038 〜延徳4年(1492年)5月 根羽宿〜
北前船で用いられた水樽/佐渡国小木民俗博物館蔵
提供元: ミツカン 水の文化センター
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〜登場人物〜
慈円…一向宗僧侶、酒造り指導者
〜延徳4年(1492年)5月 根羽宿〜
伊丹屋の門の叩かれる音が、朝の冷たい空気に響いた。
門を開けると、一人の僧が源八たちに囲まれて立っていた。一向宗総本山本願寺より酒造りのため招聘した慈円だ。笑うと萎む目尻が印象深い僧侶だ。
旅塵のついた慈円の脚絆や杖の先はまだ湿っている。都の雨がそこに残っているように見えた。
「慈円様、遠路ようこそお越し下さいました。」
宗伯が慈円をそして一緒に長旅を過ごした源八、弥助、小十郎を、私や兵庫が待つ伊丹屋の隣に建てられた真新しい酒蔵へ案内する。
酒蔵の庭には大きな樽や桶が処狭しと置かれ、杉の薫が、強く漂ってくる。
根羽の宿に新たに設けられた酒蔵へ、京より招かれた僧・慈円が足を踏み入れた。
分厚い土壁に囲まれ、梁の低い蔵の奥、半ば闇に沈むように据えられた巨大な結樽を目にした途端、慈円は思わず足を止めた。
「……これはまた」
ゆっくりと近づき、掌で樽の側面を撫でる。その木肌は新しく、杉の香がまだ強い。また奥三河の山地師たちが仕上げた箍の締まりも見事で、目の肥えた僧の目にも一目で良い仕事と知れた。
「これほどの大樽は、京の大寺でもそうは見ませぬぞ。本願寺の御蔵にすら、これほどのものは……」
感嘆の吐息とともに、慈円は静かに首を振った。
――三河は所詮、山と川に挟まれた鄙びた国。酒造りとて在地の粗酒が関の山。京を発つ折、そう高を括っていた自分を、思わず苦く笑う。
だが、目の前に並ぶ樽と桶は、その思い込みを容赦なく打ち砕いていた。材は選び抜かれ、作りは精緻で、しかもその規模が尋常ではない。
これは一介の国衆や寺内の思いつきで用意できる代物ではない。背後には人と金と山と、そして何より――確かな意志がある。
慈円は、並ぶ樽や桶の巨大さを見上げて、何か得体のしれない大きな流れに、自分がいつの間にか身を浸してしまいそうな――そんな予感を覚えた。
――――樽
人は酒を造るが、酒はまた器を選ぶ。
はじめから樽があったわけではない。古く、人々が液体を蓄えるために用いたのは甕であり、日常の器には曲げ物と呼ばれる薄板を曲げた桶が使われていた。
桶という言葉自体、その起源は苧麻の繊維を撚るための「苧を入れる笥」に遡る。
すなわち桶は、もともと液体のための器ではなかった。
一方、樽はまったく別の系譜を持つ。語源は「ものが垂れる」こと、すなわち注ぐ器に由来し、酒や醤油といった液体を「神に捧げる尊い器」として用いられた。木偏に「尊」の字をあてる樽という文字そのものが、その出自を物語っている。
短冊状の板を並べ、箍で締める結桶・結樽という木工技術が日本に伝わったのは11世紀後半、平安時代のことである。だが、それが広く普及するまでには、数百年という時間を要した。
理由は単純で、必要がなかったからだ。甕は重く割れやすいが、近場での貯蔵には十分であり、流通が限定されていた時代には問題とならなかった。
そして樽に転機が訪れる。それは酒造業の発展である。室町末期から戦国期にかけて、酒は寺や領主の私的な供物から、明確な商品へと姿を変えていく。
都市が成長し、武家や町衆が酒を常飲するようになると、量と安定した供給が求められた。甕では間に合わない。重く、輸送に向かず、割れればすべてを失う。そこで酒造の現場から求められたのが、軽く、大量に運べ、修理も可能な器――樽だった。
樽は、酒のために発展したと言ってよい。蓋を固定し、菰で巻けば転がして運べる。海上輸送にも耐え、しかも運ばれる間に杉の香りが酒に移り、味がまろやかになる。この木香を人々は好み、やがて「樽酒」という価値そのものが生まれた。酒が樽を育て、樽が酒の味を変えたのである。
こうして酒造業の要請に応えるかたちで、樽は大型化し、醸造用の百石 桶さえ作られるようになる。酒の量が増えれば、桶職人も増える。杉を伐り出し、樽丸として運び、組み、修理し、使い回す。
