第60話 その名はエンド
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それは、世界のどこかに実在すると噂されながら、誰にも見つかったことのない場所。
深い森の奥。地図にも載らぬ霧に閉ざされた谷間の奥深く。
そこに、時代に取り残されたような豪奢な館がある。
鋳鉄の門は蔦に覆われ、敷き詰められた石畳には赤黒い苔がしみついている。だが、館の中に一歩でも足を踏み入れれば、空気は一変する。
調度品はどれも西方の王族が愛したとされる逸品。黒檀の階段、血のように紅い絨毯、天井には金と銀で織られた月の刺繍が広がっていた。蝋燭は絶えず揺れ、光はあるのに明るくはない。窓は閉ざされ、外界と断絶された静謐の空間。
その一室。最奥の間。
赤い絹のカーテンの向こう、巨大な月を模したガラスの照明の下、玉座のように配置された漆黒の椅子に、一人の男が静かに座していた。
皮のように滑らかな黒のコートを纏い、首元に深紅のスカーフ。長く、流れるような銀髪。瞳は深い琥珀に似た赤で、まるで燃えるようでありながら、すべてを凍らせる冷たさをも孕んでいる。
彼は――“侯爵”。
“貴族級吸血鬼”を束ねる、夜の上位存在。
その背後に、一人の若き吸血鬼の女が、音もなく跪いた。
「侯爵様。……ご報告がございます」
「……言え」
男の声は低く、空間を震わせるほど重い。
だが、そこには怒気も威圧もなかった。ただ“支配”の空気が漂っていた。
女は一瞬ためらい――そして、言葉を紡いだ。
「東方、カムシャン連邦にて――“新たな貴族級吸血鬼”が……誕生されました」
部屋の空気が、一瞬止まった。
蝋燭の炎が、揺れを止める。
侯爵の指が、ほんの僅かに椅子の肘掛けを叩いた。
「……ふぅん。ほぉ――実に、何年ぶりだろうな」
その口元が、ゆっくりと歪んだ。
それは喜びか、あるいは興味か――だが、その瞳には明確な“光”が差していた。
「この世界に、まさか“新しい夜”が来るとはな」
侯爵は静かに立ち上がった。
その動きには、一切の無駄がなかった。
ただそこに“重み”がある。まるで、世界のバランスの一端がその男の動きに左右されるかのように。
「……名は?」
女が顔を伏せたまま答える。
「“エンド”という名です。元は“祐”と名乗っていた少年……彼は人として死に、グールとなり、魔を喰らい、そして――吸血鬼へと進化を遂げました」
「進化型、か。……面白い」
侯爵は一歩、窓の前に歩を進めた。
外は見えない。霧と夜が、すべてを包んでいる。
「系譜に連なる貴族ではないが……それでも“血”に選ばれたか」
「……いえ、彼の“血”は、あまりに異質です。既存の枠組みでは定義できません。
ですが、その力、その意志……“夜を受け入れた覚悟”は、確かに我々と並び得るものかと」
「“我々”か」
侯爵はその言葉を繰り返し、嗤う。
「――そうだな。新たな貴族が生まれたというなら、我も久方ぶりに“宴”の準備でも始めるか」
女が、顔を上げた。
「……お出ましになるのですか? 侯爵様が、表へ?」
「否。まだその時ではない」
侯爵は、左手を静かに宙にかざした。
すると、空間がわずかに揺れ、“夜の文字”がその掌に浮かび上がる。
古代の吸血言語。血の契約に刻まれる、深層意識の文様。
「我らは、ただ見ていればいい。血が運命を選ぶのを」
「そして、選ばれた者が――その力に溺れるのか、抗うのか……それを見るだけ」
「……エンド。ふふ、良い名だ」
侯爵の口元に、再び笑みが戻った。
それは、まるで大人が新しい遊び道具を見つけたかのような――無垢な愉しみの色だった。
「“夜の王たち”に相応しいか、じっくり見せてもらおうか」
その声が、深く、そして静かに部屋を満たしていく。
外では、まだ夜の霧が揺れていた。
だが、確かにこの瞬間――
“世界の夜”は、新たな章へと歩み始めていた。
その中心に、血と選択を纏う“エンド”という名の吸血鬼がいることなど、まだ誰も知らない。
けれどそれは、遅かれ早かれ――世界全体が知ることになるだろう。
“新たな貴族級吸血鬼”の誕生。
それは、夜に選ばれし者が、再び世界に“問う”ということ。
――“赦すべきか、裁くべきか。それとも、選ぶべきか”。
そしてその問いに答えを出すのは、他でもない。
“夜を継ぐ者”――エンド自身である
3章までお付き合いいただき、ありがとうございました。
4章からは物語がさらに重厚な展開へと進むため、読者の皆さまにも少しずつ呼吸していただけるよう、今後は2日に1回の公開ペースに変更させていただきます。
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