呪いの魔女
某国の山岳地帯――
極寒の吹雪が唸る中、二人の女が黙然と雪を踏みしめて進んでいた。いずれも常人なら到底耐えられぬ薄着でありながら、その歩みに一片の震えもない。
一人は、黒きドレスに身を包み、紅の瞳と黒金のティアラを戴く魔女――無冠者の長セラフィナ。
もう一人は、銀糸で氷結の文様を織り込んだ、純白のチャイナ風の衣を纏う女、氷の魔女雪蘭。
二人が向かう先は、一軒の古びた山荘――
十三人の魔女の一角、“呪い”を司る魔女の拠点だった。
千年前、かの“初代セラフィナ”が秘跡会を裏切った際から今に至るまで、中立の立場を貫いた古き魔女。
以来、誰にも属さず、ただ静かにこの地に潜んでいるという。
やがて、山霧の先に質素な一軒家が現れる。
それは魔術師の頂点の住処とは思えない。
まるで、おとぎ話に登場する“森の魔女”がひっそり暮らす隠れ家のようだった。
「ここが……呪いの魔女の拠点ですか?」
雪蘭が疑念を含んだ声を上げる。
「ふふ、意外だったかしら? 彼女は中立の立場を守りつつ、魔法の研究に千年を費やしているのよ。姿を見せることすら稀だわ」
まるで自身の記憶を語るかのように、セラフィナが言った。
「私が先に入るわ。雪蘭はここで待機していて」
「……お言葉ですが、それはあまりにも危険です。例えセラフィナ様であっても、単身で魔女の拠点に入るなど――」
「……私のこと、信じてないのかしら? 雪蘭」
その声は穏やかなままなのに、空気が一変する。まるで、肌を焼くような静かな圧。
「……いえ、申し訳ありません。主のお心のままに」
雪蘭はすぐに跪き、恭しく身を引いた。
セラフィナは微笑んだまま、扉の前に立つ。
「さて……お邪魔するとしましょうか」
ノック――応答はない。
扉に鍵もかかっていたが、セラフィナがノブに触れた瞬間、それは音もなく開かれた。
中は驚くほど整然としていた。埃一つない床、最低限の家具、生活感を欠いた静謐な空間。奥の部屋だけが明かりを灯している。その向こうに、人の影があった。
ゆっくりと、セラフィナは進み、声をかけた。
「葵烏さん……今もこの名で、通しているかしら?」
「……名に意味はない。識別のための記号だ。君がそう呼ぶのなら、好きにするといい」
現れたのは、くすんだ空色――葵色の和衣を纏った女。
その衣は淡く青磁がかった灰を基調に、袖や裾には煤けた黒と銀の刺繍が這う。
それはまるで呪文の符号のようでもあり、見る角度によっては一羽の烏が羽ばたいているようにも見える。
髪は漆黒に近い藍。肩までの長さに揃えられ、前髪は斜めに流れて片目を覆っている。覗く片目――その瞳は白銀にきらめく金属質であり、生物のそれとは思えぬ冷たさを宿していた。
「それで――支配の魔女、セラフィナ。何の用だ?分かっているだろうが、私は中立の立場を変えるつもりはない。それが目的なら、今すぐ帰れ」
「ふふ……相変わらず冷たいのね。お茶くらい出してくれてもいいじゃない?」
葵烏は無言のまま、鋭い眼差しでセラフィナを見据えた。
「君が手ぶらで来るはずもない。――本題を話せ。無駄話に興味はない」
「そうね……“葵烏”さん。ちょっと呼びにくいわ。“葵”でいいかしら?」
「好きにしろ」
セラフィナは笑みを崩さず、まっすぐ彼女を見据えたまま言い放った。
「ならば単刀直入に。――あなた、私の配下になりなさい。 もちろん、断る選択肢は存在しないわ」
その瞬間、空気が変わる。
押し寄せる、圧倒的な魔力の圧力――威圧ではない。これは“宣告”だ。
だが、葵烏は眉ひとつ動かさず、ただひとこと返した。
「――当然、断る」
沈黙。
火花すら散らさず、無言の圧だけが静かに空間を焼く。
「ふふ……そう言うと思っていた。だから――」
セラフィナの瞳が、妖しく紅く光る。
「力づくで従わせることにしたのよ」
「《跪け》」
「《病め》」
セラフィナと葵――
その魔法は、いずれも“回避不能”。どれだけ強固な魔力の障壁を築こうとも、一度発動条件が満たされたなら、それだけで終わりだ。その“一言”さえ口にすれば、すべては決着する――
――ただそれは、相手が最上位の魔女であれば話が変わる。
セラフィナの《支配》を受け、地に伏す葵。だが、“魔女”にはこの魔法は完全には効かない。通常、セラフィナの支配は永続だ。一度命令を下せば、その意志に逆らうことはできない。しかし、魔女に対しては例外がある。命令は一度きり、しかも短時間の制限付き。
