第76話 光に背を向けて
セレナは、“救うべき人々”を救うために、再びヴァチカンに戻った。
あの戦いの後、彼女は知った。
希望が死に、信仰が揺らぎ、秩序が崩れかけた世界で――
まだ、彼女を“光”として必要とする者たちがいることを。
彼女は“信じる正義”を見失いながらも、それでも見捨てることができなかった。
祈りを捨てきれなかった。
だからこそ、彼女は進んだ。
もう一度、“光”の名の下に。
「私はまだ、終わっていない世界のために剣を振るう」
その瞳は迷いながらも前を向いていた。
彼女は優しさを“力”に変え、傷だらけの世界を照らそうとしていた。
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そして――エンドは、セレナを“失った者”として、仮面を被った。
救えなかった。
傍にいたはずなのに、何もできなかった。
願っていた未来を、今度もまた、掴むことはできなかった。
「俺は……独りになったんだ」
かつて《Yume》で抱いた希望も、
芳村に与えられた救いも、
響華と交わした言葉も、
そして――セレナと歩んだ時間さえも、
すべてが、仮面の下に沈んでいった。
その仮面は“覚悟”だった。
誰も巻き込まないための、痛みの封印。
誰にも泣き顔を見せないための、嘘の笑顔。
彼はもう、“祐”ではいられなかった。
祐が死んだ場所から生まれたのは――“エンド”。
選ばれなかった者。
光にはなれなかった存在。
それでも、闇の中で誰かを守ろうとする“夜の継承者”。
だからこそ、彼は仮面をつけた。
自らを“夜”へと沈めることで、
誰かの“明日”に立ち続けるために。
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光を選んだ者と、闇を選ばざるを得なかった者。
ふたりは、違う道を歩き始めた。
だが、それは決して断絶ではない。
交わらぬようでいて、
必ずどこかで交差する、宿命の円環。
彼らが再び出会うとき――
その“選択”の意味が、世界に問われることになる。
「ここから一番近い“魔王”の場所は?」
低く、乾いた声が朝靄の中に溶けていく。
「東です。山を越えて、廃村の先。そこに一帯を支配してる“魔王”がいると……」
ルアンが地図を指しながら言う。
「今から行くぞ」
エンドの言葉は、淡々としていた。けれどその瞳には、燃えるような紅の光が宿っている。
東の空が白み始める。やがて、朝日が山影を越え、世界に“光”を注ぎ始める。
その光が、ゆっくりとエンドに近づいた瞬間――
「っ、貴方様は……!」
ルアンが慌てて声を上げる。
「太陽に、灼かれてしまいますよ!」
吸血鬼にとって、それは“死”そのもの。
だが――
「大丈夫だ」
そう呟いた彼の声は、どこまでも静かだった。
パサッ。
その手が、ゆっくりと黒布を広げる。
それは鋼でもなければ、魔法でもない。
ただの“影をつくる傘”――
けれど、それはセレナがかつてエンドに託したものだった。
“貴方が生き延びられるように”
“いつか、もう一度陽の下で会えるように”
それは戦うための“武器”でも、守るための“盾”でもない。
ただ、願いだけで編まれた――“希望”だった。
「セレナが……俺にくれたものだ」
ポツリと呟くその声に、誰も言葉を返せなかった。
黒い傘が、ゆっくりと広がる。
朝日が傘の布を通して淡く透け、影だけが彼を守る。
陰の中を歩む者が、陽のもとへと踏み出す。
それは呪われた吸血鬼の一歩ではなかった。
――かつて、誰かに“生きろ”と言われた者の、一歩だった。
「行くぞ。“夜の王”が、“偽りの魔王”を狩る時間だ」
その背中にはもう、迷いはなかった。
仮面の奥の瞳が、朝日を受けて、僅かに瞬いた。
“夜”が、“光”の中を歩き始めた瞬間だった。
漆黒の傘が、陽光を裂くように揺れた。
乾いた地を踏みしめ、“夜”が“光の中”を進んでいく。
その異様な姿に、敵陣から笑い声が上がった。
「おい、見ろよ……太陽の下に、吸血鬼が来たぞ、ははは!」
「下級だな、間違いねぇ。黒い布被ってイキってやがるぜ」
「しかもたった三人? 魔王を名乗るにはずいぶんと寂しいお出ましだな」
「ふん。教えてやろうぜ、“実力”ってもんをよ!」
前線に立つ、鱗を纏った大柄なリザードマンの魔王が、嘲るように吼える。
だが、その声を遮るように。
「ルアン、ネム。雑魚は任せた」
エンドの声は、低く、重く。
「了解」
ルアンは一礼と共にすっと身を引き、気配を抑えた。
「はいはい、やれってことでしょ」
ネムはあくびまじりに返事をしつつ、指先から毒気を滲ませていく。
エンドが一歩踏み出す。影が地を這う。
「行くぞ」
――“夜”が、陽の下を行軍する。
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「来いよ、自称“夜の王”! 地に伏して後悔させてやる!!」
リザードマンの号令と共に、配下の魔物たちが一斉に突撃してくる。
その瞬間。
「じゃあ……潰すね」
ルアンが一歩踏み込み、筋肉を膨張させる。
体術と獣の本能が融合した動きで、敵の一体を掴み、次の瞬間、地面へと叩きつけた。
「ぐああああっ!!」
肉が爆ぜ、骨が砕ける音が響く。
「ちっ……うるさいなあ、寝てろよ」
ネムの指先が虚空をなぞると、霧のような紫の煙が敵兵たちにまとわりついた。
一体、また一体と、悲鳴を上げることすらなく崩れ落ちる。
「はぁ~……仕事って疲れるわね」
彼女は欠伸をしながら、相手の気配を正確に見切り、眠らせていく。
「お、おい……なんだコイツら……!」
リザードマンが焦りの声を漏らす。
そのとき、静かにエンドが歩を進めた。
漆黒の傘の下、仮面の奥でその紅い瞳がゆっくりとリザードマンを捉える。
「はじめまして、“自称魔王”」
足を止めると同時に、彼の指先が赤く染まる。
血の気配が凝縮し、空気が重たく震えた。
「俺の目的のために――死んでくれ」
「バン」
乾いた音と共に放たれた血の弾丸が、真っ直ぐに飛ぶ。
一点に圧縮された殺意が、音速を超えて一直線にリザードマンの眉間を穿つ。
「なっ――」
言葉を発する暇もなく、魔王は崩れ落ちた。
その場にいたすべての魔物が沈黙した。
立っているのは三人だけ。
その中心で、漆黒の傘を揺らす男が、ゆっくりと背を向ける。
朝日は登った。
けれど――
“夜”は、終わらない。




