第二話『動き出す運命』
放課後の教室
黄金色の夕陽が窓から差し込み、教室の隅をゆっくり染めていく。
白鷺天音は机の横に立ち、神代朱璃と向かい合っていた。
「ねえ、君……魔法って、信じる?」
不意に放たれたその言葉に、天音はまばたきをする。
「……え? 神代さん……何の話?」
戸惑いながら返すと、朱璃はふっと微笑んだ。
神代朱璃――同じクラスの、少し不思議な雰囲気をまとう少女。
黒髪は腰まで届くほど長く、光を受けて艶やかに揺れる。繊細に整えられた前髪と、首元にかかる紅い組紐の飾りが、どこか和の品格を感じさせる。
切れ長の瞳は琥珀色に澄んでいて、まっすぐ見つめられると、心の奥まで見透かされるようだった。
制服は天音と同じものなのに、彼女が着ているだけでどこか格式があるように見える。胸元には小さな、家紋のような模様が彫られたペンダントが揺れていた。それはおそらく、彼女の家に由来するものなのだろう。
声も、仕草も、すべてが静かで、凛としていて――どこかこの教室の空気だけ、彼女だけ別の世界に属しているように思える。
クラスで特別目立っているわけではないのに、近寄りがたいような、見惚れてしまうような、そんな存在。
そんな彼女が、自分に話しかけてくるなんて。しかも、“魔法”の話だなんて。
「……え? 神代さん……何の話?」
戸惑いながら答えると、朱璃はふっと微笑んだ。
「自覚はないのね。でも、やってみればわかると思う」
そう言って、朱璃は手に持っていたペンを天音のほうへ放った。
「きゃっ!」
思わず顔を覆う天音。
しかし、何も当たらない。
そっと目を開けると、ペンは彼女の手前で不自然に落ちていた。
まるで空中に“何か”があったかのように。
「え……何? 壁でもあったの?」
「違うわ。空間が“曲がった”のよ。あなたが、無意識にそうしたの」
朱璃の翡翠のような瞳が、まっすぐ天音を見つめる。
「今日一日で、あなたが起こした“歪み”を私は何度も見たわ」
「そんな……空間が曲がる? 私が?」
信じがたい。だが――
そのとき、空気が震えた。
目に見えない何かが、教室の中で“軋んだ”ような感覚。
空間そのものが揺れている。
「やっぱり……完全に眠ってたのね」
朱璃の目が、赤く燃え上がった。
「あなたは選ばれたの。十三人の魔女の一人、“虚空の魔女”として――」
「魔女……? そんな、現実じゃ――」
反論する声が、震えた。
だが、その瞬間。
教室の壁が、裂けた。
空気が引き裂かれ、見えない境界線が、世界を“裏側”へと接続していく。
「ようこそ、裏の世界へ」
朱璃の声が、どこか慈しむように響いた。
「──目を覚まして、“虚空の魔女”」
***
天音の目の前で、空間が音もなく裂けた。
そこには、もう“普通の教室”など存在していなかった。
無音。無重力。そして、色彩を奪われた空間――
まるで世界が裏返ったような錯覚に、天音は足元の感覚すら見失いそうになる。
いつの間にか天音たちは校庭に移動していた。
「ここは、“異界”。この世界の裏側よ」
赤く染まった朱璃の瞳が、まっすぐに天音を見据えていた。
「私たち魔術師は、術式を用いて異界に接続する。
普通の人間には、そもそも存在すら知覚できない領域……。
でもあなたは、その“入り口”を見た。空間の揺らぎに気づいたのよ」
「……私、本当に……魔女、なの?」
震える声で問いかける天音に、朱璃はゆっくりと頷いた。
「そう。あなたは十三人の魔女の一人――“虚空の魔女”。
本来ならもっと時間をかけて導くつもりだった。でも、もう猶予がないの」
「猶予……? どういうこと……?」
朱璃はふっと小さく息を吐き、静かに言葉を継いだ。
