第三話『逃げ場なき異界』
「とりあえず、ここを出ましょう」
全身を包んでいた赤い焔を消しながら、神代朱璃が言った。
「う、うん……」
白鷺天音が戸惑いながらもうなずき、立とうとする。
その瞬間。
ザワッ、と空間が再び揺れる。
霧散したはずの異形たちが、再び形を成していく。いや、それだけではない。先ほどとは比べものにならないほどの数の異形が、次々と生み出されていく。
「な、なんで!?倒したんじゃなかったの!?」
天音が悲鳴混じりに叫ぶ。
「この数……まさか"奴ら”が……⁉こんなに早く仕掛けてくるなんて!」
(私一人ならともかく、彼女を守り切れる保証がない……!)
「白鷺さん、逃げるわよ!」
「逃げるって言ったってどこに!?」
天音が叫び返す。
そう、ここは閉鎖された"異界”。逃げ場なんて、どこにもない。
「私が魔術で現実への扉を開く!それまでなんとか耐えて!」
(まずい……!このままじゃ術式が間に合うかどうか……)
「耐えるって言ったって……痛っ!」
鋭い痛みに、肩を押さえる。血が、じんわりと滲んでいた。
(撃たれた? いつ? 何に――)
思考が追いつく前に、再び射撃が飛んでくる。
「……っ!」
咄嗟に目をつむる。が、痛みは来なかった。
(手の刻印がまた……まさか……また私がやったの?でもやり方なんて分からないし、体が……重い……こんなんじゃすぐ……)
諦めかけた、その時――
違和感に気づいた。
いや、正確には、“思い出した”。
この空間の“ずれ”。
それを意識した瞬間、確かな歪みを感じ取る。
(これって……)
違和感の核心を手繰り寄せる。そして見つけた決定的な”ずれ”を切り裂く。
――瞬間。
世界が、割れた。
「これは……! 出口!? まさか、白鷺さんが……?でも今は、とにかく逃げなきゃ! 白鷺さん、こっちよ!」
「う、うん!」
天音は震える足を踏み出し、空間の裂け目へと駆け出す。
「燃えて!」
朱璃が詠唱とともに、裂け目周辺の異形を焼き尽くす。
「今っ!」
二人は空間の裂け目をすり抜け、異界から現実世界へと帰還する――。
「化け物は……?」
天音が息を切らしながら尋ねる。
朱璃は冷静に答える。
「大丈夫。怪異や化け物の“前段階”である異形は、現実世界に入り込めない。この扉も、すぐに閉じるわ」
朱璃の言う通り異形たちはこちらにこないようだ。そして空間の裂け目も静かに閉じていった。
「怪我は?」
「肩を少し……」
血のにじむ肩を見せる。
「この程度なら私でもなんとかなりそうね」
朱璃の手が青く光り、その輝きが天音の傷口に注がれる。
「これ……傷が、塞がってく……」
まるで最初から怪我などなかったかのように、肌が元通りになる。
「あ、ありがとう……」
礼を述べる天音に、朱璃は静かに言った。
「このぐらい当然よ。それより危険な目に合わせてごめんなさい。 最初にあなたに攻撃した異形。普通の速さじゃなかった。この時点でもっと警戒していれば……」
(それに――空間を裂いて現実への扉を開けるなんて。彼女は、想像以上かもしれない……。もしかしたら――“奴ら”への、切り札になり得る)
***
――「虚空の魔女」が目覚めた刻。
止まっていた世界の歯車が、音を立てて動き出す。
この世の“表”では、誰も気づかないままに。
だが確かに、この日が始まりだった。
白鷺天音の日常が終わり、“魔女”としての運命が幕を開けた、最初の日だったのだ。