62話 その瞳は春を見送って
乾いた風が、山脈の稜線を越えて吹き抜けていく。
春の名残を残したその風は、日差しの温もりすら押し返すように、暖かさを運んできた。
カムシャン連邦北部、国境近くの寂れた宿屋。
その一室で、エンドとセレナは背を合わせるようにして、黙って外を見つめていた。
エンドは仮面を外していた。
宿の壁に立てかけられたままの黒い面は、静かに彼の背中を見守っている。
今の彼に必要なのは、“隠す”ことではなく――“見据える”ことだった。
淡い朝の光が窓から差し込み、頬に落ちる。
その目元に刻まれた疲労と覚悟は、仮面よりもずっと重い“生の証”だった。
「エンド……」
セレナが、静かに口を開く。
彼女の声には、わずかな迷いと、それ以上の決意が混ざっていた。
「中央ヨーロッパから来た旅人が……“スイス近辺で魔眼を見た”って」
「……魔眼?」
エンドの声が低く響く。
「詳しくは聞けなかったけど……今までの魔眼より、ずっと強力だったらしい。真偽は不明。でも、“これまでのものとは違う”って、そう言ってた」
「……スイスか」
エンドは口元でその名を繰り返す。
地図でいえば、カムシャンの北西。
ヴァチカンの守護国にして、“神の盾”と称される中立国家。
「ヴァチカンの目がある。下手に動けば、奴らに感づかれるぞ」
「分かってる。でも、それでも……行く価値はあると思う」
セレナは断言した。
目を逸らすことなく、真っ直ぐにエンドを見つめながら。
「魔眼は、吸血鬼の特異能力。“選ばれた者”にだけ現れる、異形の力。……それを追えば、何かが分かるかもしれない」
「……長い旅になるな」
エンドが、空を見上げながら言った。
その声は、どこか遠くを見つめているようだった。
新たな敵、新たな地、そして“まだ見ぬ答え”を求める、終わりなき旅路。
傍らのセレナは、わずかに肩をすくめて、口元だけで微笑む。
「……いつものこと、でしょ?」
その声音に迷いはなかった。
旅に疲れた素振りも、覚悟の重さを語ることもない。
ただ、そこに“在る”ように、自然に返した言葉。
けれど――胸の奥では、静かに強く、想いが燃えていた。
(老師……あなたは、私に剣を教えてくれた。
光の道を示してくれた。
幼い私に“力”の意味を教えてくれた、唯一の人……)
ヴァチカンの聖騎士。“太陽の化身”と称される男。
その側に立つことが、誇りであり、すべてだった。
(でも……)
視線の先には、エンドの横顔があった。
闇を背負い、夜を歩き、血と痛みを引き連れて、それでも前へ進もうとする男。
ただ守られるだけの光ではない――ともに歩む覚悟を宿す、夜の隣に立つ者。
(それでも私は、エンドの隣に立ちたい)
それは裏切りではない。恩を忘れたのでもない。
ただ、自分自身の意志が選んだ“答え”。
誰かの剣ではなく、自分の手で振るう剣を、今――選んだ。
「……一緒に行くよ、エンド。どこまででも」
セレナはそっと、その言葉を落とした。
エンドは振り返らなかった。
けれど、微かに――確かに、頷いたように見えた。
風が吹いた。
遠くの山々に雪が残る春の風。
その中を、影と光がまた歩き出す。
足取りは静かでも、確かだった。
そしてその先には――まだ誰も知らない“選択”が、確かに待っていた。
太陽が、雲間からゆっくりと顔を出した。
その光はどこか寂しく、春の終わりを告げるように、地面をゆるやかに染めていく。
咲き残った花の影をゆらしながら、光はふたりの背にそっと降り注ぐ。
エンドの足元に伸びる黒い影と、セレナの背に宿る銀のきらめき。
季節が切り替わるその狭間――ふたりの姿は、まるで**“見届けられている”**かのようだった。
まるで――空の上から、“太陽の化身”が、ふたりを睨んでいるかのように。
(……ヴィザ老師)
セレナはわずかに目を細め、空を仰いだ。
光の先には誰もいないはずなのに、その視線が、確かに“在る”ような気がした。
教えを受けた背中。
ともに立った戦場。
そして、今なお守り続ける“盾”としての覚悟。
(私は貴方の剣だった。……でも今は)
セレナはそっと、エンドの隣に並び直す。
その歩幅に、躊躇はない。
太陽は沈まない。
それでも、光に照らされるこの背は、もはや“守られる側”ではなかった。
――照らされながら、同じ歩幅で共に進む。
それは、春を終えた者たちが向かう、“夜の先の微かな光”だった




