053 ~明応元年(1492年)11月 岡崎宿~
~明応元年(1492年)11月 岡崎宿~
作事場の座敷に、床一面の雁皮紙が継がれて広がった。四隅に錘代わりの木口を置き、筆洗に薄藍の墨を溶かす。ところどころに赤い印が打たれている。
壁には曲尺と差金、油紙包みの合い刃摺り鋸が影を落としていた。
そして権六が拵えてきた一見精巧な、後の弁財船にも似た模型が机上に置かれる。杉板で航を薄く弓なりに削り、左右に根棚、中に下・中・上の梁。はぎ合わせの線は紙やすりで摺ったように細かく整え、縫釘の位置まで朱で打ってある。
「模型で水は語らぬ。」
船大工の誰かが笑い、別の誰かが呟く。
「面白い。」
紙の上で笑いはすぐに乾き、墨線の冷たさが戻った。
「先ずは方針を確認しよう。」
船大工の棟梁・安兵衛が声を澄ます。
「矢作の浅洲を越えながら、伊勢の海のうねりを抜ける船を造る。そして速く、荷を沢山積める船を造りたい。これで宜しいかな山の衆。」
利兵衛は頷くが、年配の船大工が横槍のように口を開く。
「言うは易し、ですぞ。そりゃ船が大きくなる。大きな船となると、板の腹が水を食うた時に、どこへ力が逃げるか、図の上では見えやせん。」
安兵衛が筆を置き、指で権六の造った模型の航から水押までの曲線をなぞる。
船大工たちが身を乗り出した。
「大きいな…。」
「小さい船をただ大きくするという訳にはいかん。」
「この曲がりでは、材の尺が足らん。樟でも長さが出るかどうか。矧ぎ合わせになる。」
安兵衛が言い切った。
「矧ぎ合わせ前提じゃ。」
言って、安兵衛は山地師達の視線を感じたのか、静かに言葉を継いだ。
「山の衆の言う、速く走り、荷を沢山積める船を造るなら当然、船は大きくなる。接ぎ目の摺り合わせを厳にして、大きな楠の材でさえ継がねばならん。」
聞き慣れない言葉に戸惑う山地師達を気にかけながらも、安兵衛は続けた。
「大板造りを基本に、『矧ぎ合わせ』『摺り合わせ』を厳に。排水と舷側の立尺を零さぬよう。」
兵衛が模型の接ぎ目を指でなぞりながら言った。
「じゃが、先ずは差図の言葉の合わせからだ。うちの寸と、山の寸が違っては話にならん。曲尺は曲尺、間は間。板の呼び名も揃える。」
船大工や山地師たちが頷く。
「航は『かわら』、根棚、中棚、上棚。船梁は下・中・上。山の呼びとは違うが、これからは船の言葉に合わせて貰う。材は、航に樟、水押と戸立に欅。梁と棚は杉、垣立は檜。舵身木は樫、羽板は松。竹は蛇腹に使う。」
「蛇腹?」
権六が首を傾げる。
「軽い竹を波返しに使うんじゃ。編んで垣の外に吊る。風にはたわみ、波には弾む。突っ張るばかりが能じゃねえ。」
安兵衛が割り竹を手に取り手振りで示した。
「よし、言葉が揃ったなら、線を決めよう。」
安兵衛は筆を取り、航の反りを一分落とし、戸立にかけての膨らみを描き足した。
座敷の上の紙は、徐々に罫のように線で満ちていく。
いつの間にか日は落ち、作事場の外から聞こえていた子供の笑い声が遠くなっていった。
――――和船(弁財船)
和船、とりわけその究極である弁財船(弁才船)を語るとき、決まって付き纏う評価がある。
「西洋船に比べて未発達」「構造が原始的」「脆弱」。
だがそれは、技術を単線的な進歩史として捉えたときに生まれる誤解にすぎない。和船(弁財船)は西洋船とは異なる自然条件・経済条件・社会構造に最適化された、西洋船とは別種の完成形である。
確かに西洋船は竜骨とフレームによる頑強な骨格構造を持つ。中国のジャンク船も多数の水密隔壁によって船体強度と安全性を確保する。
【西洋船の部分断面】
提供元: 日本財団図書館
https://share.google/wJzXPxXg5HOSNVmo3
一方、和船は棚板造り――航を基礎に、根棚・中棚・上棚を積層し、船梁で横方向の応力を受け止める、外側の殻(外皮)自体が強度を担う単殻構造を採っていた。
【和船(北前船)の部分断面】
提供元: 日本財団図書館
https://share.google/wJzXPxXg5HOSNVmo3
