045 ~明応元年(1492年)8月 根羽宿~
~明応元年(1492年)8月 根羽宿~
“地”の静けさが三日続いた朝、紫乃は醪の面を見つめ、櫂の影をそっと落とした。香りは澄み、酸は細く、米の芯の甘みだけが奥に残っている。
「――上げます。」
その一言で、蔵の空気が軋んだ。長い川を見守ってきた者の手が、いよいよ海へ渡す支度を始める。
奥の間で木槽が洗われ、亀甲の楔が油を拭かれ、麻の酒袋が日の下で乾いていた。慈円が袋の縫い目を指でなぞる。
「今日の蔵は“人”で搾る。袋で吊るし、槽でも搾る。急がず、踏みすぎず。」
紫乃は頷いた。丁寧に積んだ袋に舟の蓋を落とし、梃で圧を載せていけば、清らかな流れは必ず生まれる。要は“どこで止めるか”だ。
酒母を宿した大桶から醪を汲み、扇の骨のように並んだ酒袋へ移す。布の目をくぐった最初の滴が、斗桶の底に落ちる音がした。
「あらばしり。」
紫乃が囁く。みずみずしい香りが立ち、若い果の影がする。慈円が斗桶に札を掛け、冷えのよい隅へ送る。雫は軽く、息が速い。紫乃は香りを一息だけ嗅ぎ、すぐに視線を槽へ返した。
袋を幾段にも積み、蓋を落とし、梃の力を借りて静かに圧をかける。轍のように細く始まった流れは、やがて一筋の川になり、受けの斗桶に透明な命を溜めていく。床を渡る香りが、少し低く落ち着いてきた。
「なかどり。」
紫乃は柄杓で一杯すくい、慈円に渡した。僧は目を閉じ、舌に転がし、音もなく頷く。
「今、この蔵の顔がいちばんよく見える。」
紫乃は桶の横に印をつけ、別の斗桶にも印を回す。なかどりは量の骨であり、蔵の答えだ。ここを外せば、今年の声が迷う。
梃の縄がもう一つ沈み、槽は低く軋んだ。流れにわずかな陰りが混じる。
「せめを焦らないで。」
彼女の声に、若い衆が力を抜く。最後の酒は強く、時に荒い。だが、せめの滴にも蔵の真実が宿る。彼女は斗桶ではなく、別の木桶に受け、札に墨を入れた。酒は三つの顔を持ち、それぞれが蔵の言葉だ。
夕刻、流れがやみ、袋の重みが静かに沈んだ。積み上げた布をほどくと、薄い板のような粕が顔を出す。香りは甘く、指に張り付く。
「よい“板粕”だ。」
慈円が笑う。紫乃も口元だけで笑い、袋を洗い場へ送り出した。搾りの場は潮が引いた浜のように静まり返り、ただ新酒の香りだけが蔵を満たしていた。
上槽を終えた酒は、澄んでいるようで、なお白い微粒を抱いている。紫乃は夜のうちに受けの桶へ酒を移し、蓋を半ば開けたまま置いた。
「滓を休ませます。揺らさないで。」
翌朝、桶の上に薄い光が差し、底の方に霞がたまっているのが見えた。紫乃は側面の“上呑”に管を結び、息を殺すように上澄みを別の桶へ送る。米の微粒、麹の糸、清酒酵母の残り香——それらは底へ沈んで“滓”になる。
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紫乃は毎朝、同じ高さで同じ量だけを引いた。数日のあいだ、天候と気配を見ながら、滓は少しずつ薄れ、上の酒は剃刀の刃のように澄んでいった。
ある日、慈円が下の“下呑”を指した。
「ここから少しだけ、滓がらみを取っては。」
「一樽だけ。夏の祝いに。」
紫乃は頷き、薄白い一本を別にした。蔵の遊びは、蔵の節度で守る。
滓を引き終えた酒にも、まだ微細な粒は漂う。
紫乃は蔵の隅に積まれた木綿と炭を見やり、少し迷ってから口を開いた。
「今年は“素濾過”でいきます。炭は最小。」
若い衆が顔を見合わせる。慈円が静かに言う。
「澄ませるのは易い。残すのは勇気がいる。紫乃殿の答えでよい。」
木枠に木綿を張り、袋を重ね酒を通す。白い糸のような粒が布に留まり、流れはほとんどそのままの色で通り抜ける。
炭は粉をわずかに溶かして加え、香りの端にある粗さをひと撫でだけ剃った。紫乃は鼻で香りを追い、炭をもう一匙足すかどうか、最後まで悩んでやめた。
「この“かすかな色”は、今年の川の色です。」
誰も異を唱えなかった。
――――濾過
