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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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40/54

040 ~延徳4年(1492年)5月 根羽宿~

挿絵(By みてみん)

蒸し…水を含んだ米をα化。菌の繁殖し易い状態に。

【左側】日本山海名産図会/文化遺産オンライン

https://share.google/mV2bNyKYAGagvydKJ

    ~延徳4年(1492年)5月 根羽宿~



 朝から空気は水を含み、息を吸うたび胸の奥が重くなる。(こしき)に張った湯の低い鳴りが、蔵の天井に吸われるように反響していた。


 蔵口には今日も人が集まっている。慈円、紫乃、鈴木家から引き取った女たちと男たち、そして役に立つとも思えぬ私と作左衛門らが、邪魔にならぬよう壁際に控えていた。


「今日は“(ふか)し”じゃ。ここを外すと、あとの全部が狂う。」


慈円の声が落ちると、蔵の空気が一段締まる。


 その声を受け止めるように、紫乃が一歩前に出た。幼い肩に掛けた麻の前掛けが、熱で湿り、背に沿って静かに貼りついている。汗を拭う仕草ひとつ見せず、彼女は小さく頷いた。


 「蒸気が上がったら、抜け掛けで置いていきます。最初から全部は張らない。蒸気の“道”ができてから。」


 澄んだ声だった。熱と湿気の中でも曇らず、よく通る。その声が響くたび、男たちの背筋が無意識に伸びる。


 すでに小袖を脱いだ男衆が、柄杓で湯を回している。湯気が立ち上り、蔵の中が白く霞みはじめた。


 (こしき)の口から立つ白い息は、はじめ細く、やがて太くなる。紫乃は一歩寄り、手の甲を湯気の縁へ差し入れた。睫毛がわずかに伏せられ、眉がほんの少し動く。


「……もう少し。今です。布、たるませずに。」


 布の角が四方へ引かれる。彼女はその動きを見逃さず、指先で布端を内側へ折り返し、小さく叩いて密をつくった。無駄のない所作だった。慈円の教えより、さらに細やかだと、私は感じた。


 布端に短い稲藁をあて、隙を塞ぐ。紫乃は竹箕を受け取り、米を薄く置き始めた。


「一盃目は浅く。蒸気に道を習わせる。」


 汗にまみれた男衆が米を抱え、甑の縁に膝を置く。湯気が顔を打ち、目を瞬かせる。その手首に、紫乃がそっと触れた。


「ここ。厚さは掌一枚ぶん。角は丸く。」


 触れられた男は、言われた通りに手を動かす。誰も彼女を見上げたりはしない。ただ、指示の一つひとつが、確実に身体へ落ちてくる。


 米は白い丘になって、息を吸うように沈む。蒸気の音が変わった。最初の抵抗が抜けると、すぅっと軽い笛のような響きが混じる。


「次、二盃目。」


 紫乃は中央に細い“筋”を残した。十字に刻まれた谷に沿って米が置かれ、蒸気が素直に昇る。抜けすぎぬよう、端だけを指で潰す。その指は小さく、だが迷いがない。


「蒸気が急ぐと、怒ります。だから――落ち着いて通してあげる。」


 独り言のようなその言葉に、男たちは思わず口角を緩めた。蒸気の音が、確かに穏やかになる。


 額に熱が刺さる。紫乃は頬を上げ、ひと呼吸置いた。


「“蒸気返し”を。蓋、半分だけ。」


 蓋が持ち上げられ、紫乃が布の皺を撫でる。濡れた布越しに木の温もりを確かめるような仕草だった。滞っていた蒸気がほどけ、音が整う。


「紫乃様、顔が赤い。」


 上半身裸の男たちが目を細める。


「平気です。まだ、息はあります。」


 笑みは控えめで、だがその一瞬、蔵の熱が和らいだように感じられた。彼女は一歩退き、手拭いを水に浸して首筋を撫でる。その動きに無駄はなく、同時に甑の縁の水滴も拭い取る。


 やがて香りが変わった。生米の青さが消え、甘い蒸気が胸を満たす。


 慈円が“ひねり餅”を作って見せた。人差し指と親指で小さく米をひねる。割れ目に艶が出るか、芯に細い粉の筋が残るか。慈円は皆に順に加減を見せて回り、「まだ」と首を振る。男たちが悔しげに櫂の柄を握りしめる。


