65話 祈りか、呪いか
その日、ライアンの目は決意に燃えていた。
陽の光が差し込む回廊の端で、彼は無言のまま剣を磨き続けていた。
その刃先はすでに曇りひとつなく、手入れなど必要ないはずだった。
それでも――彼は、止まれなかった。
「……ライ、無理しないでね。最近ずっと、張り詰めっぱなしじゃない」
柔らかな声が背後から届く。
振り返ると、黒の長髪を風に揺らす女の騎士――イレーネが立っていた。
白金の装束に身を包み、背には装飾の施された弓を背負っている。優雅な姿のまま、しかし彼女の眼差しには憂いと強さが宿っていた。
続いて、低い声が場の空気を和ませた。
「そうだ。お前が壊れたら、俺たちまで困る」
口元にわずかな笑みを浮かべながら近づいてきたのは、もう一人の弓の使い手――シリルだった。
黒髪を短く刈り、鋭い目つきと落ち着いた物腰を併せ持つ男。トレイナ討伐の際にイレーネと共に日本に派遣され、幾つもの任務をこなしてきた歴戦の騎士だ。
「……イレーネ、シリル」
ライアンは静かに立ち上がり、壁に背を預けるようにして言った。
「俺は絶対に、セレナを取り戻す。あの……穢れた存在から」
その瞳には、憎しみと焦がれるような痛みが混ざっていた。
イレーネは、そんな彼の横顔をそっと見つめた。
「……あなたがセレナを思う気持ち、昔から変わらないね」
その声には、微かな寂しさと懐かしさが滲んでいた。
「……ふっ」
ライアンは鼻で笑うようにそっぽを向いたが、次の瞬間、シリルがにやけながら口を挟んだ。
「素直になれよ。好きなんだろ、セレナのこと」
その言葉にライアンは眉を寄せたが、反論はしなかった。
沈黙がそのまま、答えとなる。
「……もう一回、作戦を練り直す」
唐突に声を強め、彼は話を戻す。
「まずは――シリル。お前がセレナと吸血鬼を引き離す。距離を取らせろ。あいつの背後にあの吸血鬼がいる限り、真正面からぶつかるのは得策じゃない」
「了解。気配を断って接近する。動線は森の東、崖を迂回して回り込む」
「イレーネ。お前は高所から支援。狙いは吸血鬼の足元と影の干渉領域。万が一逃げても追えるように、動線には印を残せ」
「分かったわ。久しぶりに本気で弓を引けそうね」
ライアンは、両の拳をぎゅっと握りしめる。
「貴方、剣の手入れが甘い。……ほら、貸して」
セレナの指先が、かつて彼の剣を静かに磨いていた。
無骨な刃に、細く白い指が触れるのを見つめながら、
ライアンはただ黙って、その横顔を見ていた。
(……あの頃は、俺が“守ってやる”と思ってたんだ)
だが今――
その手は、別の男の剣に添えられている
「……セレナは“連れ去られた”んじゃない。“騙されている”だけだ。俺が……俺が、正しい場所に戻す」
その声は、祈りにも近かった。
そしてその奥に、剣より鋭い“覚悟”が、静かに研ぎ澄まされていた。
イレーネはそっと目を細め、ゆっくりと肩をすくめた。
「……本当にそう思ってるの? “騙されてる”だけだって」
「他に理由があるか」
ライアンは即座に返す。
「吸血鬼と行動を共にするなんて、あのセレナが――あり得ない。きっと、どこかで迷っているだけだ。……だから俺が正してやる。過ちを、斬ってでも戻す」
言い切ったその声音には、信仰にも似た強さが宿っていた。
だがイレーネは、その言葉の裏にある脆さを感じ取っていた。
「ライ。あの子はもう、“昔のセレナ”じゃないかもしれない。それでも……それでも連れ戻したいの?」
「俺は……」
言葉が続かなかった。
代わりに、シリルがぽつりと口を開いた。
「セレナは強い。お前が思ってるよりも、ずっとな。あいつが自分の意志で選んでたら――どうする?」
「それでも俺は、あの吸血鬼を許さない」
ライアンの目が、再び鋭さを取り戻す。
「セレナを、闇に染めた奴……俺の“大切なもの”を汚した存在は、どれだけ理屈を並べようと、討たなきゃならない。それだけは、変わらない」
イレーネは静かに息を吐いた。
(その言葉が、祈りじゃなく呪いにならないことを、願うしかないわね……)
だがそれでも、彼のために弓を引く覚悟は――彼女にも、あった。
「なら……全力で行きましょう。あなたがセレナを救うと信じるなら、私たちはあなたの矢となる」
「お前が倒れる時は、俺が背負ってやる。だから、お前は前だけ見てろよ」
シリルが笑みを浮かべる。
ライアンは頷き、ゆっくりと剣を鞘に収めた。
それは、決戦の始まりを告げる静かな音だった。
そして、影はもうすぐそこまで迫っていた




