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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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046 ~明応元年(1492年)9月 根羽宿~

挿絵(By みてみん)


    ~明応元年(1492年)9月 根羽宿~



 朝の氷が薄く割れ、(こしき)場の(かまど)に炎が入らない日が来た。蔵の梁から吊るした杉玉(すぎだま)は、若草色からほんのり黄みを帯び、静かに揺れている。紫乃は戸を開け放ち、冷たい川風を入れた。床板に差す夏の光が瓶の肩で跳ね、金の細い線が壁を走る。


「できた。」


 誰にともなく漏らした声に、すぐ背中から答えが落ちた。


「できましたな。」


 慈円が僧衣の袖をたくし上げ、笑った。鈴木の男たちも女たちも、若い衆も、誰もが一年分の息を吐いたように肩を落とす。あの長い夜も、指のひび割れも、櫂の重さも、泡の音も、すべてが紫乃のこの一言に吸い込まれた。



――――杉玉(すぎだま)酒林(さかばやし)


 杉玉(すぎだま)とは、杉の葉(穂先)を集めてボール状にした造形物で酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる。


 酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒造り発祥の地、奈良県大神神社へ新酒を奉納すると木札を下げた杉玉を戴く習わしで、三輪明神に感謝を捧げるものであったとされる。


 「搾りを始めました。」という意味も持ち、緑色(冬頃から春)は寒造(かんずく)りの季節、薄い緑(初夏から夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しており、杉玉の色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を伝えている。


 杉玉を唄った一休宗純の作とされる唄がある。


極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門

(極楽はどこ…あっ杉玉の吊られた又六(酒屋)に在る。)



ーーーーー



 蔵の前庭に長机が出され、商人・伊丹屋宗伯が風呂敷をほどく。


「紫乃殿、これは町がざわめきますぞ。」


 どこか芝居がかった口だが、目は笑っていない。商いの目だ。


「今日は、そのざわめきを確かめに来ました。」


津具から顔を出した、もはや豪商の佇まいの利兵衛が応える。


 紫乃は頷き、斗桶の口を開けた。雫の一桶、なかどりの一桶、滓おりがらみの一樽と蔵の顔が並ぶ。杯を配るのは若い衆、椀を温める菅沼衆一同の前には酒の飲めない私の名代として舌舐めずりをしている傅役の作左衛門。


 慈円や、何故か既に顔の赤い専如は輪の外で手を合わせ、人々の笑い声に耳を澄ませている。


 最初の一口の栄に浴した作左衛門の眉が、わずかに跳ねた。


「……矢作の川の音がする。」


 彼は言葉を探し、気の効いた事を言ったつもりであろう、満足気な表情で残る盃を飲み干した。


「甘いが戻らぬ。鼻の上で花が沈む。米の芯があとから来て、喉で切れる。——これは、町どころか国を走る。」


 周りの面々が顔を見合わせ、ほっと息を吐いた瞬間、蔵口の向こうから根羽の商人たちが帳面を抱え、街の男たちが仕事の手を休めて集まってきた。藁の匂い、薪の匂い、冬の皮手の匂いが酒の香りと交ざって、目に見えて輪が広がる。


「紫乃の盃はどれだ。」


「まずは手前のなかどりから。」


 紫乃は盆を持ち、来るひと来るひとに小さな盃を手渡していく。年寄りの手は皺だらけで、若い衆の手はひび割れて赤い。鍛冶は大きな舌で温かさを吐き、子守の娘は香りだけ嗅いで目を丸くした。


「——美味い。」「美味しい。」


 言葉が重なり、笑いが弾け、肩が触れる。誰かが唄い出す。節は拙いが、手拍子はすぐに揃った。


 作左衛門が静かに立ち上がる。


「諸人。この一盃は米の命、矢作の水の働き、根羽の火と風の調い、そしてここにいる者の手の道に捧ぐ。——乾け。」


 木の杯が一斉に上がり、夏の光が散った。喉の奥で小さな歓声がひとつになり、蔵が大きく息を吐いたように思えた。


 祝いの輪の外、紫乃はひっそりと桶の札を確かめ、樽縄を締め直した。雫には薄い墨、なかどりには太い墨、せめには赤の小さな点。彼女なりの印だ。利兵衛が近づき、声を潜める。


「紫乃殿。津具は夏の暑さで喉が渇いております。百樽、いや五百——いや、千いけますか。」


「千でも問題ありません。」


 即答。利兵衛が目を見開く。


「できるのは、二万五千と斗桶(とよう)囲い十。数は帳面に。」


「百、十……十分です。足りなければ、足りぬ価値がつきまする。」


 利兵衛が笑いながら言葉を詰まらせた。



ーーーーー



 その日の午後、樽に「抱き稲」の焼印が押され、背板には墨で蔵の名「鈴木」と印が記された。縄が三度締められ、蓋に薄い紙が貼られる。二艘の小舟に樽が載せられ、川の肌を滑る。岸では子らが走り、犬が吠え、老いた木が軋む。紫乃は岸に立ち、縄のほどけを見送りながら両手を合わせた。


