055 ~明応元年(1492年)11月 岡崎宿~
~明応元年(1492年)11月 ~岡崎宿~
凍てつきそうな水の張った川沿いの作事場を包む空気は冷たく張り詰めていた。しかし、その静寂を切り裂くように力強い槌音が響き渡る。
カン、カン、という鉄の音が空に溶け、職人たちの吐き出す白い息が熱を帯びて霧のように立ち込めていた。
「権六さん、精が出ますね。」
ふいに響いた涼やかな声に、模型の設計図を凝視していた権六が大きく肩を揺らした。振り返れば、そこには薄紅色の小袖の上に質素な前垂れを締めた、紫乃の姿があった。
作業場の土間には、新酒「紫乃」を詰めた樽も積まれている。
「紫乃さん……。船大工たちにまで酒を売りに?」
「ええ。評判を広げようと思って。でも、一番の目的は……差し入れです。」
紫乃はいたずらっぽく微笑むと、船大工たちに盃を配ろうとし始めた。権六は慌ててそれを手伝おうとして、自分の手が墨と木屑で汚れていることに気づき、慌てて手を引っ込めた。
「汚ねえ手で触るわけにはいかないけど…わざわざ…。ここでの作業は冬の寒さが堪えるから、みんな、酒と聞けば飛び上がるほど喜ぶと思う。」
「もちろん権六さんの分は別にありますよ。これは特別に……寒冷の折、体を温めてもらおうと思って。」
紫乃が差し出したのは、竹筒に詰められた熱い甘酒だった。湯気がふわりと権六の鼻をくすぐる。
権六は照れ隠しに後頭部を掻きながら、それを受け取った。指先が触れそうで触れない、その絶妙な距離感に、権六の心臓が不器用な鼓動を刻む。
「……美味い。」
「まだ飲んでないでしょ?」
「あ、ああ……。匂いだけで、紫乃さんが来ると、この殺伐とした作事場が急に春になったみたいだ。」
権六の率直すぎる言葉に、今度は紫乃が頬を染めた。彼女は視線を逸らすように、背後にそびえ立つ建造中の巨大な船体を見上げた。
「大きいっ…権六さんの考えた船が海を渡るのですね。」
「この船が完成すれば、紫乃さんの酒が日の本の端々までたくさん届くようになるよ。」
紫乃はそっと権六の横顔を見つめた。船に施した知恵への信頼に満ちた力強い瞳。彼女は直接的な言葉を避け、代わりに彼の羽織の肩に積まった大鋸屑を、指先で優しく払った。
「……その日までにお酒をいっぱい造っておきますね。」
言葉にできない想いが、冬の午後の光の中に溶けていく。お互いにあと一歩を踏み出せない、もどかしい間が二人の間に流れていた。
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紫乃が去った後、作事場は再び「狂気」の熱量に支配された。安兵衛と権六、そして各地から集められた船大工たちは、和船の限界に挑んでいた。
「よし、これから『大板造り』の山場だ! 根棚から中棚へ、はぎ合わせを始めるぞ!」
安兵衛の号令が飛ぶ。今回の船は、単に既存の船を大きくしただけではない。積載量を最大化しつつ、かつ矢作川の浅瀬に耐えながら伊勢の荒波を裂いて走るための「構造改革」が施されていた。
まず取り掛かるのは、船底の「航」に続く外板の接合だ。通常、一枚の巨材で賄うべき部位を、あえて複数の板を「はぎ合わせ」ることで強度を出す。しかし、そこには浸水という致命的なリスクが伴う。
「『木殺し』を忘れるな! 接合面を叩いて潰し、水を含んで膨らむ余裕を作れ!」
安兵衛の声が響く。大工たちは玄翁を使い、板と板が重なる面を丹念に叩いていく。潰された組織が水に触れた時、鋼鉄のような水密性を生み出すのだ。
続いて、鍛冶屋が打ち出した巨大な「縫釘」が、厚板を貫いていく。その数は多すぎれば木を割り、少なすぎれば強度が足りない。まさに経験と直感の領域である。
「摺り合わせ、入念に! 髪の毛一本の隙間も許さぬぞ!」
安兵衛は自ら鉋を握り、航と根棚の接合部を微調整する。和船は西洋船のような強固な「肋骨」を持たない。その代わりに、板同士を複雑に組み上げ、互いの張力で強度を維持する「大板構造」がすべてなのだ。
作業はさらに深化する。
船腹の左右の力を支える「船梁」の設置だ。下船梁、中船梁、上船梁。これらを何本通すかが議論の的となった。
「中船梁を抜けば、荷が載る。だが強度が落ちる。」
「親方、見ててくれ。船梁を太くする代わりに、この『筒挟』と『筒立』の構造を強化した。帆柱を支える力を船体全体に分散させる仕組みだ。さらに、外板には『はぎつけ』を追加して、波頭を防ぐ。」
権六の提案は大胆だった。従来の木割術を無視し、力の流れを計算し直した設計。
欅で造られた「水押」が船首を峻烈に反り上げ、船尾には「戸立」が頑強に据えられる。舵の身木には樫、羽板には松。適材適所の極致が、一つの形へと収束していく。
~明応2年(1493年)3月 ~岡崎宿~
年が明けてから幾月か過ぎた明応二年三月。ついにその時が訪れた。
作事場の中央、巨大な船体の中央部に、巨大な帆柱が立てられる「筒立」の工程である。
「筒立祝、執り行う!」
厳かな声とともに、安兵衛が帆柱の根本に「船魂祭文」を封じ込める。これは仏像の開眼供養に相当する儀式だ。ただの木の塊であった構造物に、神が宿り、一つの「命」としての船が誕生する瞬間であった。
「千早振る神の社はここにあり、あまくだりませ船魂……」
船大工たちと山地師たちが三度唱和する。その声は作業場の外にまで轟き、道行く人々の足を止めさせた。
仕上げに、上部には「合羽」や「矢倉板」といった甲板が張り詰められ、舷側には「垣立」が美しく整えられた。
完成したその姿は、これまでの和船の常識を覆す威容を誇っていた。どっしりとした安定感を持ちながら、権六の設計した轆轤と滑車により、巨大な刺帆がわずか数人で操作可能となっている。
「親方……やったね。」
「ああ。だが、これは始まりに過ぎんぞ、権六。この船が三河の海を割り、伊勢へ、そして日の本の果てまで行く。それが望まれる船だ。」
冬の終わり。早咲きの梅の香が風に乗って運ばれてくる。
権六は、作事場の隅で見守っていた紫乃に気づき、誇らしげに胸を張った。紫乃もまた、その輝かしい姿を眩しそうに見つめ、深く頷いた。
~舞台背景~
小説家になろう「夏颯記」/槐
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作者様にご事情があって、お休みされていた「夏颯記」が更新再開されました、嬉しい♪
で、やっぱり面白かったです。伏線というか黒幕を設定する手法はなんとなく理解出来るのですが、伏線回収の仕方が絶妙で、なかなか真似できませんw