「焦るな。今日は湿気が多い。蒸しは、半拍だけ長く。」


 慈円は拍を掌で打った。たん、たん。蒸気の音が、その拍に寄る。慈円は甑の片側の米の角を軽く崩し、逆側で少し盛った。わずかな傾斜で蒸気の分配を変える工夫。


 突然、甑の布の一角が膨らみ、湯が一滴、布端から跳ねた。反射で皆が手を伸ばしかける。


「触るなっ!」


 慈円の声が鋭く飛ぶ。慈円自身が布の膨らみを掌で押さえ、呼吸だけで数を数えた。布下の蒸気が落ち着くのを待ち、膨らみがしぼむと、藁を一筋差し込んで“逃げ”を作る。湯気がそこへ細く走り、布面の脈が整った。


「……今崩すと、全部やり直しじゃった。」


 慈円は低く息を吐いてから、すぐ顔を上げた。


「もう一度、ひねりを。」


 今度の割れ目は艶やかで、芯の粉っぽさが細い糸一本ぶん残る。慈円は微笑んで頷いた。


「“よし”まであと少しじゃ。掛米の山と麹の山は蒸し加減が違う、先に麹のぶんを浅く上げられよ。籠を。」


 慈円が籠に受け、麹室前の通いに載せると、紫乃は放冷の場所へ先回りした。放冷へ移る段取りも、紫乃が先導した。


 前庭の竹梯子を二本、平行に倒し、その上に簀の子と筵を渡す。地から一尺の高さ。紫乃の提案で拵えた“高い路地放冷台”だ。

 床の塵から遠ざけ、風を通す。蔵口と勝手口を対角に開き、間に簾を立てて風の道を作る。


 紫乃はうちわ役を男衆に割り振り、拍であおらせる。荒息だけ抜く。手で掬えば、米はさらっと離れる。すべてが彼女の拍で動く。誰も逆らわない。それは命令ではなく、自然な流れだった。


 「麹のは四十の手前で。掛米はそれより低く。風が熱いから、扇は浅く、長く。」


 紫乃は足を止めずに指示を出し、自らも扇いだ。額の汗が目にしみ、息が荒くなる。女たちの一人が水を差し出す。紫乃は一口含み、喉で音を立てずに飲み込んだ。


 (こしき)へ戻ると、残りの山が“留り”に入っていた。蒸しの“締め”は、このひと息で決まる。

 紫乃は蓋に手をかけ、わずかにずらして蒸気の勢いを確かめ、蓋を戻す。腕が重い。湯気が頬を刺し、視界が白んでいく。足がふら、とした。


「紫乃様!」


 男衆が支える手を伸ばしたが、紫乃は自分で膝を折り、(こしき)の縁に背をあずけただけで、首を横に振った。


「まだ。……まだ“締め”」


 その声に、男たちが蓋の反対側へ回る。女たちが布の角を見張る。皆の体が、彼女の拍に揃っていく。


 紫乃は息を整え、立ち上がり、最後の“ひねり”をした。割れ目の艶が、朝より深い。芯の粉が、糸より細く光る。


「今、上げます。」


 籠が走り、蒸気が逆巻く。紫乃は(こしき)の底布をすばやく返し、米が残らぬように指で払う。甑の底からは、濃い甘い香りが立ちのぼった。今日の“蒸し”が、ようやく息を吐いた。


 放冷台へ運ぶと、麹の山は室の前室で“鉄砲”を避け、荒息を抜いてから引き込む。

 掛米はさらに扇ぎ、目標の温みに落とす。紫乃は掌で米をすくい、指の間から落とし、その落ち方を見て頷く。表がべたつかず、芯が生きている。皆が笑った。


 夕暮れ、片付けのあと、紫乃は(こしき)の縁を布で拭き上げた。布の角で木の目をなで、残った水気を取る。

 指先が赤い。腕は痺れているはずだ。それでも彼女は(こしき)の口に両手を置き、目を閉じた。


 その横顔には、刃のような張りつめた気配と、春の水面のような柔らかさが、同時に宿っていた。



――――(ふか)


