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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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44/61

044 ~延徳4年(1492年)6月 根羽宿~

挿絵(By みてみん)

醪仕込…酛に更に麹と蒸米と水を三回に分け加える。

日本山海名産図会/兵庫県立歴史博物館

https://share.google/p1lZrFkNElKBLkQ1H

    ~延徳4年(1492年)6月 根羽宿~



 酒母の泡が静まった翌朝、仕込み桶の内側は塩湯で拭われ、底板の節は指で確かめられた。梁からは夜露の冷えが落ち、蔵はいつの間にか夏の息を吐き、秋の気を吸い込みはじめている。


「第六の拍、“(もろみ)”。今日から、添から留まで、四日の坂を上ります。」


 慈円の声が落ちると、そこに居合わせた者たちの背筋に、同じ緊張が通った。

 これまでも、これからも酒造りに関しては何ひとつ役に立たぬ傅役の作左衛門でさえ、私の隣で黙り込み、唇を引き結んでいる。

 蒸しの湯気、麹の白、酒母の酸。ばらばらに息づいていたものが、ここで一つの酒になる。


 一日目:初添。

 酒母が仕込み桶へ移されると、香りがふっと立った。酸の盾をまとった、若い果の気配。

 紫乃は水麹を先に合わせ、麹の甘みと酵素をひと筋だけ引き出してから、蒸米を落とさせた。量は控えめ、撹拌は静かに。酵母の居場所を壊さず、眠りだけをほどく手つきだった。


「櫂は底へ突かず、面を撫でるだけ。息を奪わず、与えすぎず。」


 男衆の櫂が、言葉に合わせて動く。とん、たん。泡を切らず、面だけが揺れる。その拍に、誰も遅れまいとする。紫乃は桶の脇に身を寄せ、耳を澄ませた。米がほどける音、麹が語る気配、酒母が答える微かな返事――そのすべてを、目を閉じずに聴き取っている。


 二日目:踊り。

 何も入れぬ日。静けさそのものが仕事になる日だ。

 朝の蔵を一巡して戻った慈円は、桶の面に立つ“筋泡”を見て、足を止めた。細い線が底からまっすぐ伸び、消えては生まれ、規則正しく呼吸している。慈円が断言する。


「落ち着いておる。しっかり増えてきた。」


 紫乃は小さく頷き、蔵口を指で半分閉めさせた。風の出入り口を絞り、温みの逃げ道だけを残す。桶の胴に手の甲を当て、上がりを読み、帳面に短い記しを置く。

 慈円は何も言わず、その横顔を一瞥してから、黙って頷いた。


 三日目:仲添。

 量は前日の倍。蔵は朝から人の気配が濃く、甑は低く唸り、通いが忙しく行き交う。


「多く入れるからこそ、櫂は浅く。息を荒げない。」


 紫乃が最初の櫂を入れると、面が整い、泡は水泡へと広がった。細かな白がびっしり敷かれ、まるで舞台の幕のようだ。香りは若草の奥で甘さを太らせ、酸は芯を失わず、角だけを丸めている。

 昼過ぎ、泡は岩泡へ変わる。塊がいくつも面に現れ、低く唸る。誰かが息を呑み、誰も声を出さない。


「騒がせず、見ていなさい。」


 紫乃の声は柔らかいが、まっすぐで、曖昧さがない。彼女は桶の位置を半身ほどずらし、床の冷えを借りる。楔ひとつで、明日の顔が変わる。そのことを、皆が知っている。


 四日目:留添。

 仕込みを締める日。量はさらに倍。蒸米は張りを残し、麹はさばけがよく、力のある手触り。紫乃は指で摘み、落とし、音を聴く。


「留からは数える。七、五、三。深くせず、泡を壊さず。」


 男衆が唱えるように櫂を入れる。面はすでに高泡の兆しを見せ、白が縁から縁へと歩く。夕暮れ、泡は塀のように立ち上がり、灯を置けば稜線が淡く縁どられた。


「ここからが、本当の(もろみ)。」


 紫乃が呟く。三段の仕込みは終わった。これから先は、読む仕事だ。



    ~明応元年(1492年)7月 根羽宿~



 留添を終えた夜から、(もろみ)はゆっくりと息を吐きはじめた。灯を落とした仕込み場で、紫乃は桶の脇に座り、膝に帳面を置いた。櫂は持たない。今は触れぬほうがよい時だと、彼女は知っている。(もろみ)は、動かぬように見えて、確かに熱を孕んでいた。桶の胴に手の甲を当てると、昼よりわずかに温い。夏の夜気が忍び込む蔵ではその差は小さくも、確かだった。

