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第70話 断罪の鐘は夜に鳴る

 山岳の巡礼地。


 そこは、長い年月の果てに忘れ去られた“祈りの終着地”だった。


 標高の高いその地には、険しい岩肌をくぐり抜けた者だけが辿り着ける小さな平地があった。空に近く、雲よりも高く、鳥の羽ばたきすら届かぬような孤絶の地。

 風は冷たく、肌を切るような鋭さを持ちながらも、どこか清廉で、古の神々の息吹を感じさせた。


 草木は少なく、岩と風が支配するその地に、ただ一つぽつんと残された石造りの教会が佇んでいる。

 壁は苔に覆われ、屋根は欠け、ステンドグラスはほとんどが砕け落ちていた。だがそれでも、その構造は崩れきってはおらず、どこか神聖な“形”だけが残っていた。


 かつて巡礼者たちは、遥か彼方の谷底からこの地を目指し、命を削るように山を登り、ここで天に祈りを捧げたという。


 今はもう誰も訪れないその祭壇の前には、朽ちた木の十字架が一本だけ立っていた。

 その足元には風が吹きつけ、小石と枯葉がさやさやと音を立てて踊っている。


 陽は沈み、空は茜と群青の狭間に揺れ、空気が静かに冷えていく。

 あまりに静かすぎるその風景は――まるで“世界の終わり”を思わせた。


 しかし、この沈黙はすぐに破られる。


 ここは、誰の祈りも届かない場所。

 そして、誰かの“断罪”が始まる場所。






 山岳の巡礼地――その静寂を破ったのは、鋭い声だった。


「……来たな、“化け物”。逃げなかったのは褒めてやるよ」


 澄んだ山の空気が、一瞬で刺すような殺気に染まった。


 巡礼の地に足を踏み入れた俺を、ライアンが睨みつけていた。

 その目には、かつて俺が思っていた“憧れ”の影はない。剣を握るその手には、ためらいも、迷いもない。

 そこにいたのはただ、“断罪”の執行者だった。


「……うるせぇよ。正義の名を騙る“屑”が」


 吐き捨てるように言葉を返すと、ライアンの眉がわずかに動いた。


「口は達者だな。自分の立場、わかってねぇのか?」


 俺はゆっくりと歩みを進めながら、吐き捨てるように言い返す。


「俺……お前になんかしたっけ?」


 その言葉に、ライアンの目が、ほんのわずか揺れる。


「“次代の英雄”を誑かした罰だ。貴様がいなければ……セレナは、あんな闇に落ちなかった」


「は――大方、お前の嫉妬だろ」


 にやりと笑う俺の声は、冷たかった。


「お前、セレナのこと……意識してたもんな。“化け物”に負けた気分は、どうだ?」


 言いながら、俺は懐から一枚の仮面を取り出す。

 白と黒が斑に混じるその仮面は、俺自身の“選択”の証だった。


 仮面を顔にかける。


 左目には血の涙を模した意匠、右目には縦長のスリットが刻まれ――そこから、淡く光る金の線が、じわりと浮かび上がる。


 過去すべてを背負った“印”。

 傷も、裏切りも、出会いも、すべてがそこに刻まれている。


 仮面越しにライアンを睨みつけた俺に、奴が嘲るように言った。


「カッコつけて仮面なんかしてよ……そんなんで強くなんのかよ、“化け物”が」


「試してみろよ」


 俺は静かに答えながら、腰に指をかける。

 そして、“咎”と“赦し”の二振りの刃を抜いた。

 背負ってきたものすべてを込めた、俺の夜の象徴――二本の刃。


 ライアンも、静かに剣を抜いた。


 血の色の刃が、月の光に鈍く反射する。


 お互いの視線が、交差する。


 その瞬間――


 ゴーン……ゴーン……


 ――風に乗って、音が響いた。


 もう使われていないはずの教会の鐘が、静かに鳴り始めた。


 誰が鳴らしたわけでもない。

 だが、その音は確かに、この地に満ちた“祈りの残響”が呼び起こしたものだった。


 それはまるで、この“戦い”の始まりを告げる合図のように。


 ライアンが走る。

 俺も、応じるように地を蹴った。


 巡礼の地に、再び剣と血の音が刻まれる。


 ――始まる。断罪と咎の交錯する、“選別”の刻が。




 ガキンッ――!


