表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《エンド : 夜を継ぐ者 ― 孤独と赦しの果てに》  作者: you
Chapter V: Throne of the Forsaken
87/105

第85話 紅の軛

「ノイ、覚悟を決めろ!じゃないと――殺されるぞ!!」


 エンドの叫びが、砕けた石畳に反響した。


 ノイの足が止まっていた。

 というより、震えていた。

 膝が笑い、脚の裏がぴたりと地面に貼りついたように動かない。


 目の前には、母――エリシアがいた。


 その女は微笑んでいた。

 だが、それは慈しみの微笑ではない。むしろ、最も冷たい死を予告するもの。


「もう、始まってるわよ。戦いは」


 彼女の血剣ブラッドブレイドがしなるたび、空気が悲鳴を上げた。


「――チッ!」


 ルアンが吠えるように前に出る。

 その拳が地を抉り、エリシアに肉薄した。


「うぬぼれた貴族女がッ!!」


 が、彼女の鞭が一閃。


 ルアンの攻撃が届く寸前に、紅の鞭が風を断ち、鋭く巻きつく。

 瞬間、彼の身体が跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられる。


「ぐっ……!」


「力だけの男……退屈ね」


 彼女は一歩も動いていなかった。

 ただ、鞭を振っただけ。


 その精密さ、圧倒的な間合いの制圧。


「ネム、援護!」


「分かってるっての……!」


 ネムが指をなぞるように空を払う。

 霧が舞い、毒が流れる。異様な紫の瘴気がゆっくりとエリシアを包もうとしたその瞬間――


「効かないわよ、そんな“子供だまし”」


 紅が疾走した。


 ネムの霧が、次の瞬間には斬られていた。

 そして彼女自身も、髪を裂かれる寸前で跳び退く。


「はえぇ……!」


 汗が頬を伝う。

 ネムほどの速度を持ってしても、あの女の“間合い”は侵せなかった。


「ノイ、援護を――!」


 ネムが振り返った。だがその声が、虚空を切る。


 ノイは……立ち尽くしていた。


「ノイ!!」


「こっちを見ろ!」


 彼の視界は歪んでいた。

 耳鳴りがする。心臓の音ばかりが異様に大きく響く。


(母さんが……戦ってる)


 ノイの右目がわずかに発光していた。

 無意識に発動した防御本能だ。

 それすら制御できないほど――彼は、恐怖に呑まれていた。


(怖い)


(怖い)


(母さんは俺を……殺そうとしてる)


 その事実が、彼を押し潰していた。


「ノイ、逃げろ!!」


 今度はエンドの声だった。

 だが、反応はない。


 紅い鞭が一閃。音すらなく空気を切り裂いた。


 その瞬間――


 エンドが“決”を抜いた。


「影を裂け」


 一歩でノイの前に立つ。

 紅と黒がぶつかり、凄まじい風圧がその場を飲み込んだ。


「ノイ、お前の母は……もう、“敵”だ」


「敵なら……俺が斬る」


 その背に、確かに“覚悟”があった。


 そしてノイは、見てしまった。


 自分のために、血を流すその背中を。


“ヒーロー”の姿を。


 ――だけど。


(……僕には、無理だ)


(母さんを――殺すなんて)


 自分の両手が震えていた。


 刃を握ることさえ、できなかった。




「ネム、もう一度、霧だ!」


 エンドの指示が飛ぶと、ネムは唇を吊り上げるように微笑み、すぐさま指先をなぞる。


「はいはい、こっちは仕事人よ。濃いの出してあげる」


 彼女が腕を払った瞬間、紫の霧が再び舞い上がる。さっきよりも粘性が高く、視界を完全に閉ざす濃霧――その中に、毒が混ざり、気を吸うだけで意識が曇る。


「――血の五月雨ブラッドレイン


 エンドの低い声がその霧の中に響く。


 次の瞬間、紅が落ちる。


 音もなく空から降る、血の針。


 無数の細い紅が、紫の霧に混ざり、空間そのものを染め上げていく。


「くっ……!」


 エリシアの吐息が、僅かに乱れる。


「……なかなか、面白い使い方をするのね」


 鞭で空を薙いで血の雨を払おうとするが、数発は確実に肉を穿っていた。

 ローブの裾が裂け、肩口から赤が滲む。


(……通った)


 わずかにその美貌が歪んだ。


 ――その一瞬の隙。


「ぅおおおおおッ!!」


 霧を突き破るように、ルアンが飛び出す。


 血を滾らせ、人狼の力を全身に宿したその姿は、まるで戦闘そのものを具現化したようだった。


 右腕が肥大化し、爪が黒光りする。

 その一撃を、エリシアの背中目掛けて――


「っち!」


 エリシアが咄嗟に鞭を背後へ薙ぐ。


 だが――


けつ


 影の中から、もう一振りの刃が割り込んだ。


“咎”と“赦し”では届かない軌道に、エンドが“決”を交差させ、鞭の軌道を殺す。


「させない」


 その声と同時に、ルアンの拳が、エリシアの背に深く突き刺さった。


「がっ……!」


 エリシアの体が仰け反る。

 口元に赤が滲み、僅かに動きが鈍る。


「おいおい、貴族様、背中が甘いんじゃねえか?」


「……ッ、鬱陶しいわね――連携が」


 エリシアがにやりと笑う。痛みの中に、まだ余裕を含んだ表情。


「なら、もう少しだけ“力”を使ってもいいわよ」


 彼女の指先が、静かに空を描く。


 すると、血剣ブラッドブレイドが霧の中に消えたかと思うと――


 ズルリ。


 その腕から、もう一本の血鞭が現れる。


 先ほどよりも細く、だが異常に鋭く、まるで蛇のようにくねりながら宙を泳ぐ。


「両手に、二本の鞭――」


「さぁ、“夜の王”……これでも貴方の部下が守れるのかしら?」


 その一言で空気が引き締まる。


 エリシアは構えた。


 左手の鞭が、制圧用。

 右手の鞭が、斬首用。


 攻めも守りも、同時に成立させる“血の舞踏”。


「まだまだ“舞踏会”は始まったばかりよ?」


 双鞭の軌跡は、まるで血で描いた薔薇の螺旋――だが、触れれば棘の罰が待つ


 彼女の紅い瞳が、微笑むように光った。


 ――ノイはまだ、立ち尽くしていた。


(……前にも、あった。あの夜……母の鞭が僕を躾けた“あの瞬間”……)


(「優しさは甘やかし。弱さは罪」と、そう言われて……)


 母の背中を、ただ見つめたまま。


(母さんは……本当に、僕たちを……)


 その足元には、微かに血の雫が垂れていた

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