 紫乃は身をかがめ、桶の縁に耳を寄せた。微かな、泡が生まれる前のざわめき。ほどなく、数本の細い筋が、白い面に浮かび上がった。


「……来た」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。筋泡。(もろみ)が自ら息を始めた合図だ。


 数日後、筋は増え、夜には白く軽い泡が面を覆いはじめた。水泡だ。紫乃は桶の位置だけを半身ほどずらし、床の冷えを借りる。温みが急げば、酒は荒れる。急がせぬことが、ここでは何よりの仕事だった。


 またその数日後、泡は次第に粘りを帯び、岩のような塊をつくる。岩泡。低く、重い呼吸音が蔵に満ちる。男衆が思わず足を止めるほどの迫力だが、紫乃は近づきすぎない。視線だけで面を追い、香りの奥に甘さが太くなっていくのを確かめる。



ーーーーー



 紫乃が夜ごと彦星を待つ織姫の如く、(もろみ)の桶の側にいた七夕(たなばた)の頃、京では権大納言 甘露寺親長(かんろじちかなが)が全国で収まる気配の無い天災の凶事を断ち切るため、災異改元を発議した。


 その結果、元号「延徳」は、古典「易経」の一節「其徳剛健而文明(そのとくごうけんにしてぶんめい)応乎天(てんにこたう)」を出典とする「明応」に改元された。


 そして蔵でも七夕の夜、逢瀬の彦星が如く、(もろみ)も発酵が頂に達した。高泡。桶いっぱいに盛り上がる白濁液が、縁を越えそうになる。炭酸の勢いが蔵の空気を震わせ、灯の炎が揺れた。紫乃は桶の火照りを冷やしながら濡れた部分を優しく拭った。

 高泡が脈打つ間、紫乃は夜ごと桶の側で、ただ黙って受け止めていた。指で触れ、手で測る。熱くなれば冷やし、冷えが勝てば温める。動きは最小限、判断は早い。彼女が立つ場所に、自然と静けさが集まった。


 数日後、泡は少しずつ力を抜き、面が見えはじめる。落泡。引泡。香りは華を脱ぎ、深さが前に出る。紫乃は帳面に短い記しを置き、小さく頷いた。


 さらに日が進むと、泡は玉のように丸くなり、ころころと面に散った。玉泡だ。可憐な名とは裏腹に、底ではなお激しい働きが続いている。紫乃は櫂を軽く当て、返りの音を聴く。昨日より丸い。糖化と発酵の歩調が揃ってきた証だった。


 そして、ある朝。泡は消え、面は静かに均された。地。(もろみ)は語り終えた。


 紫乃は桶の前に立ち、しばし黙って見つめた。肩の力を抜き、息を整え、最後の記しを帳面に置く。その横顔に、連日、夜を越えてきた疲れと、大きな安堵が同時に宿る。この酒は、静かに、美しく育ったのだと。


「紫乃殿、やりましたな。」


 慈円が声をかける。


「……待ちました。」


 紫乃はそう答え、わずかに笑った。


 蔵の仕事は、動くことと、動かないことの両方で成り立つ。終盤、玉泡が薄れ、面は“地”へ均されていく。香りは澄み、酸は細く、甘みは芯に潜る。紫乃は面を見つめ、耳を澄まし、最後の記しを書いた。


「明日、上槽」


 梁が小さく鳴り、四つの拍が、一本に結ばれた瞬間だった。



――――(もろみ)造り


 (もろみ)造りは、日本酒づくりの最終局面で、清酒酵母の発酵という清酒の味わいを設計する工程である。


 酒母(しゅぼ)を大きな仕込み(タンク)へ移し、仕込み水・蒸米・米麹を4日間で3回に分けて加える三段仕込み(初添→踊り→仲添→留添)で立ち上げる。


仕込みを三段に分ける理由は二つ。

1) 清酒酵母に急激な環境変化を与えず活力を保つため。

2) 酒母(しゅぼ)の酸性を薄めず雑菌・野生酵母の侵入を防ぐため。


(もろみ)造りの工程の骨子は次のとおり。


初添(1日目): 酒母に水麹(麹を水に馴染ませ甘みと酵素を引き出したもの)と少量の掛米・掛麹を加え、櫂入れは浅く静かに。目的は“目覚まし”であり、量は控えめにして清酒酵母の場を壊さない。