 金属がぶつかり合う鋭い音が、巡礼地の空気を裂いた。


 咎と赦し、交わる二振りの刃。

 重く、鋭く、互いの覚悟をぶつけ合うように。


 エンドの双剣がライアンの剣に火花を散らす。


 瞬間、エンドの姿がふっと“影”へと沈んだ。


「――っ!」


 ライアンが目を見開いたその一瞬、背後に冷気が走る。


 影から現れたエンドが、“赦し”の刃で喉元を狙う。


 その刃は躊躇がなかった。まるで“過去のすべてを赦すこと”を否定するような鋭さで――だが、


「甘いな」


 ライアンは、それをすでに“知っていた”というように、わずかに体を捻る。


 刃は空を斬り、代わりに風だけが走った。


 即座に、ライアンの剣が反転する。

 その狙いは――仮面。


「っ!」


 避けきれなかった。


 エンドの髪が、数枚、宙に舞った。


 仮面はかすめられたが、割れてはいない。

 だが、剥がされかけた“仮面”に、エンドの瞳が僅かに揺れる。


「……ッ!」


 次の瞬間、エンドが跳ぶ。

 左右に交差した双剣を振り上げ――“咎”と“赦し”、二本の刃が、同時に振り下ろされる。


 ライアンは、一歩も退かず、その一撃を正面から迎え撃つ。


 両手で握られた白銀の剣が、エンドの双剣を横から受け止めた。


 ガァァァン――!


 再び、激しい衝撃音が広がる。

 地面がひび割れ、教会の石畳に粉塵が舞う。


 互いの顔が近い距離にあった。


 ライアンの剣が、大地を割らんばかりの勢いで振るわれる。


 鋭い風圧が草をなぎ、エンドの外套を切り裂くように吹き抜ける。

 だが――エンドの姿は、すでに宙にあった。


「……甘い」


 彼は空中で身を翻し、まるで空を舞う蝶のように回転する。

 その手を、銃の形に変え――


「バン」


 指先から放たれたのは、凝縮された血の弾丸。


 赤く鋭い光が一直線に走る。


 ライアンはそれを剣で弾く。金属音が鋭く響き、弾丸が砕け散る。

 その剣が次の瞬間、燦然と光を帯びる。


煌刃こうじんッ!」


 雷鳴のように響くその声と共に、まばゆい閃光が迸る。


 着地したエンドの足元に、その光の剣が振り下ろされた――。


「……!」


 だが、そこに彼の姿はない。


 エンドは一瞬にして霧となり、空気に溶け込む。


 鋭く交差する光と影。


 その隙を突いて反撃に出ようとしたそのとき――


「シュッ」


 空気を裂く音が走った。

 矢だ。真横から、しかも狙い澄ました一射。


 エンドは即座に気配を読むと、身を引いて矢をかわす。


「……なるほど。1人じゃないってわけか」


 肩越しに視線を送る。

 岩陰、教会の残骸――2人の気配があった。


「……俺が怖いってか?」


 ライアンは剣を構え直し、にやりと笑った。


「正義の味方はな、みんなで勝つんだよ!」


 その声に応じるように、空気がざわめく。


 仲間の気配が、エンドを囲うように動き始めていた。


「……正義の味方? なら“その正義”……俺がぶっ壊す」


 エンドの瞳に、紅い輝きが宿る。


 仮面の下で、かすかに唇が吊り上がった。



(まずは邪魔な弓からやるか)