空き樽は別の用途へ回され、酒樽は醤油樽となり、最後は水桶や便槽として朽ちていく。無駄のない循環が、自然と社会の中に組み込まれていった。
結 桶と結 樽は、単なる容器ではない。酒造業の発展に引きずられるように拡がり、流通を支え、産業を繋ぎ、人の暮らしを底から変えた。雨が多く、杉と檜に恵まれたこの国の風土と、ひとつの道具を徹底して磨き上げる日本人の気質が、それを可能にした。
祝宴で鏡を開くその一瞬には、職人と商人、街道、そして酒を求める人々の欲望が織り重なった歴史が息づいている。
ーーーーー
私は、皆が揃ったところで…いや、揃っていない。
「専如殿は如何いたした。」
慈円を京より呼び寄せた張本人であるはずの専如の姿が、どこにも見当たらない。
その問いに答えたのは、肩をすくめた高力源八であった。
「それが……本願寺で慈円殿をお迎えした折、専如殿が“酒の流行りを探るなら是非、拙僧が手伝って進ぜよう。”と申されまして。確かに、洛中は余所者には冷たい土地柄、専如殿の顔の広さには助かりはしたのですが…。」
「ほう」
「気付けば、白拍子やら傾城やらが集まる辺りに入り浸り、戻る気配がございませぬ。『酒造りのため』などと申しておりましたが……。」
源八は言葉を濁し、意味ありげに笑った。
「要は、京の花街の酒が、よほど肌に合ったのでしょう。」
その場に小さな失笑が広がる。
慈円も苦笑し、数珠を指で繰りながら言った。
「まあ……酒の流行りを知るには、確かに最も近道ではありますな。」
そう言ってから、僧はふと表情を引き締め、蔵の奥へ視線を向けた。
そこには既に人が揃っていた。
紫乃を先頭に、蔵人として選ばれた女たち、鈴木家から引き取られた捕虜たちが、静かに待機している。
恐れと戸惑いを隠しきれぬ者もいれば、無言で床を見つめる者もいる。
“捕虜”という名札は、言葉より先に影を落とす。影は肩に貼りつき、言葉が喉でほどけない。
紫乃はその列を縫うように歩き、結び目をひとつずつ指先でほどいて回っていた。
袖で泥を払う手つきは、まるで古い着物のしわをのばすみたいに優しかった。
そして皆の前に並べられた道具は新しく、清められ、用途を待つばかりだった。
蒸籠、麹蓋、結桶と結樽が、用途に応じてきちんと据えられている。
慈円は一同を見渡し、低く、しかしよく通る声で言った。
「酒は、力で造るものではありませぬ。理と清め、そして人の手の揃いが肝要です」
そうして袖をまくり、まず米に触れた。
「この蔵では、今日から“酒を仕込む”のです。恐れることはない。ここにあるのは罰ではなく、生きるための技」
紫乃が一歩前に出て、深く頭を下げる。その所作に、他の者たちも続いた。
捕虜であった者たちが、次第に視線を上げ、慈円の手元を見つめ始める。
酒造りが始まる――それは同時に、この蔵に集められた者たちが、再び役を与えられる瞬間でもあった。
蔵の外では、夏の風が杉林を渡り、結樽の中に仕込まれる未来の酒を、静かに待っていた。
〜参考記事〜
【「鬼滅の刃」を読む】遊郭は戦国時代の終わり頃、都市政策の一環として整備された/Yahoo!ニュース
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戦国時代の授業(戦のほんとうの姿)/人間の歴史の授業を創る会
https://share.google/1QGRc2BLWjERVr9WY
江戸時代の日本を支えた桶と樽/ミツカン 水の文化センター
https://share.google/OzT2Az1KgBcEC6Zlv
〜舞台背景〜
ようやく本格的に酒造りに進みますが、その前に「樽&桶」の説明回です。自分でも、ちっとも進まないなぁ…とw と、一向宗(浄土真宗)は僧侶の飲酒は禁じられてません。
また、酒造りをググっているのですが、日本酒の奥深さ、情報量の多さにビックリしました。
なお、日本の酒蔵数は1,400軒、銘柄数は10,000overだそうです。で、焼酎の鹿児島県と泡盛の沖縄県にある酒蔵の数はそれぞれ1軒だそうです。極端ww







