第84話 城に棲むもの
エンドたちは、ドイツの深き森にいた。
無論、目的は魔王の討伐――その名を冠する偽王たちを蹴散らす、“夜の王”としての旅路の一環である。
この地――バイエルン州の奥深く、鬱蒼とした針葉樹林が広がる森の中。
踏みしめるたびに苔が柔らかく沈み、湿気を帯びた冷たい空気が、肌にまとわりつく。
空は曇り、太陽は木々の隙間にすら届かない。
風もないのに、葉擦れの音が微かに響いていた。
――まるで、この森そのものが生きているかのように。
そのときだった。
「……ふっ!」
エンドの肩がぴくりと跳ねる。
口に出すまでもなく、空気の質が“何か”に変わったのを、全身で察知していた。
次の瞬間、ノイのオッドアイがぎゅっと細められた。
右目と左目で異なる色が、宙の揺らぎを確かに捉える。
「来るよ……妙な感覚。あれはただの魔王じゃない……」
「気配が……違う」ルアンが小声で言い、瞬時に拳を固める。
「……ああ、これ、やばいヤツだね」ネムは小さく舌打ちし、指先に毒気を滲ませながら警戒を強める。
それは、ただの魔力ではなかった。
風でも、気温でもない。ましてや敵意とも違う。
そこに“在る”というだけで、世界の常識がわずかに軋む。
そんな異様な気配だった。
「この方向……城か……?」
エンドがぼそりと呟く。
全員の視線が森の先――霧の向こうに聳え立つ、幻想のような白き城を捉えた。
そう――それは、ノイシュヴァンシュタイン城。
まるで童話の世界から切り取られたようなその美しき古城が、今は禍々しい闇を纏って、森の奥に姿を現していた。
**
その頃――遠くヴァチカンの聖務室。
硬質な靴音とともに、イレーネが一枚の報告書をセレナの前に置いた。
「セレナ、緊急報告。ドイツのノイシュヴァンシュタイン城にて、“子爵級吸血鬼”の気配を確認した」
セレナはその名を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「子爵級……!」
それは、並の吸血鬼とは一線を画す存在。
長命の中で力を蓄え、歴戦の中で魔を極めた、“貴族級”の吸血鬼。
そのひとりひとりが、過去の聖戦においても何人もの騎士を屠ってきた“異端の王族”である。
「ドイツの森が、異様な沈黙に包まれてるわ。現地協力者からの報告でも、鳥も動物も姿を消してるって」
「何かが……“目覚めている”のかもしれない」
セレナの手が、自然と剣の柄に伸びる。
(まさか……)
胸の奥に浮かぶのは、仮面を被った“あの男”の姿。
夜の王。
魔王を屠る者。
(もし……もしあれが、エンドだったら――)
「行くわ。今すぐに」
その目に迷いはなかった。
“光の使徒”としてでも、“聖騎士”としてでもない。
彼の“夜”を、再び見つけるために。
――光と闇、ふたつの運命が、いま再び、ひとつの城を目指して歩み始めた。
そしてその先に待つは、“子爵”という名の夜の支配者。
霧の向こうに、その“城”は佇んでいた。
ノイシュヴァンシュタイン城――
もともとはルートヴィヒ2世が夢見た幻想の城。だが今、そこに聳えるのは、白亜の理想とは程遠い“夜の城”だった。
かつて純白だった石壁は、今や月光にすら怯えるように、黒灰の蔦と血のような苔に覆われている。塔の先端は朽ちかけ、尖塔にはどこからか来たカラスたちが群れを成している。
窓のひとつひとつが虚無のように暗く、まるでそこから外を覗く“何か”の視線を感じさせる。
壁に刻まれた細工は、時を経て歪み、どこか不気味な祈りにも似た印象を残す。かつての栄光を残しながらも、それが“もう戻らないもの”であることを嘲るように、空が曇るたび城はより深い影を纏っていく。
――それは、まるで「貴族」の威厳を守る亡霊のようだった。
ここは、ただの古城ではない。
“何か”が棲んでいる。
そしてそれは、今もこの世界を睨み続けている
コツ…コツ…コツ…
沈黙を裂くように、城の回廊から足音が響く。
それはヒールの音だった。硬質で、緩やかで、どこか優雅――だが、確実に“こちらに向かってくる”意志を持っていた。
音が近づくたびに、空気が変わった。
腐りかけの絨毯が沈黙を吸い、壁に飾られた壊れた肖像画たちが、その姿を遠巻きに見守るように沈黙していた。
そして、姿を現したのは――
赤黒いローブを纏い、夜に映えるような長い髪をなびかせた、一人の女だった。
その立ち姿には気品があった。けれど、瞳に宿るのは“闇”。
底の知れない威圧と、洗練された魔の気配。
彼女は一歩踏み出し、エンドたちに向かって微笑んだ。
「今晩は、“夜の王”さん」
その声音は、あまりにも静かで、あまりにも優しかった。
「いつも――ノイがお世話になってるわ」
一瞬、空気が止まる。
「……あいつはっ」
エンドが小さく呻くように言うと、すぐ傍でノイが息を呑んだ。
「……母さん……」
その声は震えていた。
けれど、返ってきたのは、あまりに冷酷な一言だった。
「ノイ。ごめんなさいね」
女の瞳が細くなる。慈しみの仮面を脱ぎ捨てるように、声色が変わった。
「今日は“優しい母さん”じゃないの」
「――敵として、ここに来たの」
その言葉と同時に、彼女の腕がひるがえる。
血が流れ出す。
それは地面に落ちることなく、空中で赤い軌跡を描きながら形を変えた。
鞭のように、鋭く、滑らかに。
一振りで空気が鳴った。鋭く、裂けるように。
「これが、貴方たち“夜の継承者”へのご挨拶」
――血剣。
その先端が、蛇のように唸りを上げる。
「母さん……やめて……!」
ノイの声は、必死の叫びだった。
けれど、彼女の眼差しに情けの色はなかった。
それは、まるで――
“己の血を継ぐ息子さえも、試練の一部だ”と、言わんばかりの――
夜の空気が、張り詰める。
そして“母”と“息子”と“夜の王”が対峙する、静かな戦の始まりが告げられた。