 エンドは静かに息を吸い込んだ。


 次の瞬間――その身体が膨張する。


 筋繊維がきしみ、骨格が歪む。人狼の因子が肉体に浸透し、彼の脚が獣のように強化された。


 ――狙いはただひとつ。


 人の気配が微かに集まる高台の林。その茂みの向こう、支援の矢を放つ存在を仕留めるべく、地面を蹴って跳ぶ。


 だが――


「……チッ」


 跳躍中、光を帯びた矢が空を裂いて飛んでくる。


 瞬間、エンドは鋭く伸ばした屍鬼の爪でそれを弾く。甲高い音が夜に響き、火花が空中で散った。


 だが、その爪がわずかに軋んだ直後――


「俺に背を向けられると思ったか!」


 背後から、ライアンの声が飛ぶ。


「――斬光ざんこう!!」


 ライアンの剣が弧を描くと、そこから眩い光が裂けるように飛び出した。


 光の斬撃。空間ごと断ち割るような一閃だった。


 エンドはすぐに人狼の力を解除、縮んだ身体をひねり、地面すれすれに斬撃を回避した。


「……ふぅ」


 着地と同時に、今度は自らの内側にある“夜”を開放する。


 グールのリミッターを外し、吸血鬼としての脚力を最大限に引き出す。


 そのまま、疾風のようにライアンへと肉薄。


「喰らえ――!」


 拳が閃き、ライアンの顔面を捉える。


「ぐっ……!」


 顔が大きく弾け、ライアンが後ろへ倒れ込む。


 だが、それで終わりではない。


「バン。バン」


 構えを変え、指を銃の形に。血の弾丸が二発、寸分の間もなく放たれた。


「う……!」


 ライアンの脇腹と太ももに、赤い穴が穿たれる。


 倒れ込みながらも、彼の目に宿るのは怒りの光だった。


 そこに――再び、矢が放たれる。


 二方向から。正確かつ殺意のこもった軌道。


「……鬱陶しいな」


 エンドは舌打ちすると、常に移動しているその“矢の主”の気配を探る。


 だが定位置が定まらない。影に潜み、絶えず位置を変えている――厄介な敵だ。


 だからこそ。


紅の裁断(くれないのさいだん)


 エンドは目を細め、血を鋭利な糸状に変換し放つ。音もなく走る、超高圧の血流。


 それはまるで水の刃。ウォーターカッターのように森の一帯を貫き、風も樹も裂いた。


「きゃっ!」


「うわっ!」


 思わず上がる悲鳴――命中はしていない。だが、威圧と警告には十分だった。


 ライアンが、赤く染まった剣を支えにして立ち上がる。


「“化け物”……お前だけは、許さねぇ」


 その瞳に宿るのは、狂気すれすれの激情。

 英雄として讃えられた男の、個人的な“執着”だった。


 だがエンドは、静かに、真っ直ぐに彼を見返した。


「じゃあ俺は……俺の邪魔をするすべてを――“赦さない”」


 その手には、“咎”と“赦し”、ふたつの刃があった。


 静かな宣告のように、それをゆっくりと構えた。


 ――再び、夜がざわめく。


 そしてこの戦いの続きは、“正義”と“夜”が交錯する、巡礼の地で行われる運命だった。




「――血の五月雨(ブラッドレイン)


 その言葉が夜空に響いた瞬間、風が止まった。


 まるで大気そのものが、何かを察して息をひそめたかのように。


 そして、空が染まった。


 紅――いや、“血”の色に。


 無数の血の針が、空から降り注ぐ。夏のスイスの空に広がる異常な赤。雲ひとつなかった澄んだ空が、今や全て“血の雨”で覆われている。


 それはまるで、天が祈りを拒んだ証のようだった。


 ――2年前とは違う。


 量も、広がりも、そして“殺意”の密度も。


「うぁぁっ!!」


「いやぁぁっ!」


 林の奥、影に隠れていた弓使いたちが、叫びを上げた。命中したのだ。狙っていないはずの彼らにまで届くほど、今回の“雨”は広かった。


 一撃で致命とはいかないが、十分に動きを止めるには足る。


 戦場全体に響くその悲鳴は、あたりの空気を濁らせる。


 そして――


「……チッ!」


 ライアンが歯を食いしばったまま、血の雨の合間を縫うように動いていた。だが――避けきれない。


 肩に、腹に、脚に。数発の血の針が突き刺さるたび、服を裂き、皮膚を割き、鮮血が飛び散る。


 それでも倒れはしない。だがその瞳には、明らかに焦燥が滲んでいた。



 咄嗟に剣を振るい、さらに降り注ぐ血の針を弾く。

 一歩でも間違えば、心臓すら貫かれる。そんな凶悪な密度と圧力があった。


 空は紅い。


 地も紅い。


 まるで、“この世界はすでに夜のものだ”と告げるように。


 エンドは、遠くで静かにその光景を見下ろしていた。


 感情はない。ただ冷ややかに、そして確かに、“赦し”を振り下ろす者として。


 ――この刃は、誰かのためではない。


 己の選択の結果として、ただ“裁く”ために。


 夏の夜に降る“血の梅雨”は、静かに、確実に、“戦場”を染め上げていくのだった。

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