第十四話『虚空の魔女』
アストラが止めを刺そうと槍を構え、天音に近づいた――その時だった。
―――異変が起きた。
アストラの表情が曇り、瞬時に数メートル後方へ跳ぶ。
「なんだ……? まさか、目覚めたのか……?」
その“異変”の正体は、目の前の白鷺天音の変貌だった。
ゆっくりと、しかし確かに――天音が立ち上がる。
その瞬間、蒼と白の光がふわりと彼女の身体を包み込んだ。光は静かに脈動し、粒子となって天音の全身を滑り落ちていく。制服が、まるで霧のようにほどけ、代わりに現れたのは――純白と蒼を基調とした、神聖な霊衣だった。
それは透き通る白銀のロングドレス。
裾と袖には夜空の星を思わせる細やかな刺繍がきらめいている。背中には光の羽根のような意匠が浮かび、足元には白銀の編み上げブーツが静かに揃う。全体は華美ではない。それでもどこか――神の意志を代行する天使のような荘厳さを湛えていた。
だが、変化はそれだけでは終わらなかった。
柔らかな茶髪は、光の粒にほどけながら雪のような純白へと染まり、空気のないはずの場所でふわりと舞い上がる。瞳もまた、かつての色を手放し、蒼と白の狭間で揺れるような光をその奥底に宿す。
まるで、空そのものを映したような眼差し――それは、もはや人間のものではなかった。
彼女は変わった。
白鷺天音ではなく、虚空の魔女として――この世界に、いま確かに“目覚めた”のだ。
「……霊衣かッ!」
アストラは即座に雷を放ったが、そのすべてが天音の前で曲がり、逸れていく。
「チッ、いいぜ……もう一度殺ってやる!」
雷の魔女が吠え、槍を構える。
だが、天音は静かに言い放つ。
「悪いけど、あなたに負けるわけにはいかない。それに、そもそも――負けるとも思っていない」
「……は?」
「あなた、ずっと行動がブレている。最初からそうだった。朱璃さんと“ゆっくり戦いたい”って言ってたけど、最初に狙ったのは私でしょう?」
「…………」
「朱璃さんが庇うって、最初から予想してたんじゃない? それに、セラフィナに従ってる理由も……本当は、迷ってるんじゃない?」
「……テメェ……殺す」
「図星? 悪いけど、殺されてなんかあげない」
天音は手を翳した。
「何度やっても同じだ。テメェの遅い弾なんか、当たらねぇんだよ!」
(――そうだ。虚空の弾じゃ当たらない。だから……考えろ。あいつに勝つ方法を)
先ほど謎の女性と話してから、天音の魔女としての力は飛躍的に高まっていた。そして、まだ知らぬ魔法さえも扱える――そんな直感があった。
だが、それは“自分の力”ではない。だからこそ、私は――私自身の力で戦う。
それが、私の“エゴ”。理由なんていらない。私がそうしたいから、ただそれだけ。
(イメージ……イメージが大切)
朱璃の言葉を思い出し、天音は虚空の塊を生み出す。それを薄く、鋭く、平たく成形していく。
出来上がったのは――空間の刃だった。
「――断って!」
刃が空間を切り裂き、アストラへと迫る。
「なっ……!?」
ギリギリで回避したアストラの頬に、わずかに赤い筋が走る。
「当たった……! もう一度!」
天音は再び空間の刃を生成する。今度は、より鋭く、より広く。
「舐めるな!」
アストラが神速で突進する。あの速度では捉えられない――ならば、数を増やす。
天音は空間の刃を三枚、五枚、そして十三枚へと展開。一斉に撃ち放つ。
「―――!」
アストラは神憑った動きで、すべてを避けきった。
(それでも……当たらない!? なら――!)
次のイメージは、虚空の塊を無数の小弾へと分裂させることだった。
散弾となった虚空の弾が雨のように降り注ぐ。
アストラは高速移動でかわし、どうしても避けきれない弾は槍で受け流す。かすり傷は与えても、致命打にはならない。
(あの人……強い。でも、私も――!)