 (ふか)しも、単に米を熱で柔らかくする工程ではなく、二つの目的がある。

 ひとつは生デンプンを麹の酵素が働けるα型へ「変える」こと。

 もうひとつは蒸気の熱で「殺菌」し、以降の麹・酒母・もろみを安全に導くことだ。


 どちらも“均一”に達してはじめて意味を持つ。だから(ふか)しは「蒸せばよい」ではなく、「どう蒸気を通し、どこで止め、どこで逃がすか」を設計する工程だ。


 (ふか)しの基本は三つ。湯を張り、甑布を正し、蒸気が均一に上がり始めてから米を「抜け掛け」で置く。

 最初から全量を張ると、蒸気は抜けやすい箇所ばかりを選んで走り、片抜け(未熟・過熟の偏り)を招く。


 まずは薄く置いて蒸気の道を作り、蒸気が層を抜ける抵抗が下がってから次を重ねる。谷(筋)を十字に刻んで通り道を与え、角は丸め、必要なら藁や布の折り返しで“逃げ”と“塞ぎ”を同時に作る。途中で蓋をほんのわずか返す「蒸気返し」で滞りをほどくのも手だ。


 “よし”の見極めは、手と鼻が担う。指で小さな“ひねり餅”を作り、割れ目の艶と芯の粉の筋を見る。


 艶が立ち、粉が糸のように残る頃が、「麹米」の“よし”。「掛米」はもう半歩だけ硬めに上げ、もろみ中での溶けを抑える。


 蒸気が甘い香りへ変わる瞬間、木の鳴り、布の水の上がり具合――細部のしるしを拾うことが、機械の目盛り以上の確かさをもたらす。


 (ふか)し終えた米はすぐ「放冷」に移る。ここでも“ただ冷ませばよい”わけではない。狙いは表と芯の水分分布を崩さずに荒息を抜くこと。


 路地放冷(自然放冷)では、床から高さをとった台や筵を用意し、風の道を設計して均一に冷やす。麹米は前室で40度前後まで落としてから室へ、掛米はさらに低く。熱い外気の日は扇の当て方を浅く長く、寒い日は風の直当てを避ける。


 「鉄砲」で熱いまま室へ引き込むやり方もあるが、その場合は前室や通路での荒息抜きと、室内の受け側の段取りが要る。


 (ふか)しの成否は、「蒸気の通り道」「荷の置き方」「時間(拍)」の三本柱で決まる。


 蒸気は見えない川だ。川は楽なほうへ走る。だからこそ道を敷き、同時に逃げ道も用意して“怒らせない”。


 荷は軽重ではなく「面」の均一。厚みに差が出れば、そこから味の差が生まれる。時間は刻ではなく“拍”。湿度・外気・米齢で拍は伸び縮みする。唄や手拍で全員の身体時計を揃えるのは、均一化のための技術でもある。


 (ふか)しは危険でもある。湯気は不意に怒る。布の膨らみ、滴の跳ね、蓋の返し――どれも火傷へつながる。手順の声掛けと役割の固定、布の水分管理、蓋の持ち手の共有が、品質と同じくらい重要だ。


 蒸気の設計と放冷の設計が一対で働き、麹の咲き方、酒母の健康、もろみの泡の顔を決め、最終的には盃の香りの輪郭まで届く。


 たかが(ふか)し――ではない。酒の背骨を立てる工程である。

~超難解・清酒醸造工程~

(順) (工程)  (状態)

1.精米     米 ◁036話

2.洗米・浸漬  米 ◁039話

3.蒸し (ふかし)  米 ◁040話

4.製麹  (こうじ) 麹

5.酛 (もと)   酒母

6.仕込 (三段)   醪

7.発酵  (もろみ) 醪

8.上槽  (もろみ) 醪

9.滓引  (もろみ) 醪

10.濾過  (もろみ) 醪

11.火入     酒

12.割水     酒

13.出荷     酒


~参考記事~

日本酒の歴史/菊正宗酒造株式会社

https://share.google/qKiHrtmzXHl7IezqC


〜舞台背景〜

 前話では「第2の精米」と呼ばれる「洗米」ネタでした。家庭で炊飯前に手でザザッとやるあの洗米は、蔵元では1作業600kgの米量で、足が(ひび)割れ出血するような重労働だったそうです。

 で、機械化されたのですが、大吟醸など高級酒や金賞を狙う蔵人が、長年培った洗米技術を捨ててまで導入したのが「ウッドソン洗米機」。

 この機械化は、職人の手作業の妥協ではなく、まさに革新です。

 この洗米機のサイクロンと気泡を使うその洗浄能力は、なんと、イクラを潰さずに洗えるそうです…日本の機械技術ってスゲーw

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