第一話 『終わる日常』
「――君は、何のために戦うんだ?」
その問いが、ほんの少し前まで、
ただの女子高生だった私――
白鷺天音に向けられたものだなんて。
――誰が、信じるだろう。
「いや、そもそも君は、なぜ“世界のために”戦おうとした?」
世界のために戦う理由。
命を懸けてまで、その選択をする動機。
私は――考え抜いた末に、答えを口にする。
「―――――――――――」
これは、平凡だった私が“世界を救う”物語。
だけど――本質はそこじゃない。
これは、私が「なぜ戦うのか」「どう生きるのか」を選び取る物語。
私という一人の魔女が、自分の意志で命を賭けて戦うための――
最初の、問いかけ。
***
白鷺天音の“日常の終わり”は、何の変哲もない登校中――静かに訪れた。
その事実に、私はまだ気づいてすらいなかった。
朝。通学路に吹く風は、梅雨らしい湿気をまといながらも、どこか優しく感じられた。
天音は、肩に掛けたカバンを少し持ち上げるようにして、ゆるやかな坂道を登っていく。
「今日も平和だといいなぁ……」
そんな独り言を呟く彼女は、どこにでもいるような、目立たない女子高生だった。
クセのない茶色のセミロングヘア。ややくすんだ瞳の色。名前を呼ばれてもすぐに思い出されないような、地味な存在。けれどその中に、本人すら気づいていない、微かな“異質さ”が確かに宿っていた。
坂の上に、赤レンガの校舎と開かれた校門が見えてくる。彼女の通う進学校は、都内でもやや格式高いとされる学校だったが、制服のデザインは意外と可愛いと評判だ。
天音はスカートの揺れを気にしながら、足を進めた。
そして、その“いつも通り”の風景のなかに――唐突に、異物が現れた。
「君は空間の揺らぎを感じたことはあるか?」
その声に、天音はぴたりと足を止めた。
声の主であるその女は、まるでこの世の者ではないような佇まいだった。白――ただ白。けれど、雪の白でも雲の白でもなく、“意味のない白”だった。衣は滑らかに垂れ、縫い目ひとつない純白の一枚布でできているように見える。顔は美しい。しかし不自然に整っていて、まるで人形のようだった。銀白の髪が風に流れず、ただ空間に浮かんでいる。目の色は――いや、色などなかった。ただ虚空。見つめた者の心が吸い込まれてしまいそうなほど、深く、冷たく。
「えっ……?」
唐突すぎる言葉に、声も出ない。
「君は選ばれたのだ。世界の歪みを、縫い直す者として――」
意味を理解する暇もなく、その女性はふっと空気に溶けるように、姿を消した。
「……何だったの、今の……?」
奇妙な余韻を残していたが、時計を見た天音は青ざめた。
「ヤバ、遅刻するっ!」
そして彼女は、慌てて坂を駆け上がった。
***
「ぎ、ギリギリセーフ!」
教室のドアをくぐった瞬間、チャイムが鳴った。わずか数秒差での滑り込み。天音は胸を撫で下ろしながら、自分の席へ向かう。
「天音ーっ! おはよー! 今日もギリギリだったね〜」
声をかけてきたのは、隣の席のゆい。明るくて人懐っこい、クラスのムードメーカーだ。揺れるポニーテールが、彼女の元気さを象徴している。
「あ、ゆい。おはよう」
「っていうか、なにしてたの? また寝坊?」
「んー……いや、駅前でちょっと変な人に声かけられてさ」
天音が曖昧に答えると、ゆいの顔が一瞬で引き締まる。
「え、それ完全に不審者じゃん……怖っ! 警察に言わなきゃだよ、それ」
「うーん、怖いっていうより……不思議な感じだったの。変な夢を見たみたいな……」
天音は、あの銀髪の女と、あの言葉を思い出していた。
(あの言葉……どういう意味だったんだろう)
「ふーん……まあ、変な夢だったってことで。あ、そういえばさ、今日って英語の小テストあるの知ってる?」
「え、うそ。聞いてない……!」
「マジで? 先生ちゃんと言ってたよ〜。ほら、ノート見せたげる!」
「女神……!」
二人の笑い声が、教室に響いた。
こうして、“いつもの日常”は、何事もなかったように始まっていく――ように見えた。
***
体育の時間。
天音はグラウンドの端に立ち、ぼんやりと空を見上げていた。
(……空間のゆらぎ、か)
朝の出来事を思い返す。
あの女性の言葉――「空間の揺らぎ」「選ばれた者」。
まるで現実とは思えないのに、不思議と心に引っかかっている。
そして、思い出す。
小さい頃から、ときどき感じていたあの“違和感”。誰にも伝わらない、説明もできない“ズレ”。視界が一瞬だけ歪むような感覚。音が微妙に遅れて聞こえること。時間がどこか、にじんだように流れること。
(……やっぱり、あれって気のせいじゃなかったのかな)
その瞬間――
「危ないっ!」
誰かの叫び声と同時に、サッカーボールが天音の顔めがけて飛んできた。
反射的に目を閉じた次の瞬間。
空気がふわりと揺れる感覚とともに、世界が“ずれた”。
天音が再び目を開けると、彼女は――
いつのまにか、ボールが不自然な軌道を描き天音の頬のすぐ隣を通り過ぎて行った。
「……え?」
自分でも、何が起きたのかわからない。
「今、すごい角度で曲がっていったけど……?」
クラスメイトの一人が天音のことを不思議に見つめる。
(私……本当に、“何か”したの?)
天音の胸に、不安と確信が入り混じった思いが、じわりと広がっていく。
***
午後の授業が終わると、チャイムと同時に生徒たちは教室を飛び出していった。
その喧噪も徐々に廊下の奥へと遠ざかっていく。
天音は席に残り、ノートをカバンにしまいながら、ふと窓の外に目を向けた。
夕陽が校舎を橙色に染めている。
どこかで部活動の掛け声が響いているはずなのに、彼女にはそれが遠く感じられた。
「天音、部活決まったの?」
背後から声がかかる。振り返ると、そこにはゆいが立っていた。
「まだ決まってないんだよね。今日も見学に行くかも」
「そっかー!早く決めたほうがいいよ~。じゃあ、私はバレー部行ってくるね!また明日!」
ゆいはいつも通り明るく手を振り、教室を出ていった。
再び静けさが戻った教室。天音はカバンを肩にかけ、ふと思いついたように教室を出た。
(今日はどの部活を見ようかな……)
気分に身を任せて、彼女は校舎の裏手へと足を向ける。
そこは滅多に人が来ない、古びた渡り廊下。まるで時間が止まったかのような、乾いた静寂が漂っていた。
風が吹き抜ける。
その瞬間、背中に冷たい“ぞわり”とした感覚が走った。
「……誰か、いるの?」
呼びかけるが返事はない。ただ、風だけが通り過ぎていった。
だが――そのときだった。
「白鷺天音さん、ですね」
静かだがよく通る声が背後から届いた。
振り返ると、そこに立っていたのは――
黒髪の少女、クラスメイトの神代朱璃だった。