054 ~明応元年(1492年)11月 岡崎宿~
~明応元年(1492年)11月 岡崎宿~
迫りくる冬の刺すような寒空の下、岡崎の作事場では、これまでにない巨大な「差図(設計図)」が産声を上げようとしていた。
作業場に集まった船大工たちは、床に置かれた巨大な樟の材を前に、「この規模では、波の凄まじい捻じれに耐えうる中船梁が何本あっても足りぬ」と口々にこぼし頭を抱えていた。
そんな喧騒の片隅で、少年・権六は一人、自作の模型と静かに向き合っていた。
権六の瑞々しく既成概念に囚われない感性が、ベテランの船大工たちが縛られている「船は頑丈な梁を幾重にも渡して支えるもの」という固定観念を、いま正に軽々と飛び越えようとしていたのである。
「ねえ、安兵衛さん。この模型の『中船梁』、思い切って全部抜いてみてもいいかな。」
権六の放った突拍子もない言葉に、作事場の空気が一瞬で凍りついた。棟梁の安兵衛が、信じられぬものを見るかのように目を見開いて権六を振り返る。
「何を馬鹿なことを。中梁を抜けば、横波を食らった瞬間に船腹がひしゃげて、お終いだ。そんなのは船ですらねえ。」
「でもさ、親方。中梁ってのは結局ただの『突っ張り棒』だろ? だったら、もっと別のやり方で力を逃がせばいいんだよ。」
権六は懐から、竹を細かく編んで作った奇妙な形の部材を取り出した。
「これを見てよ。上と下の梁を『まつら(肋骨)』で繋ぐんだ。中梁という横棒をなくす代わりに、船の皮――つまり外板に沿ってしなる骨を入れるのさ。そうすれば船体はぐんと軽くなるし、中身はがらんどうになって荷物がいっぱい積める。」
静まり返った座敷に、安兵衛の震える声が低く響いた。
「中船梁を……抜くというのか。この巨大な船から……。」
これまでの和船の常識では、船体横方向の圧力を支える「中船梁」を増やすことこそが、船を大きくする唯一の手段であった。だが、それは同時に船体を重くし、積載量を減らし、操舵性を著しく損なうという「矛盾」を常に孕んでいた。
「確かに……。下船梁を上棚の端まで延ばし、上棚に沿って『肋骨』を這わせる。これで上下を繋げば、中梁がなくとも強大な捻れに耐えうる構造になる。」
安兵衛の脳裏で、何十年という歳月をかけて積み上げてきた船大工の「木割」が音を立てて崩れ、全く新しい形へと再構築されていく。
権六が指摘した「からくり」は、当時の船大工が数百年の経験知で築き上げた「剛」の設計を、根底から覆す「柔」の発想であった。
「……面白い。権六、その『しなり』のからくり、本物で試してみる価値は十分にありそうだ。」
船体の基本構造が決まると、次なる課題は「風を効率よく掴む力」へと移った。
当時の和船の帆は、筵を編み連ねた「筵帆」が主流である。安価ではあるが、重く、風を孕む効率は決して良くはない。
そこで権六が目をつけたのは、奥三河の地で生産が始まりつつあった木綿であった。だが、ただの木綿布では潮風に晒されれば瞬く間に裂けてしまう弱点がある。
「なら、二枚重ねて縫えばいいんだよ。母ちゃんが冬の防寒着を作るみたいにさ。」
権六の発案により、薄い木綿布を二枚重ね、太い木綿糸で縦横無尽に刺し子を施した「刺帆」の図面が引かれた。
一枚の厚い布を織るよりも手間はかかるが、刺し子の糸が格子状の「骨」の役割を果たし、風の圧力を面全体へ均等に分散させる。さらに、帆桁の可動範囲を広げるための滑車を組み込むことで、これまでの和船では不可能だった横風、さらには逆風に近い角度からの航行をも可能にしようとしていた。
そしてその滑車、この巨大な船を少人数で操るための核心的技術が、”奇才”権六のさらなる「からくり」によってもたらされた。
「帆をこれだけ大きく重くすると、十人そこらの船子で引き揚げるのは到底無理だよ。だから、これを使うんだ」
権六が設計したのは、複数の滑車と、大人の腰ほどの高さがある巨大な「轆轤」を連動させた、強力な巻上装置であった。
これまでの和船では、巨大な帆を揚げるのも、重い錨を引き揚げるのも、すべて船子たちの力任せな過酷な労働に頼っていた。だが、この轆轤があれば、わずか数人の力で巨大な刺帆が悠然とマスト(筒)を昇り、さらには荷や錨の積み下ろしまでもが劇的に省力化されるのである。
