第74話 その心臓、断罪の地にて
戦いの終わった巡礼地には、静寂だけが残っていた。
空はようやく紅の名残を消し、星々が顔を出し始めている。だが、その星明かりさえ届かぬほど――そこは、深く、暗い“夜”だった。
血に染まり、焼け焦げ、誰一人として残っていない戦場。
――けれど、その“空虚”の中に、確かに二つの気配があった。
「ネムさん、早く!」
若い声が闇を裂いた。
光の残滓が揺らめく岩陰から、獣耳を揺らした青年が駆け寄ってくる。名はルアン。
「はぁー……マジ面倒くさい」
ため息とともに姿を現したのは、どこか倦んだ表情をしたサキュバス――ネム。色素の薄い髪と目を持ち、夜と毒を混ぜたような気配を纏っていた。
「ネム!ここです、ここで匂いがします!」
ルアンが叫びながら、崩れた石の間に指を差した。
そこには、灰と血が混ざり合った小さな窪み。
かすかに残る“鼓動の名残”。
ネムは眉をひそめてルアンに返す。
「なんで私がやらなきゃいけないのよ。アンタがやりなさいよ、ルアン。人狼なんでしょ?」
「……王が男の血で喜んで復活すると思います?」
「……はあ?」
「あのエンド様を――ライネルを倒した“あの力”を王と呼ばずして、何を王と言うんですか!」
「私は別にこの人を王と思ってないんだけど……」
ネムは呆れたようにため息をつくが、ルアンの熱量は止まらなかった。
「俺達の王です。“夜”の王。俺たちが生きるために必要な、唯一の力だ!」
「……はいはい、んじゃ“やっちゃって”」
ネムが片腕を差し出す。
ルアンが人狼の腕に変化し、鋭い爪でネムの細い手首をスッと切る。
「チッ、容赦ないわね……」
滲んだ赤がぽたぽたと地に落ちる。
血は、焦げ跡の地面に染み込んでいった。
すると、突如として――
ドン、ドン、ドンッ……!
深い地の底から、鼓動のような音が響いた。
それは、まるで“夜”の胎動。
それは、まるで“王”が目覚める鼓動。
ドクン……ドクン……ドクン……!
灰が舞い、空気が震える。
崩れた肉体の欠片たちが、引き寄せられるように集まっていく。
血のしぶきが逆流し、骨と肉と皮が再構成される。
焼かれたはずの臓器が、仮面が、喉が、再びその“形”を取り戻していく。
「……始まった」
ネムの声が低く響いた。
彼女の足元で、赤い煙がうごめく。
その中心に――一対の紅い眼が、ゆっくりと開かれる。
ルアンが、膝をついて頭を垂れる。
「王の夜が……再び、始まる」
その瞬間、戦場に“闇”が戻ってきた。
ただ――“夜”そのものが。
焼け焦げた戦場に――再び、命の形が戻ってくる。
鼓動が、深い夜を震わせる。
そして、黒い霧の中心で紅い瞳がゆっくりと開いた。
その瞬間、空気が張り詰める。
「現状は?」
それが、“夜”が最初に発した言葉だった。
まるで“感情”というものが抜け落ちたかのように、機械のような声音だった。いや――それは、あまりにも多くを背負い、全ての感情を“赦しと咎”の向こうに置いてきた者の声。
ネムとルアンがその場で息を呑んだ。
その肉体は、確かにかつて太陽に焼かれたはずのものだった。だが今そこにあるのは――“灼かれる前の肉体”ではない。
より冷たく、より研ぎ澄まされ、より夜そのものに近い“異形”。
胸には何もなかった。
だが、確かに彼は“生きている”。
ルアンが、小さく呟く。
「……やはり……王だ」
その言葉に応じるように、地面がわずかに震えた。
数歩先――焦げた土の中から、何かがぬるりと浮かび上がる。
それは、“心臓”だった。
――灼かれる直前、自らの身体から瞬時に引き抜き、封印するように地に埋めたもの。
まるで“死”さえも計算に入れたかのような、恐るべき執念と理性の結晶。
エンドはゆっくりと手を伸ばし、それを掴み取る。
「……まだ、夜は終われない」
その声には、痛みも、迷いもなかった。
ただひたすらに、“選ばれなかった者”の覚悟だけがあった。
風が吹く。
夜の香りが、再び巡礼地に満ちる。
誰の正義も届かず、誰の祈りも届かないこの地に、ただ“夜”だけが生き残った。
――こうして、死を越えてなお、エンドは“王”として蘇った。
そして再び、世界の“赦し”と“咎”を問うために、その刃を研ぎ澄ますのだった。