木枠に濾布として木綿を張り、炭を加えて酒を濾す――仕組みだけを見れば、きわめて素朴な技である。
しかし実際には、この「木綿布濾過法」と、併せて用いられる「木灰清澄法」は、本来ならば文禄・慶長年間(1592年〜1614年)に至って、伊丹郊外・鴻池村の山中新右衛門幸元――後に鴻池勝庵と名乗り、後世の豪商・鴻池家の祖――によって体系化された、当代としては破格の技法である。
特に木灰清澄法については、鴻池家に仕える者が主人への鬱憤から清酒に灰を投げ入れたところ、思いがけず酒質が向上したという、いかにも後付けめいた逸話が知られている。
ただしこの手法自体は、さらに古く、出雲の地伝酒において、すでに灰を用いた清澄が行われていたとも伝えられており、まったくの偶然から生まれたものとは言い難い。
一方で、「木綿布濾過法」は全く事情が異なる。
この時代、木綿はいまだ広く普及しておらず、産業的に安定供給できる菅沼家の後援を受け、良質な木綿を継続的に用い得る紫乃を除けば、この技を実用に移せる者は存在しない。
そのため腐敗防止を主眼とする濾過は、木綿に比べてはるかに能率の劣る麻布や絹布が用いられるのが常であった。結果として、清酒にせよにごり酒にせよ酒は長期保存や長距離輸送に耐え得る水準には至らず、土地を離れれば別の酒となるのが当然とされていた。
紫乃の行った濾過は、そうした常識の外にある。
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次に“火入れ”。紫乃は管を湯釜に沈め、受け桶との間にかけた。慈円が手ざわりで示した湯は六十度程度。酒は管を通って温まり、別の桶へ移されながら、すぐに冷やされる。火落ちの芽を摘み、酵素の動きを止め、香味の輪郭を定めるためだ。湯の匂いと酒の匂いが薄く重なり、蔵の空気が柔らかくなる。
「急がず、でも戸惑わせない温で。」
紫乃は、時折酒を啜り肯く慈円を見つめる。火入れ上がりの酒をひと匙すすると、角がほどけ、酸の線が品よく伸びている。
最後に慈円は大きく頷いた。
火入れを終えた酒は、暗い部屋でしばらく眠る。紫乃は斗桶囲いの数本を別にし、冷えの強い棚へ置いた。雫と中取りの精——蔵の宝だ。
他は大樽で静かに落ち着かせる。冬の空気はきれいで、音が遠い。時折、呑口をあけ、香りを確かめる。色は薄く金が差し、香りは米の息に白い花が乗る。
やがて、出荷の刻が近づいた。紫乃は複数の樽から盃を取り、香と味を照らし合わせた。わずかな揺れ、細い乱れは“調え”で消す。混ぜるのではない。音階を合わせるのだ。彼女は匙で樽の酒を足し引きし、一本の線に束ねた。
「割水は、わずかに。」
仕込み水を少しだけ落とす。酒の足が伸び、喉を軽やかに滑る。原酒の力を残しつつ、盃の行き先を増やす。最後にもう一度、選んだ斗桶を使って“瓶燗火入れ”を施すことにした。
斗桶のまま湯の中で温め、すぐに水で冷やす。香りが逃げない。彼女は一つ一つを確かめ、湯に沈め、時を合わせて上げた。
夜。蔵の戸が閉まる前、紫乃は一人で斗桶の前に立った。雫の斗桶、なかどりの斗桶、せめの桶。光の少ない部屋で、酒の影だけが青く、金に、白く揺れている。
「ようやく、完成。」
彼女は囁き、額を軽く桶に当てる。頬に触れた桶は、矢作の川の冷たさだった。
翌朝、初の一升が封じられ、白紙の札に墨が入る。紫乃は硯を置き、筆を取った。小さく、しかし迷いのない手で、「明応元年八月」
そして――「紫乃」
そっと一字添えた。
戦国乱世の暗い影を越えてきた記憶。その悲惨さと祈りを、今年の酒の底に置くために。
慈円が背後で頷く。
「これでよい。紫乃殿の酒は、紫乃殿の言葉で立つ。」
門が開き、夏の気配が差し込む。積み上げられた結樽が、ひとつ、またひとつと外へ運ばれていく。矢作川の夏の光が結樽に当たり、木漏れ日の様な輝きが床に散った。
紫乃は最後の結樽の縄を締め、手の甲で汗を拭った。長い季節が、ひと区切りついた。だが、蔵は止まらない。また直ぐ訪れる秋には甑はまた火を待ち、麹は白い息をつこうとしている。