――それでも、普通はそれで十分だ。一度の命令でも、命取りにはなる。葵の敗北は決したかに思われた、が――
「……生憎だが、私に支配は効かない」
そう言って葵はゆっくりと立ち上がり、セラフィナを見下ろす。逆転の構図。セラフィナの身体には、すでに“病”が蝕んでいた。
――呪い。
病の種類や症状など問題ではない。この呪詛は、病という概念そのものを敵に押しつける。人間であれば即死に等しい魔術。だが、魔女はそれに抗う力を持つ。
それでも――普通は、動けないはずだった。
「ふふ……ひどいじゃない。死んじゃうかと思ったわ」
しかし、セラフィナは平然と立ち上がる。
血の気も引かず、表情さえ崩さず。
両者の魔法は、本来なら一撃必殺の魔法である。だというのに、この二人には通じない。これが、十三の魔女の中でも“頂点”に君臨する支配の魔女――セラフィナ。
そして、それに匹敵する呪いの魔女――葵烏の実力だ。
「なるほど。“無冠者の長”……その名は伊達じゃない。ならば――これはどうだ?」
葵が懐から一体の紙人形を取り出し、無造作に腕を千切る。
――ザシュッ!
同時に、セラフィナの腕が紙の人形と同じように裂け、血が飛び散った。だが、セラフィナの表情に変化はなく、焦った様子もない。それどころか笑みを濃くしながら口を開く。
「……あら、痛いわね。じゃあ、今度は私の番。《千切れろ》」
――ズバッ!
葵の両腕が断ち切られ、鮮血が床を濡らす。木造の家屋に、血飛沫が弧を描いた。間違いなく致命的な一撃のはずだが、葵の表情はいら立ちを濃くするだけだった。
「……ちっ。《爆ぜろ》」
葵の呟きと同時に――
ドォン!!
轟音。呪詛によって“爆ぜた”家屋が四散する。木屑と瓦礫がセラフィナに降り注ぎ、嵐のような破片が空を裂く。当然、葵自身もその爆発に巻き込まれたはずだ。両者ともに普通だったら即死の一撃。だが魔女にとってそんな常識は通用するはずもない。
粉塵が晴れた頃――
その中心に、ふたりの影が静かに立っていた。
どちらも、傷一つない。先ほど失われたはずの腕すら、元通りに戻っている。セラフィナに至っては、血の跡すら残っていない。
「セラフィナ様っ!」
粉塵の向こうから雪蘭が駆け寄る。だが――
「下がってなさい、雪蘭。貴女じゃ彼女には勝てないわ。それに……まだ聞きたいことがあるのよ」
セラフィナは笑みを浮かべたまま、雪蘭に指示を出す。その声音に逆らう者は、誰もいない。雪蘭は一礼し、静かに姿を消した。
そして――
粉塵の中から、再び姿を現した葵が、口を開く。
「……お前。千年前から生きてるな?」
「ふふ。それは、お互い様でしょ? 葵烏」
魔女の寿命は、人間とそう変わらない。確かに魔術や魔法の副作用により、多少の延命は可能だ。しかし、
――千年は、常軌を逸している。
「最初の疑念は名前だ。“葵烏”という名は、千年前のもの。今なら“紫暮”という名の方が知れているはず……そして、ここも。この拠点の場所を知っているのは、千年前の魔女だけだ。 ……まさか、本当に生きていたとはな、セラフィナ」
一瞬、懐かしげに目を伏せる葵。だがすぐに、戦闘態勢に戻る。
「……葵。貴女も生きていたとはね。昔は――いいえ、やめましょう。
貴女、自分の身体を呪って、不老不死になったのね?」
「概ね正解だ。お前は自分自身の身体を“支配”して、同じように不老不死を得たんだろう?」
「ええ、まったくその通り。じゃあもう一度言うわ。――私の配下になりなさい、葵。」
「答えは千年前と同じだ。断る、セラフィナ」
「……そう。なら――屈服させるまでよ」
「今度こそ――殺してやる」
空気が一変する。
不老不死。
全ての人間が夢見てもたどり着けなかった世界。それを達成した最高位の魔女が二人。 何度死んでも、殺しても終わらない。果てなき死闘が始まる。
「《動くな》《眠れ》《解呪しろ》」
セラフィナが次々と“支配”を放つ。だが――
「やっぱり、“身体に害を及ぼさない”支配じゃ意味がないのね。……解呪も通じないか」
確かに一瞬、葵の動きは止まった。しかしそれも束の間。すぐに支配の効果は解除された。
一方、葵も手を抜かない。虚空から藁人形を取り出し、無言のまま釘を突き刺す。
ズシャッ!
