湿った草鞋。咳の音。彼らは待っている。勝利をではない。判断を。


 赤備え。槍を揃え、旗を動かさず、千を超える兵が、渡河点の先に布陣している。彼らは川に近づかない。矢も放たない。ただ、待っている。


「……渡れるか。」


 親長の問いに、誰も即答しなかった。


 やがて、足軽大将が低く答える。


「……数百なら、可能かと。ただし……」


「ただし?」


「秩序は保てませぬ。流される者、溺れる者、必ず出ます。」


 親長は頷いた。分かっている。戦だ。死人が出るのは当然だ。


「よい。やれ。」


 命が下った。その声は低く、だが明確だった。命が伝えられる。渡河の準備。(いかだ)はない。ろくな舟もない。あるのは、夜のうちに集めさせた粗末な木材と、縄と、数だけはいる兵だけだ。


 最初に川へ入ったのは、軽装の足軽たちだった。槍を掲げ、声を掛け合いながら、慎重に進む。だが、数歩で足を取られる。流れは、見た目より速い。


 「踏ん張れ!」


 「手を離すな!」


 「流されるぞ!」


 「荷を捨てろ!」


 「戻れ、戻れ!」

 

 一人が転び、二人が支え、三人目が流された。鎧は着ていない。それでも、水は重い。急 (ごしら)えの小舟に乗った親長の耳に、水音とは別の音が届く。


 ――川向こうの、(とき)の声。


 低く、揃い、落ち着いた声。赤備えの陣が、こちらを見ている。矢は飛ばない。弓も引かれない。ただ、見ている。それが、最も残酷だった。渡河は、戦ではない。事故の連続だ。足を取られ、流され、引き上げられ、また押し出される。叫び声が霧に溶ける。


 岸では、次の組が押し出される。数で押し切るしかない。百が倒れても、千が残れば越えられる。それが、大軍の論理だ。


 ――だが。


 向こう岸に辿り着いた者たちは、皆、同じ顔をしていた。息が上がり、足が震え、槍を構える余裕がない。動けなかった。濡れた草鞋。泥だらけの足。息が上がり、隊列は崩れている。


 そして、彼らが顔を上げたとき――赤備えは、そこにいた。街道に沿って、完全な形で並んでいた。千を超える兵。槍は揃い、旗は動かず、馬は落ち着いている。彼らは、川を越えない。越えさせるのを、待っていた。


 距離はある。(つが)えられた紅い弓の有効射程には、まだ遠い。朱槍は、もちろん届かない。だが、赤備えは一歩も前に出ない。挑発も、威嚇もない。ただ、整った陣が、そこにある。


「……進め。」


 親長の声は、わずかに掠れていた。


 兵が動こうとする。だが、誰も鬨を上げなかった。背後は川。濡れた草鞋。重くなった身体。


「殿……」


 家老の声が、親長の耳に届く。


「これ以上は……」


 親長は、川と赤備えを交互に見た。ここで強行すれば、数では勝てるかもしれない。だが、それは赤備えと戦うことではない。自軍が、川と地形と時間に削られていく戦だ。

 

 ここで兵を失えば、戻れない。戻れば、弱さを晒す。だが、ここに留まれば――何も起こらぬまま、崩れる。親長は、歯を噛みしめた。赤備えは、近い。だが、届かない距離にいる。それが、敗北だった。


 その瞬間(とき)――赤備えが、動いた。動いたと言っても、突撃ではない。隊列がわずかに横へずれた。ずれた間から使者が一騎、街道を駆けてきた。


「……これ以上、進まれますな。」


 淡々とした声だった。


「ここから先は、岩津ではござらぬ。」


 親長は、答えなかった。答えられなかった。この渡河で、弥三郎は取り戻せなかった。菅沼に届かなかったただけではない。家中が裂けた。兵は消耗した。得たものは、ただ一つ。――「越えた」という事実だけ。


 それは、武威ではない。言い訳だ。その夜、岩津松平軍は、陣を引いた。撤退ではない。「進軍の目的を果たした」と称して。だが、誰もそれを信じていなかった。兵は黙って歩き、家老は視線を交わさず、親長は一言も発しなかった。


