050 ~明応元年(1492年)10月 岡崎宿~
~明応元年(1492年)10月 岡崎宿~
岡崎の酒座・大黒屋の奥座敷は、昼なお暗かった。障子は閉め切られ、香の匂いが重く垂れこめている。外の市の喧騒は、厚い壁に遮られ、まるで別の世界の出来事のようだった。
座に名を連ねる主だった者が、すでに揃っていた。誰も口を開かない。まず沈黙があり、それから怒りが遅れてやって来る――はずだった。だが、この場にあったのは、怒りよりも先に 戸惑い だった。
盃は置かれているが、誰一人、口をつけていない。沈黙を破ったのは、大黒屋宗左衛門だった。答えは分かっている。だが、言葉にしなければならなかった。
「……三人とも、戻らなんだそうだな。」
言わずとも分かっている。六名河岸で紫乃の店に向かわせた三人の手の者は、影も形も見せていない。
「逃げた、という線は?」
若い座衆が問う。年嵩の者が、ゆっくり首を振った。
「無い。逃げるなら、必ず知らせをよこす。あれは、そういう使い方をした。」
"使い方"。その言葉に、数人が目を伏せた。あの三人は、斬り合いをさせるために出したのではない。脅しだ。女ひとりを囲み、刃を見せ、商いを畳ませる。それだけの役目だった。
――命までは取らない。
――だが、続けさせない。
それが、酒座のやり方だったはずだ。
「商人の人足に化けていた連中だ。あれは、ただの護衛じゃない。」
別の者が、吐き捨てるように続ける。
「裏へ引き込まれたきりだ。 人足の格好をしていたが……ありゃ、人殺しの手並みだ。」
誰かが、舌打ちした。
「女子ひとり脅せば、引くだろうと思ったのが間違いだった。」
宗左衛門は、帳面を指で叩いた。
「違う。引かせる“つもり”でやったのが間違いだ。」
誰も反論しなかった。
座の力は、暴力そのものではない。座外を締め出し、課銭を重ね、関所で止め、市に出させぬ――そうして、自然と潰す。これまで無数の新参を退けてきた、岡崎のやり方だ。
だが今回は違った。
「向こうは、最初から血を流す算段だった。」
「しかも、武家の手の者だ。あれは……。」
言葉を濁したのは、誰もが同じ名を思い浮かべたからだ。
――菅沼。
まだ名を出すには早い。だが、武装の質、統制の取れ方、殺し方の静けさ――ただの商人の護衛ではない。
「問題は、殺したことではない。」
宗左衛門が、低く言った。
「殺された“相手”が、うちの名を吐いたことだ」
座敷の空気が、一段、重くなった。
「あの三人が、大黒屋の名を出したと?」
それは、取り返しのつかないことだった。
「吐いたそうだ。しかも、裏でだ。」
本證寺に知られれば、話は変わる。座は寺の庇護の下にある。だが同時に、寺の秩序を乱す真似は許されない。責は酒座に返ってくる。
「下手を打てば、市が割れる。門徒が割れる。」
それは、酒座にとっても、本證寺にとっても、望まぬ事態だった。
「……女は、ただの売り子ではないな。」
紫乃の姿が、皆の脳裏に浮かぶ。震えながらも、店に立ち続けていたという噂。若い座衆の一人が、呟いた。
「……女は、引かぬぞ」
宗左衛門は、ようやく盃を取り、口を湿らせた。
「刃を出したのは、失策だ。」
「向こうは、それを理由に、正面から来る。」
つまり――。
「寺に話を持っていかねばならん。」
それは敗北ではない。だが本證寺の裁量を呼び込むということは主導権を一度、手放すという意味だった。
その言葉に、誰も反論しなかった。酒座は、まだ終わっていない。だが、もはや盤面は変わった。
その夜、誰一人として、酒を口にしなかった。杯を上げれば、そこに映るのは、「紫乃」という名の酒と、それを止められなかった自分たちの影だったからだ。
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矢作川河口にほど近い、入り江に面した廻船問屋の奥座敷で、舟座の寄合は開かれた。寄合といっても、声高な議論が交わされる場ではない。むしろその逆だ。言葉は抑えられ、沈黙が続く。
集められたのは、矢作川水系を主に使う船主や廻船問屋の主だった者たちである。岡崎、六名、知立、安城――川筋と港ごとに顔役が揃っていた。誰もが商人であり、同時に水運という共同体の一員でもあった。
上座に座る今井屋清七が、ようやく口を開いた。
「……では、話は聞いたな。」
誰も頷かない。ただ、それぞれが茶碗に視線を落としたまま、否定しなかった。話題は一つだった。
紫乃という名の酒と、それを運んだ奥三河の商人、伊丹屋宗伯。そして――岡崎の酒座で起きた一件である。
「市中で刃物を抜いた、とな。」
別の問屋が低く言った。責める調子ではない。事実確認ですらない。そこに含まれているのは、ただの違和感だった。
「市で、だぞ。」
その一言に、場の空気がわずかに揺れた。市とは、売買の場である。そして売買の場で刃を抜くということは、商いの否定を意味する。力の誇示ではない。秩序そのものへの挑戦だ。
「酒座の連中は、焦っておる。」
そう結論づけたのは、六名河岸を預かる問屋だった。
「酒で勝てぬと見た。だから、脅しに出た」
