第91話 咎と赦の交差点
(エンド、どこにいるの?)
セレナは静かに息を整え、手元の報告書を広げた。
複数の目撃証言、破壊された“魔王”の根拠地、そして――消えた仮面の男の足取り。
「……このルートと照合すると、辿り着く先は……」
目を細め、地図上の一点を指先でなぞる。
(ここは――)
**
そこは、ルーマニア。
トランシルヴァニア地方――
霧と森に覆われた、“古き夜”が眠る地。
セレナの足元には、長く伸びる古道が続いていた。
舗装もまばらな石畳。両脇には鬱蒼とした針葉樹が並び、朝日すらも枝葉に遮られて届かない。
(……息が、冷たい)
高地に吹く風は肌を刺すほど冷たく、どこか“生き物の気配”を拒むような空気を纏っていた。
周囲は沈黙に包まれ、鳥の声も獣の足音もない。
あるのは、風に揺れる枝の軋む音と、自身の心臓の鼓動だけ――
道の先には、時代に取り残されたような村の残骸があった。
崩れかけた屋根、ひび割れた煉瓦、そして祈りを捧げる者が絶えて久しい石造りの礼拝堂。
(まるで……時間そのものが、止まっているみたい)
その礼拝堂の奥に、さらに“古いもの”の気配があった。
――城。
霧の向こうに、ゆっくりと姿を現す。
黒い尖塔が幾重にも重なり合い、天空を睨みつけるようにそびえる白亜の古城。
だが、かつての栄光は失われ、壁には血に似た苔が這い、塔の一部は崩れ落ちていた。
そして我々の現実世界では吸血鬼伝説の発祥の地と言われている……
(ここに……いるのね)
セレナは、鞘に手をかける。
その手には、微かな震えが宿っていた。
(本当に、ここで――あなたと“再会”するの?)
彼女の胸に蘇るのは、夜を歩いた記憶。
共に見上げた星、共に交わした祈り、そして――すれ違ってしまった想い。
風が、彼女の銀髪をふわりと揺らした。
(私の剣は……あなたを斬るためじゃない)
(“その孤独”を、終わらせるために――)
セレナの瞳が、夜の城をまっすぐに捉える。
それは、“聖なる光”ではなかった。
ただひとりの少女として。
“あの人”を見つけるための、祈りと決意を込めた――真っ直ぐな眼差しだった。
「……次だ。行くぞ」
エンドは無造作に魔王の首を掴み、鈍い音と共に地面へと放り投げた。
その言葉は、勝利の歓声でもなければ、疲弊した仲間への労いでもなかった。
ただ“終わり”を告げ、“次の終わり”を迎えに行く者の声音だった。
だが――その瞬間。
「煌滅!」
天から放たれた閃光が、大地を裂いた。
眩い白光がエンドの目の前に落ちる。
地を走る聖なる輝きが、まるで“結界”のように彼の進行を阻んだ。
その線は、静かに語る――
“これ以上は進ませない”
エンドが目を細めた先に立っていたのは、かつて隣を歩いた少女だった。
銀の髪をなびかせ、白き騎士装を纏い、剣を手にしたその姿は、まるで“審判”そのもののようで――
けれど、揺れる瞳には、確かに“哀しみ”があった。
「……エンド。久しぶりね」
その声音は優しくて、切なくて、そして――
強かった。
エンドはほんの僅かだけまぶたを閉じた。
「……セレナ」
「……貴方、どうして……どうして私の前に、姿を現してくれなかったの?」
その問いは、怒りでも責めでもない。
ただ、涙を堪えて絞り出すような、沈黙への悲鳴だった。
エンドは静かに答えた。
「独りになるのが――俺の強さだからだ」
その言葉に、セレナはひとつ息を吐いた。
そして、剣をゆっくりと構える。
その刃は、殺意ではなく“祈り”を帯びていた。
「そう……じゃあ私は、その“孤独”を、断ち切ってあげる」
刃の切っ先が、まっすぐにエンドを指す。
それは、“救い”の証。
一方、エンドは無言のまま、仮面を手に取り、顔を覆う。
それは、“孤独”の象徴。
すべてを拒絶し、すべてを背負う者の、覚悟の証。
「お前らは――手を出すなよ」
振り返ることなく、ルアン、ネム、ノイにだけ低く告げる。
その声音に、迷いも躊躇もなかった。
(これは、俺たち二人だけの戦いだ)
セレナと向き合いながら、エンドは二本の刃を抜く。
罰と赦――
左右の手に、それぞれの“咎”と“赦し”を宿す刃が現れる。
その身に、矛盾と決意を宿した者の構え。
そして――火蓋は、静かに切って落とされた。
**
一陣の風が吹いたかと思うと、二人の剣がぶつかり合った。
キィン――!