踊り(2日目): 何も足さず、清酒酵母が新環境に適応し増殖するのを待つ。


仲添(3日目): 初添の約2倍量を加える。温度上昇が速くなるため、冷却や通風でゆるやかに制御する。


留添(4日目): 仲の約2倍量で締める。


主発酵(5日目〜30日目): 温度や湿度を徹底管理


 留添えを終えたその日から醪の発酵が開始され、醪の発酵度合をこまめに確認しならが、日本酒の醸造を行う。


 泡は“筋泡”→“水泡”→“高泡”→“岩泡”→“落泡・引泡”→“玉泡”→“地”へと遷移していく。


 これが日本酒製造プロセスの核心「並行複発酵」。


 麹の酵素がデンプンを糖へと解く“糖化”と、清酒酵母が糖をアルコールへ変える“発酵”が同じ(タンク)で同時進行する。(ワインは単発酵、ビールは単行複発酵)


 糖が尽きれば発酵は止まるが、糖が多すぎても清酒酵母は働きにくい。だから、温度・原料配分・櫂入れで糖化と発酵の歩調を合わせる。これにより日本酒は醸造酒として稀な高アルコール(15〜20%)へ至る。


 温度管理も肝だ。清酒酵母は発酵で熱を生むため、放置すれば20℃前後まで上がる。一般の普通酒ではおよそ15℃前後、吟醸系ではさらに低く長期で進ませ、香りと雑味のバランスを取る。


 冷水の通水、氷・濡れ縄・通風、(タンク)の位置替えなどで微調整し、急な上げ下げを避ける。 櫂入れは酸素管理の道具でもあり、序盤は浅く面を整え、中盤以降は泡を壊さない範囲で酸欠や温度ムラを防ぐ。


 味わい設計は「どこで止めるか」に宿る。甘口を狙うなら四段仕込み(留後に糖化のみを加える段)で糖を補い、辛口なら発酵を進めて糖を残さない方向へ。


 酒母や仕込み水の比率、麹歩合、蒸米の張り、発酵温度を組み合わせ、清酒酵母の性格と合わせて酒質が描かれる。


 泡の状貌は発酵の鏡で、筋泡→水泡→岩泡→高泡→落泡→玉泡→地の遷移を手掛かりに、香り(若草→果→米の芯)、味(甘・酸・旨)の推移を読む。


 要するに(もろみ)造りは、三段で静かに立ち上げ、その後30日間の“並走”を管理し、狙いの顔になったところで上槽(搾り)へ渡す仕事である。


 計測器の無い時代でも、香り・泡・手触り・音で読み、温度と風を指揮し、酵母を空腹に保ちつつ走らせる。


 最終日の“地”に澄んだ面が現れたら、いよいよ酒に生まれ変わる。

~超難解・清酒醸造工程~

(順) (工程)  (状態)

1.精米     米 ◁036話

2.洗米・浸漬  米 ◁039話

3.蒸し (ふかし)  米 ◁040話

4.製麹  (こうじ) 麹 ◁041話

5.酛 (もと)   酒母 ◁042話

6.仕込 (三段)   醪 ◁044話

7.発酵  (もろみ) 醪 ◁044話

8.上槽  (もろみ) 醪

9.滓引  (もろみ) 醪

10.濾過  (もろみ) 醪

11.火入     酒

12.割水     酒

13.出荷     酒


〜参考記事〜

世界の酒の大分類/月桂冠

https://share.google/emwzoEml9j0bGZlip


広島の蔵元の中でも屈指の極軟水 盛川酒造/広島食道

https://share.google/Si3NfDFJ2rnQxt9J2


〜舞台背景〜

 代々酒蔵に伝わる諺「一 (こうじ)(もと)(つく)り」の三 (つく)りにあたる「仕込み」、「(もろみ)造り」の回です。この工程1ヶ月掛かる長丁場で、書いてる方も退屈だったので不謹慎ですが、一ヶ所、表現で遊んでみましたw

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― 新着の感想 ―
こういう努力、勝利なパターンできたら、お約束の都のお偉いさんがくる、こんな田舎の酒のめるかで、飲まずに捨てる、てめぇらの血はうんたら修羅場に期待。もちろん、鈴木なヒロインがピンチ!いや大ピンチからのざ…
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