再び虚空の弾丸を展開し、撃ち込む。
しかし、先ほどと同じで致命打は与えられない。
やがて、天音の弾は尽きる。
「いいぜ……今度はこっちの番だ。全力でいくぞ」
アストラの槍に、禍々しい雷の気配が宿る。
(この一撃は……小細工じゃ通じない)
ならば、全力で迎え撃つ――。
「―――!」
アストラが神速で迫る。
槍が、天音の心臓を貫こうとした――その瞬間。
天音は、目の前に虚空を形成していた。
槍は止まらない。だが、虚空は数百メートルの距離を圧縮しているため、天音の心臓にはすぐには届かない。
そして天音は、寸前で虚空を再生成し続け、無限の障壁を築いていく。
「貫け―――!」
「守れ―――!」
ふたりの魔女が、それぞれの魔法をぶつけ合う。
虚空の形成が追いつかなくなり、ついにアストラの雷槍が天音の防壁を突き破る。
その余波で天音の身体が吹き飛ばされた。
「くっ……!」
「驚いたぜ。オレのこの一撃を防ぐ奴なんて、初めて見た」
アストラは満足げに笑い、続ける。
「認めてやる、お前は強い。だが――オレの方が、強い。これで終わりだ」
「何を……勝負は、まだ―――」
天音が言いかけたその瞬間、世界が――揺らいだ。
「跪け。我が雷霆に―――魔界構築《雷獄宙園》」
アストラが詠唱を終えた瞬間、世界が変貌した。
天音の目の前に広がるのは、黒く渦巻く雷雲の只中。現実の景色は霧散し、果てのない空中――足場すらないはずの空間なのに、彼女たちはなぜか立っていられた。
「これは……?」
「……“魔界”よ」
膝をついたまま、朱璃が答える。
「朱璃さん……! 目が覚めたんですか!?」
「なんとかね。聞きたいことは山ほどあるけど、それは後。これは“魔界”……魔女が魔女たる所以。世界を、自身の属性で塗り潰す極大魔法。……もはや奇跡の領域よ」
雷雲が唸り、稲妻が天音たちを貫こうとするが、天音の空間魔法が雷をねじ曲げ、進路を逸らした。
「今のところは何とかなるけど……ずっとは持たないかも。どうすれば……」
「対処法は一つしかないわ。同じ“魔界”をぶつけるしかない。だから魔術師――人間じゃ、絶対に魔女には勝てない。魔界での魔女は、ほとんど神よ」
「魔界……」
――きっと、作れる気はする。あの“白い世界”を視てから、自分の中には本来の自分じゃない“何か”があると感じていた。それを使えばこの状況を覆せるかもしれない。
でも、それは白鷺天音の力じゃない。
(けど――覚悟を決めるしかない。このままじゃ……朱璃さんと、私、どっちも死ぬ)
その結果、自分じゃない自分になったとしても、最優先は二人で生きて帰ることだ。
ならば―――
「呑まれろ。我が虚――」
詠唱を始めようとしたその時、天音の背筋にひやりとした感覚が走る。
「……これは……まさか……」
胸の奥でざわつくその違和感の正体に気づき、天音は急ぎ朱璃に駆け寄り、耳元で囁いた。
「朱璃さん……――――――――」
朱璃は一瞬、目を見開く。
「……わかった。でも、あなた……それじゃ……」
「大丈夫。きっと、なんとかなる。いや、してみせる!」
天音は微笑み、確信に満ちた瞳でそう答える。
「……任せたわ」
その表情と言葉を朱璃はただ信じることにした。
再び天音はアストラと対峙する。先ほどの違和感――それは、かつて何度も感じたものだった。
("空間の揺らぎ”……。あの異界とは違う。あれは“扉”を作ることしかできなかった。けど今は違う――)
魔界。それは魔女が作り出した“偽りの世界”。すなわち、“虚空”。
ならば、そこは――
「虚空の魔女の領域だ」
その言葉と共に、天音の足元から亀裂が走る。世界にヒビが入った。
しかし、それはアストラの圧倒的なオドによって即座に縫い直される。
「てめぇ……オレの魔界を崩すつもりか!? させるかよ……!」
ひび割れが修復されるたびに、天音はさらなる歪みをぶつける。次第に修復の速度が追いつかなくなり、魔界はじわじわと侵食され始める。
「チッ……魔界の修復は切り捨てる! 全リソースをお前一人に集中だ!」
アストラが怒声と共に、天音へ雷撃の雨を降らせる。
「くっ……!」
空間を歪め、弾道を逸らし続けるが、限界は近かった。
(ダメ……このままじゃ魔界を壊す前に、私がやられる……)
世界を崩すイメージを探る。けれど、破壊できるのはせいぜい歪みまで。最後の一手が、ない――!
その瞬間。
頭の中に、ふと**“形”**が浮かぶ。
その違和感を、逃がさない。
イメージしろ。形を成せ。重ねろ。幻想を、現実と。
その“影”に、手を伸ばす。
――次の瞬間。
それは現実に、現れた。
天音の手に握られていたのは、透明な、無色の剣。
虚空の魔女の霊装――その名も知らぬ、透き通った剣。
何の素材で、どんな力を持つのか。それは分からない。ただ、確かに“これ”だと分かる。
天音は剣を構える。吸い込まれるように、腕が自然に動く。
そして――一閃。
――ザンッ。
世界が、裂けた。
まるで絹を割くように、音もなく。
たった一振りで、アストラの“世界”は崩壊した。