鋼がぶつかる、乾いた音が戦場の静寂を切り裂く。
「……貴方は、忘れてるようね」
セレナの瞳に怒りが灯る。
その刃が、横一文字に薙がれた。
「芳村さんも……カナオも……私たちが一緒にいた時間も全部!」
エンドは身を引き、間一髪で避ける。
すかさず手をかざし、血を弾丸に変える。
バシュッ!
紅の血弾が飛び、空を切った。
「俺は……」
その声には、苦しみとも諦めともつかない、何かが混じっていた。
「……俺のために、すべてを――忘れる」
その一言が、セレナの胸を鋭く貫いた。
それは、“守るために全てを捨てる者”の宣言。
キィン――ッ!
鋼と鋼が火花を散らす。
夜の空気が裂けるたびに、二人の想いがぶつかり合っていた。
「じゃあ、私は――私のために、貴方を救う」
セレナの声が鋭く響く。
刃を押し込むように踏み込むその一撃には、ただの戦意ではなく“想い”が宿っていた。
「もう戻れねぇよ……」
低く、静かな声が返る。
「俺の手は……あの日からずっと、孤独でしか染まらねぇ」
エンドの刃がセレナの剣を受け流し、同時に左の刃が弧を描いて返す。
だがセレナはそれを読み切っていた。地を滑るように身を沈め、間合いを潰す。
「だったら――その孤独に、私が手を伸ばす。何度だって」
“カンッ!”
音が弾け、互いの刃が一瞬だけ跳ね返された。
だが、すぐにまたぶつかる。
「“赦し”なんて……もういらねぇよ」
エンドが呟くように言い、右手の“赦”を斜めに薙ぐ。
セレナはそれを受け止めながら、涙に濡れた瞳を逸らさなかった。
「じゃあ、“罰”でも構わない」
「あなたを――ひとりには、させない」
キン――!
剣戟が交差し、火花が散った次の瞬間。
セレナの左腕に、薄く赤い線が走った。
「っ――」
痛みより先に、あたたかな感触が袖を濡らす。
(……斬られた)
エンドの“咎”の刃が、彼女の意志を越えて肉に触れた。
けれど、セレナの足は止まらない。
「……それでも、私は止まらない!」
鋭い突き。斬撃。蹴り。そして、また斬撃。
セレナの踏み込みが鋭くなり、刃が一閃。
キィン――!
エンドが“赦”で受けたが、切っ先はわずかに軌道を逸れ、彼の脇腹を掠めた。
「っ……」
仮面の奥で、息が一つ詰まる。
黒い装束の腹部に、紅がにじむ。
それでも仮面の男は、一歩も引かなかった。
まるで会話の続きを刃で交わすかのように。
それはもはや“闘い”ではなく、“対話”だった。
息が絡み、汗が滲む。
「どうしても、俺に手を伸ばすってのかよ……」
仮面の奥、かすかに声が揺れた。
セレナの目は真っ直ぐに見つめ返す。
「貴方がその手を離すまで、私は――絶対に、掴み続ける」
そして、二人は再び――剣を交える。
キンッ――!