誰かが小さく舌打ちした。酒座が強いのは、誰もが知っている。本證寺を本所とし、酒の市を押さえ、冥加金を納めることで通行特権を得てきた。だが、それはあくまで市の内側での力だ。
「今回の件、表沙汰になればどうなる。」
岡崎側の問屋が問う。
「市での刃傷沙汰だ。寺の名を背負った酒座がやったとなれば、本證寺は黙っておらん。」
沈黙が、また落ちた。この一件、座としての対応を誤れば、次は自分たちが足を掬われる。
その時、障子の外から店の手代が声が響いた。
「外に根羽の伊丹屋宗伯様がお越しになりました。」
――――中世商人
この時代、商人とは一つの職能ではなかった。生き延びるために必要な力を束ねた「形態」であり、時に武士であり、時に宗教者であり、時に海賊であり、芸能者ですらあった。
中世の流通路は未整備であり、道は途切れ、橋はなく、海には法も国境も存在しなかった。そうした世界で財を運ぶためには、まず身を守る力が必要だった。武力は不可欠であり、同時に神仏の加護や由緒、古来の慣行が、通行を正当化し、略奪を回避するための装置として機能した。
この多面的商人層の活動を支えた基盤が、水運ネットワークである。中世において大量輸送を担ったのは陸路ではなく、河川・内海・沿岸航路を組み合わせた水上交通であった。
特に熊野水軍に代表される海上勢力は平時には海運・交易に従事し、有事には軍事力として動員された。彼らは支配権力との関係性によって「水軍」「海賊」という評価を分けられたが、その実態は流通そのものを創出する存在だった。
伊勢湾は、瀬戸内海・太平洋航路・内陸水運を接続する要衝であり、尾張・三河地域はその結節点に位置していた。とりわけ三河国岡崎は、矢作川水系を通じて内陸生産圏と伊勢湾を結び、広域流通を媒介する流通拠点都市として機能していた。
三河湾岸における製塩、知多半島の常滑における陶業の発展、近世初頭の醸造業の展開はいずれも、重量財の大量生産を前提とする産業であり、海運との結合なしには成立し得ない。
常滑焼の大型甕が関東・東北太平洋岸に広範囲に分布し、十二世紀の平泉遺跡からも大量に出土している事実は、中世伊勢湾海運がすでに広域交易圏を形成していたことを示す重要な考古学的証拠である。
中世商人はまた、宗教勢力と密接に結びついていた。熊野信仰や鹿島・香取信仰が太平洋沿岸の河口部に濃密に分布していることは、信仰圏が単なる宗教的影響力の及ぶ範囲ではなく、寄港地ネットワーク、すなわち航路を支える補給・情報・安全保障の拠点として機能していた事を示唆する。
熊野水軍が単なる海賊ではなく、熊野の御師や社寺と結びついた宗教的ネットワークの一部であったことは、その象徴である。
中世商人は、資本を持つ者である以前に、移動そのものを成立させる存在であった。船を自ら保有し、馬を揃え、戦場へ兵糧を送り込み、道なき山間へも物資を運び入れた。そのため輸送のコストは高く、危険も大きかったが、それを引き受けられる者こそが商人たりえた時代だった。
しかし近世に入ると、幕藩体制の成立とともに治安が安定し、五街道の整備、東廻り・西廻り航路の確立といった公的流通インフラが形成される。
帆走専用の大型商船(千石船)の普及は、輸送の低コスト化と大量化をもたらし、流通は軍事輸送から民生輸送へと比重を移していく。
その過程で商人は自ら武装し、神仏の権威を背負って道を切り拓く必要はなくなった。これにより、中世的商人像は急速に解体され、職能分化の進展とともに、「商人」として純化された近世商人が成立する。
矢作川・伊勢湾・太平洋航路を連結し、関東から奥羽に至る流通圏を支えた岡崎の重要性は、中世商人の多面的性格を理解することで、はじめて歴史的実像として浮かび上がるのである。
〜参考記事〜
海からたどる「商い」の時代史/斎藤 善之
水の風土記 ミツカン 水の文化センター
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中世の太平洋海運/綿貫友子 Kobe University
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掛塚湊の歴史的変遷/日本港湾経済学会
https://share.google/uiGcZQBJnunLqwdYk
愛知県内に築かれた室町時代の河川堤防の考察
提供元: JSCE 公益社団法人 土木学会
https://share.google/IqMKuzewNFcOYaiW4
〜舞台背景〜
酒座に対してリベンジの回です。単純に殴り返しに行くのではなく、政治的にざまーする感じの描写にしました。
というのは色々ググってたところ、東北学院大学教授 斎藤善之先生の「海からたどる「商い」の時代史」(〜参考記事〜参照)が、めちゃめちゃ面白くて、『中世の商人は水軍であり商人であり宗教勢力でもあった』とか『平安末期に奥州を支配していた奥州藤原氏の拠点である平泉から膨大な量の三河の常滑焼が出土』とか書いてあり、当時の岡崎商人は、ざまーであっさり殴り殺されるほど小物じゃない感じがしてきて、悪役にも敬意を示しました。