「親方、見てて。船子の腕力の代わりに、この仕組みを使って海を自在に走れるようになるんだ。」
権六が模型の轆轤の柄を回すと、キチキチと小気味よい音を立てて、重い積荷を模した石が軽々と浮き上がった。安兵衛はその光景を、震えるような感動を禁じ得ず眺めていた。権六の「からくり」が、数百年にわたる肉体労働の歴史を、技術の力で塗り替えようとしていた。
~明応元年(1492年)12月 岡崎宿~
ついに作事場の中央に、「航」が据えられた。船の背骨となる、巨大な樟の一枚板。その圧倒的な長さと厚み。奥三河の深い山々が数百年という歳月をかけて育て上げた命が、いま海へと続く台座に堂々と横たわったのである。
「航据祝」の厳かな儀式が執り行われる。安兵衛は、集まった船大工と山地師たちの前に立った。皆、埃と木屑にまみれ、目は充血し血走っているが、その表情には類まれなる職人としての誇りが宿っていた。
「皆の衆、これが我らの造り上げる新しい船だ。この船はただ荷を運ぶための道具ではない。三河と日の本の隅々まで繋ぐ船となるのだ!」
安兵衛の力強い号令とともに、鍛冶屋が精魂込めて打ち出した巨大な「縫釘」が、一気に打ち込まれた。カン、カン、という澄んだ鉄の音が、冬の澄み渡った岡崎の空に高く、どこまでも響き渡っていった。
翌日から、現場の作業は狂気的なまでの熱量を帯びて加速した。
使われる材は、船底の「航」に樟、波を切る要の「水押」に欅、舷側の「垣立」には檜。適材適所、山地師達が奥三河の山々から切り出した最高級の材が、次々と作事場へ運び込まれる。
ガガガ、と小気味よい音が絶え間なく響く。
それは「木殺し」と呼ばれる、板とはぎ合わせる面を玄翁で丹念に叩き、組織を意図的に潰す作業だ。水に浸かった際、潰された木が再び膨張し、接合部を鋼鉄の如き水密性で固めるのである。
「摺り合わせ、厳に! 髪の毛一本、紙一枚の隙間も断じて許さぬぞ!」
安兵衛の峻烈な怒声が飛ぶ。大板と大板を繋ぐ「はぎ合わせ」の精度こそが、船の命運を左右するのだ。西洋船のような頑強な骨組みを持たない和船にとって、板同士の結束こそがすべてであった。
安兵衛は、墨と手垢で汚れきった手で、最新の差図を愛おしそうに撫でた。
(中船梁を抜き、肋骨で船を繋ぐ……。本当に成し遂げられるのか。ふっ⋯大それた挑戦じゃ。)
そこには恐怖はなかった。あるのは、技術の新たな地平が広がる瞬間に立ち会っているという、船大工としての無上の、そして震えるような悦びであった。
その傍らでは、権六がまた別の作業に没頭していた。岡崎で知った「蛇腹垣」を応用した、竹編みの防波構造だ。
「突っ張るばかりが能じゃないんだ。波が来たら、この竹がしなって力を逃がす。船を重くせずに大波を防ぐ……。これが『矛盾の克服』ってやつだよ。」
権六もまた、この岡崎の地で大きな技術的気づきを得て、編み上げた竹を船体の模型に誇らしげに添えた。重厚で力強い船首と、軽やかでしなやかな竹の波返し。
その対照的な美しさは、これからの菅沼家が歩む「剛」と「柔」の戦略を象徴しているかのようだった。
〜参考記事〜
特攻艇 - 船大工考 /日本財団図書館
https://share.google/JtUVhoCREt6jkpokd
〜舞台背景〜
和船を作るのがどれくらい難しかったかについて、少し悲しいお話ですがご紹介します。
配色濃厚な太平洋戦争末期、爆弾を乗せて敵艦に突撃する特攻艇は鉄不足のため、そして壮年の職人は戦地に行っているので、学徒動員の生徒(女子含む)が木材で作っていたそうです。
しかし簡単に思える木材を挽いて、削って、彫って、組み立て鋲締する作業は熟練工でなければ無理で、見習工未満では片道の使い捨てとはいえ特攻艇の漏水を止める事が困難だったそうです。
そんな途中で沈みそうな木造特攻艇には爆弾と1包の菓子と酒一升びんが置かれており、出陣の時はこの酒を飲み、菓子をつまんで、サイレンサーの無い中古エンジンで爆音を響かせ、牛歩のスピードで、高性能レーダーと高射程機関銃を備えた米艦隊に突撃していったそうです。
たった81年前のお話です。