その音は、まるで願いと願いが、ぶつかり合った音だった。
「――血の五月雨」
空が染まる。
紫がかった黒雲の裂け目から、赤――否、“血”が降り始める。
粘性を帯びた液体は、雨粒というには重すぎた。
斬撃の意志を宿し、天より落ちてくるその紅は、殺意そのものだった。
セレナの上空に、それが迫る。
しかし――
「煌滅・連華!」
セレナが天へ向けて剣を掲げると、次の瞬間――
彼女の身体が“光”へと変わった。
その身を覆うように、まばゆい花弁の光が咲き誇る。
蓮のように、純白の意志が宙に解き放たれ、血の雨をまるで“弾くように”舞い散らせた。
光の舞が、夜を照らす。
「煌滅!」
その中心から放たれた光の奔流――
意志を込めた破邪の閃光が、エンドに向かって一直線に走る。
「……紅の裁断」
エンドの声は低く、静かだった。
己の血を圧縮し、刃のように繋げる。
それは、まるで“血の壁”だった。
二つの意志が、交差する。
バンッ――!
光と血が激突する。
一瞬、世界が白くなった。
それは光でも、闇でもなく――ただ、“想い”の衝突による閃光。
そして、次の瞬間にはすべてが沈黙していた。
光と血の一撃が空で弾け飛ぶ。
爆ぜた破片のような余波が二人を打ち、セレナの頬に、エンドの腕に、浅い傷が刻まれる。
互いに放った技は、拮抗の末に相殺された。
空から落ちてくるのは、残滓となった血のしずく。
赤い滴が、静かに、無言のまま降り注ぐ。
ボタ……ボタ……
互いの身体に、その“紅”が落ちる。
肩に、髪に、頬に――
まるで、互いが互いを“汚してしまう”ことへの罪悪を、形にしたかのように。
沈黙の中、セレナとエンドの視線が交錯した。
その瞳には、どちらにも言葉にできない――痛みと優しさが、宿っていた。
「エンド、貴方――自分で言ったじゃない」
セレナの声が震える。
剣を握る手に力がこもる。
「“人”は、ひとりじゃ生きていけないって……!」
風が唸る。
夜の静寂を裂くように、セレナは叫んだ。
だが。
「そうだよ……」
エンドが低く呟く。
「……だけど俺は、“人”じゃない。
吸血鬼だ!」
その瞬間、仮面の奥の声が剥き出しになる。
痛みと憎しみと、そして何より――絶望を滲ませながら。
「俺のせいで……世界が混乱してるんだ。
罪のない人たちが傷ついて、倒れて、泣いてる」
足元に広がる血と破壊の風景が、それを証明していた。
「だったら――!」
エンドの声が、鋼のように硬く響いた。
「だったら俺が……全部、背負わなきゃいけねぇんだ!!
俺以外の誰にも、こんな汚れを背負わせていいわけがない!」
振り上げた剣に、血の雫が滲む。
「だから、俺は……」
「……私が一緒に背負う!」
セレナが、かき消すように叫んだ。
「私じゃ、ダメなの!? エンド!!」
踏み込む。
手を伸ばす。
届かないとわかっていても、それでも。
エンドは静かに、首を横に振った。
「ダメなんだよ、セレナ……」
その声は、ひどく優しかった。
まるで、手を振り払うためじゃなく――自分自身を守るために、そう言い聞かせるような声だった。
「俺が、もう一度お前を巻き込んだら――」
「今度こそ、俺はお前を……壊してしまう」
剣を交えながらも、その言葉の刃のほうが深く胸を裂いた。
セレナは、唇を噛んだ。
(そんなこと――ないのに)
(私は、エンドと一緒にいたいだけなのに)
だが、エンドは――
優しさ故に、すべてを拒絶していた。
自分だけが傷つき、
自分だけが壊れればいいと、そう思っていた。
だからこそ、セレナは剣を構え直す。
(私は、絶対に負けない)
(あなたの孤独に――負けない)
血と光の交差する中で、ふたりの想いはなお、ぶつかり続けていた。
セレナの剣が再び振るわれる。
それにエンドの“咎”が応じ――
“カンッ”と鋭い音が響いた直後、
セレナの額に、一筋の血が垂れた。
「っ……」
それでも彼女は、構えを崩さなかった。