セラフィナの腹部から無数の杭が突き出し、肉を抉った。だが――
「……やはり“継続的な呪い”も効かないか。上書きされるなら意味はない」
今の呪詛は人形の状態を常時相手に適用する最悪の呪い。だが、その呪いも相手の支配によって上書きされてしまう。
肉体に対する支配も、呪いも。互いに効果が届かない 二人の魔女が放つ殺意は、限界を超えた次元でぶつかり合う。肉体のダメージが意味をなさないなら、どうするか。二人は同時に動き出す。
「なら……直接殺すわ。《死ね》《焼死》《窒息死》《溺死》《病死》《圧死》---」
「なら……直接殺すか。《死ね》《凍死》《感電死》《餓死》《轢死》《縊死》---」
ありとあらゆる「死」が、互いに吹き荒れる。呪いと支配によって、幾度も殺され、幾度も蘇る。直接的な支配すらも意味をなさない。不老不死の魔女たちは、殺し合いながら再生を繰り返す、無限の死闘へと突入していた。
「ふふ……私の《支配》が効かない? いいえ、無視されるなんて、余計に欲しくなっちゃうわ」
「……はぁ。私の《呪い》が通じない……いや、無視されるなんて、不愉快この上ない」
「次は……」
「---魂を殺す」
「《病め》」
同じ呪詛の言葉、だが“質”が違った。先ほどまでの呪いは、肉体に対するもの。今度の対象は――魂そのもの。不老不死であろうと、魂が蝕まれれば終わり。肉体は何度でも修復できても、“核”が腐れば再生はできない。
……しかし。一瞬、セラフィナの動きが止まるも、すぐに行動を再開する。
「ふふ……あなたも、魂の本質に触れているのね。肉体と精神、そこに魂を理解して初めて届く領域……」
セラフィナが再び一言、放つ。
「《朽ちろ》」
同じように、葵の動きが一瞬だけ止まるが、すぐに行動を再開する。どちらも肉体と精神のみならず魂そのものを不死の呪いや支配をかけている。つまり、この二人を完全に殺す手段はない。
「……千日手だな」
「ええ。何度殺しても殺されても、終わらない戦い」
もはや両者の魔法は、即座に全快させるだけの不老不死によって無力化されていた。お互いの“最大”が“最小”で打ち消される――そんな不毛な戦い。
ふたりは、次の一手を探る。
(方法は、二つある……)
(ひとつは、“オド”の枯渇を待つ。――却下だな。
私の呪いは消費が少ない。自分にかけた呪いは既に常時発動状態、オドを消費しない。
……相手も同じだったら? 自動修復型の《支配》なら、日単位どころか数ヶ月かかるかもしれない)
(葵の《呪い》は既に完了していて、オドを使ってないとしら……?“持久戦”は意味をなさない)
(なら、残された手は――魔界の構築)
(でも……私の魔界が、あの女の魔界より上とは限らない)
魔界――それは魔女たちの“切り札”にして、“最後の世界”。
自身の司る属性を基盤に、現実そのものを上書きし、己の世界とする。相手が人間や魔物なら、それだけで勝負は決まる。
だが、相手は“同じ魔女”、しかも“不老不死”。
魔界の構築には、膨大なオドと、わずかな隙が生じる。もし相手の魔界の出力が上なら、それだけで反転負け。万が一にも有り得ないことだが、魔界以外の手段で防がれでもしたら、次のチャンスはもう訪れない。すなわち――魔界の発動は“賭け”だ。
(魔界を使うのは……確実に仕留められるときだけ)
(今は、通常の魔法だけで沈める)
二人の魔女が、同時に同じ結論に辿り着いた。
そして、再び動き出す――
(セラフィナ自体に呪いは効かない。なら―――)
葵が空へと手を翳す。その瞬間、空間一帯が巨大な魔法陣に覆われ、蒼白い光が迸った。
―――ズン!!