「行っておいで。」


 小さな声は川風にほどけ、樽の側面に吸い込まれた。


 最初の市は津具。夏の朝の市は人の波で、煮売りの湯気と干し魚の匂いに、店賑やかなの声が交ざる。利兵衛は見慣れた手つきで店の軒先に帆布を張り、杉玉を吊った。杉の緑に人が吸い寄せられる。


「根羽の宿の紫乃。」


 利兵衛が短く呼びかけ、盃を並べる。最初に寄ったのは問屋仲間の商人衆、次に塩の仲買、そして旅の僧。ひと口で目が変わり、ふた口で銭が積まれ、三口めで人が呼ばれた。


「おい、あれを持ってこい。」


「利兵衛殿、もう一盃。」


「その薄い色は何だ、油ではないのか。」


「酒の色だ。米の息の色だ。」


 口々に飛ぶ声に、利兵衛は笑うでもなく、淡々と盃を重ねた。冷やした桶は汗をかき、盃の縁に小さな光が反射する。昼の前に十樽、日が傾く頃には五十。夕風が杉玉を揺らすたび、人が増えた。


 宿の中では、旅芝居の小屋が太鼓を叩く。幕間に役者が来て、盃を受け、目を細めた。


「台詞が滑る。」


「滑らせてくださいな。」


 芝居小屋の前に並ぶ客の列にも酒が渡る。芝居が終われば、笑い声と一緒に噂が広がる。


 翌朝、宿の帳場には、名も知らぬ商人の名が書かれた札がいくつも挟まっていた。


「伊那で飲みたい。——いくらだ。」


「吉田で会えぬか。——いつだ。」


 利兵衛は帳面を開き、ゆっくりと筆を取った。



ーーーーー



 津具の市を終えるころ、蔵には先回りの噂が届いた。


「津具で、根羽の紫乃が、評判です!“米の花が咲く”って、口々に!」


 若い衆が歓声を上げる。慈円は笑いながら、両手を合わせた。


「ようやく、阿弥陀様も笑っております。」


 紫乃は目を閉じ、噛み締めるように息をした。胸の奥に、冷たくて熱い川の流れが一つ入ってくる。


 今日も樽また川に乗る。今度は倍だ。船頭が樽の数を指で折る。


 宗伯は奥から新しい杉玉を持って現れ、樽に添えた。若い緑が矢作川の水面(みなも)の光にきらめく。


 紫乃が樽の縄を締め、笑った。手は荒れているが、笑いは柔らかい。


 伊丹屋宗伯はその(かお)を見て、年甲斐もなく言葉を失い、咳払いで誤魔化した。



ーーーーー



 その夜、伊丹屋宗伯の奥の座敷に灯が入った。


 集まったのは、私と宗伯だけではない。傅役の作左衛門、根羽宿代官の兵庫、凌雲寺住職の専如、利兵衛はもちろん、事務方の高力源八、植田弥助、三輪小十郎、岩作久兵衛――紫乃と慈円は、そこにいない。


 つまり、これまで酒造りに何の役にも立ってこなかった、酒に関わった顔ぶれが皆揃っていた。

 

 誰もすぐには口を開かなかった。


 杯は置かれたまま、酒の香りだけが座敷を満たす。


 東海道の要衝にして三河最大の城下町、岡崎――その大商都の名が、誰の胸にも重く沈んでいた。


 そしておもむろに専如が口を開いた。


「では、岡崎攻めの酒評定と参りましょうかな。」

〜参考記事〜

資料A:清酒出荷石数1位ブランドの130年の変遷/きた産業株式会社

https://share.google/xyiljlddsTVnFi1gF


〜舞台背景〜

10話近く費やした酒造りが終わったので、お疲れ様でしたの回です。ご覧戴いた方々も、非常に退屈にも拘らずお付き合い頂きありがとうございましたw


紫乃の蔵の年間生産量を10,000石に設定しました。

※中規模蔵元相当…明治25年(1892年)統計

10,000石 × 10斗/石 = 100,000斗


斗の総量を1樽あたりの容量(4斗)で割ります。

100,000斗 ÷ 4斗/樽 = 25,000樽 ※生産量(樽数に換算)


斗の生産量をイメージし易い一升瓶の本数に換算。

100,000斗 × 10升/斗 = 1,000,000升 ※生産量(本数)


売上の規模感:単価設定@100銭/升(@1万円/升)

1,000,000升 × 100銭/升 = 100,000,000銭(100億円)


供給量の規模感:1合(ワンカップ180ml)

1,000,000升 × 10合/升 = 10,000,000合(1千万杯分)

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