 その夜も矢作川は、何事もなかったように流れていた。



ーーーーー



 撤き太鼓は、最後まで鳴らされなかった。岩津松平軍は、静かに陣を畳んだ。旗は下ろされ、槍は束ねられ、焚き火は踏み消される。それは整然とした動きだったが、秩序ではなく、諦念が支配していた。誰も勝敗を口にしない。だが、誰もが分かっている。


 ――これは、敗北だ。


 川を背にし、軍は西へ向かった。来た道を、同じように戻る。だが、同じ景色は、同じ意味を持たなかった。 ある足軽が、ぽつりと呟いた。


 「……菅沼は、追ってきませんな。」


 それが、決定打だった。追撃がないという事実は、慈悲ではない。相手に、こちらを滅ぼす必要がなかったという証明だ。行軍の列は、次第にばらけ始めた。隊列が乱れたのではない。気持ちが、散ったのだ。

 

 家老たちは、本陣に集まった。だが、輪は歪だった。声を上げる者、沈黙する者、視線を逸らす者。


「……殿。」


 その呼びかけには、敬意よりも距離があった。


「今回は、やむを得ませぬ。ですが――このままでは、岩津は持ちませぬ。」


 誰も遮らない。親長は、何も言わない。


「兵を出し、国境で止まり、何も得ずに戻る。これでは、周囲はどう見ましょう。」


 別の家老が、続けた。


「安祥は、必ず(わら)います。菅沼は、武威を得ました。我らは……何を得たのか。」


 沈黙。親長は、ようやく口を開いた。


「……越えた。」


 短い言葉だった。家老は、目を伏せた。


「ええ。越えましたな。ですが、弥三郎は戻らず、菅沼は倒れず、兵は消耗しました。」


 その言葉は、刃だった。


「殿、申し上げます。この敗は、戦の敗ではござらぬ。政の敗にございます。」


 誰かが、小さく息を呑んだ。


 (まつりごと)――


 当主の判断。家中の統率。外との関係。それらすべてを含む言葉。


 親長は、否定しなかった。それが、致命的だった。沈黙は、同意と同じだ。その夜、噂が走った。


 「当主は、迷った。」


 「菅沼を前に、踏み込めなかった。」


 「安祥を恐れた。」


 誰が言い始めたのかは分からない。だが、止める者はいなかった。

 

 翌日、軍は岩津城へ戻った。城門は開いた。だが、出迎えは少なかった。城下では、囁きが交わされていた。


「負けたらしい。」


「赤備えに止められた。」


 事実かどうかは、どうでもよい。信じられた時点で、真実になる。

 

 城内でも、同じだった。評定は荒れた。家老衆は、二派に分かれた。


 「安祥と手を組み、まずは菅沼を討つべし」


 「いや、菅沼と和して安祥に当たるべし。」


 どちらも、岩津を思っている。だからこそ、譲れない。


 親長は、評定の席で、ふと気づいた。誰も、「弥三郎を討つべし」とは言わなくなっていた。


 それは、諦めではない。関心の喪失だった。


 「このままでは家が滅ぶ。」


 庶子の首より、当主の首の方が、現実味を帯び始めていた。


 その夜、親長は、夢を見た。川を渡ろうとする夢だ。だが、足が動かない。赤備えは、近いのに、永遠に届かない。目が覚めたとき、汗で衣が濡れていた。

 

 松平親長は、悟っていた。この敗北は、まだ終わっていない。


 むしろ――ここからが、本当の敗北だ。

〜参考記事〜

松平親長 (岩津家) / Wikipedia

Wikipedia https://share.google/AlUgUYv1z4UTnWkLt


〜舞台背景〜

 松平家といえど勢力伸長前なので、富国強兵の進んだ主人公の菅沼家とは大きな国力差がついてしまっており、結局…戦争になりませんでしたw。

 短絡的に玉砕しても興醒めかなと思ったのと、史実でも松平親長は1506年に北条早雲率いる今川軍に攻められた際にサクッと京都に逃げて、京都で天寿を全うしたそうなので、少し情緒的にじんわりとざまーの回です。

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