この違いは、技術の遅れではない。前提条件の差である。日本列島は、良質で大型の木材を安定して供給できた。結果として、厚く大きな板材を用いることで船体外殻そのものに強度を持たせる構造が合理的だった。小さな板を多数組み上げる手間賃より、大板を使う材料費のほうが安価で済む環境では、竜骨フレームや隔壁構造が必須ではなかった。
実際、室町期にはすでに弁財船の原型は成立しており、五百石から二千石級の大型和船が、日明貿易という外洋航海に投入されている。これは、棚板造りの和船が外洋航行能力を欠いていた訳ではないことを、歴史が雄弁に物語っている。
性能面でも、復元船の実験結果が示唆的だ。向かい風に対する切り上がり角度は六十度以上、横風下で七ノットを超える速度を記録している。これは同時代の横帆西洋船に比して決して劣る数値ではない。さらに注目すべきは運用効率である。弁財船は十五人前後という少人数で操船可能であり、同規模の西洋帆船やジャンク船の船員数三十人よりも人件費が低く抑えられた。かつ、和船の建造コストは西洋船の半値である。これらは中世経済において和船の西洋船に対する決定的な優位だった。
【北前船の断面図北陸から松前に向かう下り荷】
提供元: 日本財団図書館
https://share.google/RfMUmzm7dHhHJgcEf
※積み荷の内訳
常苫の上荷(軽い物)
(A)縄、俵、櫓と闘い(B)古着、雑貨など
中荷
(C)綿、タバコなど(D)紙類、雑貨など
(E)木綿(反物)(F)塩、砂糖、穀類(G)米
底荷(重心をさげるために重量物を選ぶ)
(H)酒、醤油、味噌、油など(I)屋根瓦(J)石材
しばしば指摘される弱点――水密甲板の欠如や過積載――も、無知や怠慢の産物ではない。弁財船は積載量を最大化する事で商売敵と闘う商船である。積める荷を減らす選択肢は存在しない。安全性の向上が、即座に利益率の低下、ひいては船主や廻船問屋の破綻につながる現実があった。
重要なのは、海難が一定頻度で起きることを織り込んでもなお、弁財船の運用は合理的だった事だ。もし致命的に危険であったなら、商人たちは別の構造を選んだだろう。だが実際には、弁財船の基本構造は江戸期を通じて維持され続けた。それ自体が、経済合理性と技術的妥当性の証明である。
また、鎖国という国是に伴う幕府の大船建造の禁によって和船技術が停滞したという通説も、近年では再検討が進んでいる。禁令の主対象は軍船であり、商船技術を直接縛った訳ではない。むしろ問題は、軍事的造船需要の消失によって、非経済的だが革新的な技術開発の場が失われたことにあった。民間商業だけでは、堅牢性向上という「利益を生まない投資」は難しかった。
弁財船は、内航輸送という限定された条件下で、積載量・建造費・運用人員の三要素を最適化した存在だった。それは「発展しなかった船」ではない。発展し尽くしたが故に、別方向へは進まなかった船なのである。西洋船が世界を横断するための技術なら、弁財船は列島を循環させるための技術だった。
どちらが優れていたかではない。どちらが、与えられた世界に最も適応していたか――その答えが、和船(弁財船)という存在なのである。
〜参考記事〜
船の科学館 もの知りシート/日本財団図書館
艜舟、高瀬舟、弁才舟…
https://share.google/QoPqrScO0XUUi3CTG
船大工考 /日本財団図書館
https://share.google/xaWGaHEJ3z1LxNBji
和船の製造工程/pragma-i.com
https://share.google/jiul4hY9fNBgwf5XX
〜舞台背景〜
半世紀早い弁財船の建造の回です。
一応、勇者パーティーを追放された転生者が、あっさりGETしたミスリル鉱石をドワーフ職人に持ち込んで、竜殺しの大剣を作って貰うなろう系テンプレ武器作りあたりをイメージして描いてます。
でも丁寧に書こうとすると、また退屈な回になりそうな予感が⋯w