大地が鳴動する。
重圧に膝をつくセラフィナ。今度は一瞬ではなかった。彼女の動きが、止まる。
「……っ、これは……?」
呻くセラフィナを見下ろしながら、葵が冷ややかに告げる。
「“世界”を呪った。今この空間は、死の領域。重力でも温度でもない。ここは、生きることそのものが不可能な空間だ。いくら不老不死でも肉体の修復は追いつかない。精神や魂にも影響はあるはずだ」
「……そう」
セラフィナは、苦しげな呼吸を整えながら、ゆっくりと囁く。
「なら、《切り抜け》」
その声とともに、地鳴りが轟く。瞬時に彼女の周囲が、丸ごと切り取られた。大地ごと、空間ごと、球状に。まるで巨大な刃物で地中十数メートルを円形に切除したかのように。それは単なる回避ではない――“呪われた世界”から自身を切り離したのだ。通常であれば、そんな行為に意味などない。だが、これは魔女たちの戦い。世界を隔絶するという魔術的な意味は余りにも大きい。
「……私の“世界”を切り離した、だと……?」
葵の顔に、わずかに焦燥が滲む。だが、それを逃すセラフィナではない。
「世界を呪う――それは周囲を変えること。でも、そこに抜け道があれば意味がない。だから、**その抜け道を“封じる”**のよ」
セラフィナの口元に、薄く狂気を孕んだ笑みが浮かぶ。次の一言が、戦場の理を変える。
「《消えろ》」
「……?」
しかし、周囲に変化はない。警戒しながらも葵は反撃のために、呪詛を紡ぐ言葉を発しようとする。しかし――
「《……》」
声が、出ない。
(……声帯の支配? いや、違う……これは――)
(……空気が……ない……?)
驚愕とともに、葵の思考が追いつく。
「気づいたようね? “空気”を消したのよ。空気の震えがなければ、音も声も存在できない。呼吸ができ なくても魔女なら死なないけど……呪詛が唱えられなければ、意味がないでしょう?」
葵が、睨む。だが、セラフィナは構わず続ける。
「視認を条件とした呪いが届くのは肉体のみ。魂にすら届かない呪いなんて無意味よ」
葵の手が、懐へ伸びる。だが、セラフィナは先手を打つ。
「……隠し持っていた呪具も、使えなくしたわ。残るは動作だけね――ならば、その手も封じるまでよ。《沈め》」
――ズゥゥンッ
重力が変質した。葵の身体が地面に引き倒されるようにして沈む。彼女自身が先ほど用いた手段である世界の変質。それを参考に世界---重力をセラフィナが“支配”した。
「チェックメイト。攻撃手段を封じられた不死者にできることなんて、せいぜい命乞いを考えることぐらいかしら」
セラフィナの声に、確信が滲む。
勝負は決した。
詠唱も行動も、呪具の使用も封じられ、魔界すら発動できない。魔術師なら誰もが認めるだろう。支配の魔女の完全勝利だと。
しかし――
――ズズン……ッ
異様な気配が、空気を震わせる。
それは、まさに「死」の気配だった。
しかも――それは“葵の頭上”から、降り注ぐ。
葵は、動いていない。詠唱も、魔法陣の起動も、兆しすらない。それでも――“死”は、確かにこの場に現れつつあった。 セラフィナは、葵の頭上から降り注ぐ、底知れぬ圧を感じ取る。それは、まぎれもなく“死”そのものの気配だった。
「まさか……思念、だけで?」
“言葉”が封じられようと、“動き”が縛られようと――
呪いとは、意志である。
命令されずとも、声に出さずとも、願った瞬間にそれは成立する。
なぜなら、彼女は“呪いの本質”を極めた魔女だからだ。
(違う。もし思念だけで呪えるなら、最初から言葉による呪詛なんて必要ない。効果はせいぜい限定的。不死を打ち破れるはずが――)
しかし、“死の気配”は消えない。それどころか、黒き渦となって空間を占め、ついには具現化を果たす。
現れたのは、全身を墨のような黒で塗り潰された巨大な影法師。目の位置にだけぽっかりと空いた穴が、ただ存在している。その姿はまさに――
「……死神。それも、霊装……しかも、武器ですらないなんて」
これは、“葵烏”が所有する霊装――魔女の究極の象徴。多くの魔女はそれを剣や槍といった武器の形で顕現させる。だが、彼女の場合は違う。これは、“死を願う怨念”そのものが形を得たもの。思念の集合体が、人の形をとったのだ。
これこそが、呪いの魔女・葵烏の霊装。
「《死ね》《消えろ》《失せろ》《果てろ》《滅せ》《散れ》《断たれろ》」
「《止まれ》《跪け》《爆ぜろ》《消滅しろ》《壊れろ》《屈せ》《自壊しろ》」