彼女は振り返り、空になった槽に一礼した。
「また来月も、ここで。」
木は静かに、しかし確かに返礼した。
――――上槽/滓引き/濾過/火入れ
醪の発酵が「地」に澄んだら、いよいよ上槽へ進む。
上槽とは、白濁した醪を液体の日本酒と固体の酒粕に分ける工程で、搾り方の違いが味わいの表情を大きく左右する。
主な方法は三つ。袋吊り(袋どり・雫取り)は、醪を麻袋に詰めて吊り、自然に滴る雫だけを斗桶に集める贅沢な手法。雑味が少なく、繊細でクリア。
槽がけは、袋を槽に並べて蓋を落とし、梃でやさしく圧をかける伝統法で、ふくらみと清らかさの均衡に優れる。
圧搾搾り(連続上槽機)は、蛇腹の枠で連続的に圧をかけ、大量を安定して搾れる近現代の主流だ。搾りの流れの中でも、最初に出る「あらばしり」は瑞々しく軽快、続く「なかどり」は香味のバランスがよく透明感があり、最後の「せめ」は力強く濃厚だ。
搾り終えた酒には、酵母・麹の微片・デンプンなどの微粒が浮遊している。これを桶で静置し、沈殿した「滓」と澄んだ上層を分けるのが滓引きである。
桶側面の呑口のうち上部の「上呑」から静かに上澄みを抜き、下部の「下呑」を用いれば“滓がらみ”として薄白い風合いを残すこともできる。滓は旨味も含むが、長く混在すると酒質劣化の原因になるため、一定期間で計画的に引く。
その上で行うのが濾過。目的は微細な粒子や不要な色・雑味を取り除き、香味を整えること。活性炭による吸着で着色や粗さを抑える方法が広く用いられてきた一方、旨味まで削ぎすぎないよう、布やフィルター中心の「素濾過」や、最小限の炭で微調整する設計も多い。
濾過をしない選択は「無濾過」と表記され、搾りたてに近い力強さや色合いを楽しめるが、管理難度は上がる。濾過と無濾過に優劣はなく、狙う酒質と流通環境で杜氏が決める。
火入れは品質安定の要。およそ60〜65℃で短時間加熱し、酵素を失活させるとともに火落ち菌などの微生物を抑える。
方法は大きく二つ。桶から、後には銅製となる蛇管・プレートで酒を通しながら連続的に加熱・即冷する方法と、桶やガラス瓶詰後に瓶ごと湯で温める瓶燗。
前者は効率がよく管理しやすい。後者は香りを瓶内に保ちやすく、鮮度感が出る。火入れ回数の設計も酒質と流通で変わる。生酒(火入れなし)は鮮烈だが要冷蔵。
生貯蔵酒は貯蔵前に一回火入れ、一般的な火入れ酒は出荷前後で二回(貯蔵前と瓶詰前)行うのが基本だ。
まとめれば、上槽で酒と粕を分かち、滓引きで静けさを与え、濾過で輪郭を整え、火入れで安定を授ける——この四拍子が、醪という川を「商品」としての海へ安全に導く道筋である。
同じ原料・同じ醪でも、上槽方法、滓の残し方、濾過の強弱、火入れの温度と回数、さらに貯蔵や割水の設計次第で酒の顔は幾通りにも変わる。だからこそ最後の仕上げは杜氏の“答え”であり、蔵の物語だ。
搾り場に響く雫の音、澄んだ面に走る光——それら一つひとつが、ようやく完成へ至る呼吸なのである。
~超難解・清酒醸造工程~
(順) (工程) (状態)
1.精米 米 ◁036話
2.洗米・浸漬 米 ◁039話
3.蒸し (ふかし) 米 ◁040話
4.製麹 (こうじ) 麹 ◁041話
5.酛 (もと) 酒母 ◁042話
6.仕込 (三段) 醪 ◁044話
7.発酵 (もろみ) 醪 ◁044話
8.上槽 (もろみ) 醪 ◁045話
9.滓引 (もろみ) 醪 ◁045話
10.濾過 (もろみ) 醪 ◁045話
11.火入 酒 ◁045話
12.割水 酒 ◁045話
13.出荷 酒 ◁045話
〜舞台背景〜
いやぁ〜ようやく終わりました。疲れたw
色々ネット記事と文献読ませて貰って、日本酒について大変勉強になりました。
清酒造りについて、製造工程の難しさに若干ムキになってしまい、1994年に和久井映見主演でテレビドラマ化された『夏子の酒』(尾瀬あきら/講談社)レベルで丁寧に書いた自負があります。って、ただの自己満ですw








