第87話 ひとりにしない
エリシアの体が崩れ落ちたあの瞬間――
世界から“音”が消えた気がした。
ノイは動けなかった。
膝が震えて、ただその場に立ち尽くしていた。
視線の先にあるのは――
“母だったもの”。
けれどそこには、もう“母親”の気配はなかった。
あったのは、ただ一人の吸血鬼としての“敵”。
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(僕は……今、本当に……母さんを……)
喉の奥が焼けるように熱い。
息が詰まりそうだ。
目の奥が痛むのは、戦いの疲れのせいじゃない。
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「ノイ……」
エンドの声が、背中越しに届く。
けれど、ノイは振り向けなかった。
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(あの人は、僕を“子供”として見ていなかった)
(でも、僕は……あの人を、“母”として見てた)
たとえ言葉が冷たくても。
たとえ心が離れていても。
ほんの少し、どこかに、“あの人が戻ってくる可能性”を――
“母親に戻ってくれる可能性”を、信じていた自分がいた。
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「……バカだな、僕……」
声にならない声が、喉で崩れる。
歯を食いしばって、泣くまいとする。
でも、肩が震えていた。
剣を振るったのは自分だ。
引き金を引いたのは、自分だ。
赦されることのない選択を、自ら下した。
それでも――
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「母さん……ありがとうなんて……言わないよ」
「でも、さよならは……言わせて」
「さようなら、“僕の母さん”」
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空を仰ぐ。
夜の闇はどこまでも深く、静かだった。
けれど、ノイの中ではずっと、血の記憶が燃え続けていた。
――それは、少年が“ヒーロー”へと進むために背負った、
最初の“喪失”だった
セレナがドイツ・バイエルンの森に到着したのは、すでに“戦いの終焉”を迎えた数時間後のことだった。
ノイシュヴァンシュタイン城の尖塔には、まだ薄く煙が残っていた。
地面は抉れ、魔力の余韻がうっすらと漂っている。
だがそこに、“主”の気配はなかった。
「……遅かったか」
セレナは、ひとり呟いた。
足元に崩れた石の上には、乾きかけた鮮血の跡。
壁に刺さったままの赤黒い剣の欠片。
そして――
「これは、“血剣”……?」
その形状に見覚えがあった。
“赦し”とも“咎”とも違う――第三の刃、“決”に酷似した残滓。
彼の力。
彼の気配。
彼の戦いの痕跡。
セレナは息を呑む。
(……先を越された)
「子爵級吸血鬼――それも、単独で?」
その難易度は、騎士団の中でも最上級に位置する討伐任務。
それを誰が、どうやって……?
(……そんなこと、できる人間は限られている)
(まさか、エンド……)
(あなた、本当に――生きてたの?)
胸の奥で何かが強く揺れた。
生きていてほしいと願いながらも、もし生きているのなら、なぜ自分の前に現れてくれないのか。
すれ違いの記憶が疼く。
そのとき、部下の騎士が駆け寄ってきた。
「セレナ様、現地では民間人の避難が完了しております。付近の証言者情報もヴァチカン本部に集約されています」
「……分かった。1度戻るわ」
そう告げて彼女は振り返る。
その瞳は、どこか遠く――夜を仰ぐような色をしていた。
**
ヴァチカン本部・中央記録室。
冷たい光の差し込む閲覧室で、セレナは一人、魔王討伐地の記録ファイルをめくっていた。
数々の報告書の中に、ひときわ異質な“証言”が残されていた。
民間人の目撃談。
それは、ノイシュヴァンシュタインの近隣村の少女の言葉だった。
『仮面の男が、崩れる城の中から出てきて……誰にも気づかれないように歩いてたんです』
『私、怖くて声かけられなかったけど――でも、あの人はこう言ってた』
『“赦されなくても、俺は進む”って』
その一文を見た瞬間――
セレナの指が止まった。
そして、震えた。
手にしていた書類がわずかに揺れ、思わず胸元に抱きしめてしまう。
心臓が、音を立てて跳ねた。
「……あなた、なのね」
(どうして……)
(どうして、私の前に現れてくれないの?)
セレナは、静まり返った記録室の中で、胸元に抱えた報告書を見つめていた。
そこに綴られていた言葉――「赦されなくても、俺は進む」。
それはまるで、彼の“決意”が言葉になったようなものだった。
(私が……怖かった?)
(それとも、私がもう“光”の側にいるから?)
彼女の瞳が伏せられる。長い睫毛が、震えるように影を落とした。
(でも、違う……)
(貴方は、きっと――)
指が、そっと胸元を押さえる。
(……きっと、“私に被害が及ばないように”って、それだけの理由で)
(だから、一人で全部背負って)
(だから、私を巻き込まないように、何も言わずに――)
「……バカ」
唇から零れた言葉は、怒りではなく、哀しみに近かった。
(そんなの、誰も幸せにならないのに)
(私が、どれだけ貴方のことを想っていたかなんて――気づいてないんだ)
(一緒にいたかった。側にいたかった。たとえ夜の中でも、私は……)
(“一人にしない”って、誓ったのに)
再び彼の言葉が、胸の奥に蘇る。
『赦されなくても、俺は進む』
その“覚悟”が、どれほど痛みに満ちていたのか。
どれほど孤独に満ちていたのか。
それがわかってしまうからこそ、セレナの心は軋んだ。
「……そんな理由で、私から離れたのなら――」
小さく息を呑む。
「……貴方の優しさは、誰よりも残酷だわ」
静かに、机の上に書類を置いた。
まるで何かに別れを告げるように。
だが――それでも、彼女の中で“消えない想い”があった。
(私が、貴方を見つける)
(そして今度こそ、もう二度と、ひとりにさせない)
(――たとえ、赦されなくても)
その瞳は、決意の光を宿していた。
それは“聖騎士”のものではなく――ただ、一人の少女としての“祈り”だった。
彼の“夜”に、必ず辿り着くために
――そして、“赦されぬ者たち”は、それぞれの祈りを胸に、再び歩き出す。