「《沈め》《燃えろ》《凍てつけ》《堕ちろ》《裂けろ》《崩れろ》《沈黙しろ》」
死神に対して、セラフィナが無数の支配を叩きつける。
それは死神そのものを破壊せんとする命令であり、
進行を止めるための命令であり、
この世界そのものを変質させる支配であった。
だが――死神は止まらない。
それは怨念そのものであり、存在理由はただ一つ。“対象を殺す”こと。その目的を果たすまで、決して止まることはない。
「……私の支配に従わないのなら――殺すしかないわよね?」
セラフィナの漆黒のドレスが、闇のような光を放ちはじめる。ただの布とは思えない――呪いを秘めた宝石のように、禍々しくも荘厳な輝き。光はゆっくりと彼女を包み込み、衣の輪郭が変質していく。肩のラインは高貴な軍衣のように鋭く張り、その身を覆うのは、漆黒に赤紫を溶かしたような毒々しい光沢のドレス。裾は重力を無視するかのように宙を漂う。胸元には王冠を砕いて作られたかのような魔印のブローチが鈍く光り、その背からは悪魔の翼と見紛う漆のような装飾が幾筋も広がる。
――それはまさに、**“支配の化身”**にふさわしい姿だった。
そして、その手に現れたのは――一本の剣。
抜かれる音もなく、ただ自然に現れたそれは、見る者の感情を否応なく沈黙させる闇の塊だった。刃渡りは長く、まるで罪人の首を刈るためだけに鍛えられた処刑具のよう。表面は墨のように黒く、金属とは思えないほど光を吸い込んでいる。素材も由来も不明。だが、誰の目にも分かる。“これは、死だ”。
この剣は、“一人を確実に静かに殺す”ことを宿命づけられた葵の“死神”とは正反対の存在。
あれが“個を呪い、ただ一人の死を願う怨霊”だとすれば、セラフィナの霊装は、“集団を統べ、万人を屈服させる処刑の意志”。それは剣であると同時に、王の玉座であり、断罪の宣告であり、世界を統治する者が掲げる絶対的な象徴であった。
万人に恐れられ、従わざるを得ない――それこそが、「支配の魔女」の霊装
「……処刑の時間よ」
静かな声が、世界に死を告げる。“死”という概念が具現した霊装が、今、二つ、対峙していた。
一方は、怨嗟と呪詛から生まれた黒き死神。葵烏の霊装。
もう一方は、支配と断罪の意志から生まれた、セラフィナの漆黒の剣。
だが、次の瞬間――
「形を持った時点で、それは“殺せる”ものとなる」
セラフィナの声が響くと同時に、漆黒の剣は空中にふっと溶けるように消えた。その代わりに、空間がざわめき、軋み、存在すら拒絶するような音を立てて“何か”が現れる。
――それは断頭台だった。
黒鉄の枠組みに、重く鈍い色をした刃。空間ごと切り裂くその刃の先端は、現実すら歪ませて見せるほどに禍々しく、ただ“落ちる”という行為だけに、万象を屈服させる絶対性を帯びていた。
これこそが、セラフィナの霊装の真なる姿。
剣という姿は仮初めであり、本質は「処刑」そのものの象徴。絶対の支配を可能にするために生み出された、反逆者に死という罰を与えるためだけの概念。裁きを待つ者の自由など存在せず、ただ命令のままに首を差し出すことを強いられる。
死神が、動きを止めた。
その姿は微動だにせず、音も立てない。
いや――“止まった”のではない。止められたのだ。
そこに理由も、抗いも、思考も介在しない。
ただ“死ぬこと”が定められた。世界がそう命じた。
「死になさい」
セラフィナの冷ややかな声が、空間を断ち切る。
それは命令ではない。確定された現実であり、
抗えぬ運命をただ言葉として宣告したに過ぎなかった。
そして次の瞬間――
ズシャアッ!
漆黒の断頭台の刃が音もなく振り下ろされ、死神の首を掠めた瞬間、その姿が霧散する。怨念の塊だった霊装は、風に流れる墨のように空中に溶け、完全に消え去った。
もはや、葵烏の霊装はこの世に存在しない。
―――ズシャッ!
実体を持たないはずの死神が、その首を落とされ、霧散する。
***
死神が消え、戦場には静寂が戻る。
「……あら、霊装を破壊された反動かしら?」
セラフィナが葵へと歩み寄ると、彼女はその場に崩れ、気を失っていた。
あれだけの霊装を、無詠唱・無動作で発動するとなれば、反動も相応のものだろう。
「雪蘭、凍らせなさい」
「はっ」
気配もなく現れた雪蘭が、命令に従い葵の身体を凍結する。
支配は意識を失っても解除されないが、凍結によって彼女の覚醒タイミングをコントロールできる。
「ふふ……ここまで本気を出したのは、いつぶりかしら?
これでまた一つ――計画が進むわ」