「十三の魔女の力は、どれも世界を揺るがすほどに強大。その中でもあなたの持つ“空間”の力は、特に厄介。だから“奴ら”にとって、目覚めたばかりのあなたは――格好の獲物になる」
天音は息を呑んだ。
まるでフィクションの中に放り込まれたような現実に、言葉が出ない。
「私は“秘跡会”の魔女。……十三魔女の一人、“煉獄の魔女”。炎を司る者として、あなたを導くためにここへ来たの」
「炎……」
言葉を失ったままの天音の手を、朱璃がそっと握る。
「世界は、思っているよりずっと脆い。そして今、崩れかけている。あなたが目覚めたのも……“彼女たち”の動きに呼応したから」
「彼女たちって……誰?」
天音の問いに、朱璃は答えず、遠く――まるで見えない敵を睨むように視線を逸らした。
「今は、まだ話せない。でも――信じて。あなたには、その“資格”がある」
朱璃はさらに言葉を続けようとする、その瞬間。
空気が張り詰め、異界の“何か”がざわめいた。
――ザリ。
耳鳴りでも機械音でもない、乾いた摩擦音。足元から、空間そのものが軋むような感覚が響いた。
「……来た」
朱璃が天音の前に出て、腕を広げる。
闇の中から、にじみ出るように“それ”は現れた。
黒い影――人の形をしているようで、顔はなく、身体の輪郭さえ曖昧な異形の存在。一体、二体、三体……次々と闇から染み出し、現実を侵食するように姿を見せる。
「“異形”。人々の噂や悪意、怨念から生まれる、怪異や化け物の前段階。形を持つには未成熟だけど……攻撃性は十分よ」
朱璃がつぶやく。天音は息を呑み、後ずさる。
「下がってて。ここは私が――」
朱璃が指を鳴らす。
その瞬間、彼女の全身に赤い焔が走り、黒髪が炎のように鮮やかな赤に染まった。瞳もまた、燃え盛る煉獄のように輝きを放つ。
「燃えなさい」
足元から展開される紅蓮の魔法陣。熱波が爆ぜ、異界の空気を灼く。一陣の炎が奔り、異形の八割が焼かれ、悲鳴のような音を残して霧散した。
だが、残りの異形は止まらず、朱璃の元へと迫る。
そして――異変は、天音の中にも起きていた。
視界が歪む。
空間が、層になって折り重なっているように見える。まるで万華鏡のように、現実がずれていく。
(……なんで、こんなふうに……)
今までも感じたことのある違和感、その“ずれ”の感覚が、今になって爆発的に広がっていく。
「なっ……!? 白鷺さん、下がって――!」
朱璃の叫びよりも速く、一体の異形が今までの何倍もの速度で天音へと飛びかかる。
恐怖で身体が動かない。声も出ない。
死を覚悟した、その瞬間――
「……きゃああっ!」
天音の悲鳴が異界に響き渡る。
直後、彼女を中心に、空間が“裂けた”。
まるで紙が破れるように、現実そのものが引き裂かれる。
飛びかかった異形の身体がねじれ、引き裂かれ、虚空へと吸い込まれて消滅する。
その場に、淡い空色の魔法陣が静かに浮かび上がっていた。
朱璃の瞳が見開かれる。
「……今の……無意識の空間操作……! 段階を踏まずに、力を引き出した……?」
天音はへたり込み、肩で荒く息をしていた。
身体が鉛のように重く、指先が震える。何が起こったのか、理解すらできない。
朱璃がそっと彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫。……あなたは、ちゃんと“虚空の魔女”になれてる。これからゆっくりでいい。力を制御していけばいいのよ」
天音は戸惑いながらも、小さく頷く。
その手のひらには、さっきまでなかった“刻印”が静かに浮かんでいた。淡い蒼と白の光で織りなされた、輪と線が交差する空間の象徴。
それは確かに、“目覚め”を告げていた。