第58話 沈黙の信者たち
カムシャン連邦都市から遠く離れた、地図にも載らぬ辺鄙な山間の村。
霧深い谷の奥、陽の光がろくに届かぬその場所に、ひっそりと存在していた。
人口は100人にも満たない。
道は土のまま、家々の屋根は苔に覆われ、鐘も街灯もない。
夜になると、山の獣さえ足を踏み入れぬ静寂が訪れる。
だが、その“静けさ”は、どこか異常だった。
村を囲う木々は妙にうねり、空気には鉄のような匂いが混じる。
あちこちに奇妙な石碑が立ち、黒ずんだ布で覆われた木像が、道端で口を閉ざしている。
――村の中心部。
獣の皮で編まれた仮面をかぶる老婆が、膝をついて祈っていた。
「吸血鬼様……御加護を、ありがとうございます……」
深い皺が刻まれた顔を上げる。
その目は、信仰というより――“狂信”のそれだった。
「いいのよ」
背後から、柔らかな声が響く。
「貴方たちのおかげで、こっちも良い思いができてるから」
そう微笑むのは、若く見える女――
だが、その目の奥には、夜の色が灯っていた。
「なんと慈悲深い……!」
「皆よ、吸血鬼様を讃えよ……!」
わらわらと人々が集まり、手を合わせる。
膝をつき、呻くように、捧げるように――口々に吸血鬼への賛歌を唱える。
その光景は、まるで信仰ではなく、“崇拝の檻”。
蝋燭が揺れ、木の柱に打ち込まれた呪符が風でなびく。
子供の声はない。赤子の泣き声も聞こえない。
村全体が、夜に食われたように“死んで”いた。
(ふふ……いい感じ、いい感じ……)
若い女――いや、吸血鬼の女が、口元を隠して笑う。
(昨日は新しい貴族級吸血鬼も誕生したし……)
(この夜の世界、もっと広がるかもしれないねぇ)
そんな言葉を呟く横で、村人たちは盲目的に手を合わせ続ける。
一方、別の地――
下位の吸血鬼たちは、都市・東京に多く潜んでいる。
それらは、“牙を持つだけの存在”に過ぎない。
中位の吸血鬼――例えば芳村のような者――であれば、
ある程度の知性と理性、そして「選択」を持っている。
だが、“貴族級吸血鬼”は――別格だった。
それは、古くから続く“夜の家系”。
長い年月を生き、何代にもわたって血の契約を継いできた血族。
あるいは――戦いの中で、自らの肉体と魂を“進化”させ、
吸血鬼の極みに到達した者たち。
それらは、“血の王”とも呼ばれ、
下位の吸血鬼から見れば、天上の存在に等しかった。
そして今――
その“王の系譜”が、再び目覚めつつある。
夜は、まだ終わっていない。
むしろ、これから始まるのだ。
――吸血鬼にとって、夜の帳は“祝福”であり、
人間にとって、それは“祈りが届かぬ闇”だった
「――また来るわね」
吸血鬼の女が、そう言い残したのは、まるで風に溶けるような、軽やかな口調だった。
誰に向けた言葉なのかは曖昧だった。老婆か、村人たちか――あるいは、自分自身にか。
女は一歩、仮面の祈祷師の脇を通り抜けると、ふわりと踊るように身を翻した。
その身体が、風のように溶けていく。
次の瞬間、ざわり、と空気が揺れる。
黒い粒子のようなものが彼女の輪郭から解け落ち、それが次々と羽ばたきはじめる。
それは――蝙蝠。
一匹、また一匹と、無数の蝙蝠が女の姿からあふれ出す。
それは血のように黒く、夜のように静かで――だがどこか美しい。
「ありがたきお言葉……!」
老婆が崩れ落ちるように地に手をつき、涙を流しながら拝む。
他の村人たちも一斉に頭を垂れ、誰一人として顔を上げる者はいない。
その頭上を、無数の黒い羽ばたきが過ぎていく。
女はすでに姿を失っていた。
蝙蝠の群れはまるで一つの意志を持つかのように、空を描きながら旋回し、
山間の空に向かって、静かに、そして吸い込まれるように消えていった。
まるで夜そのものが、そこから生まれていたかのようだった。
そして、村には再び“沈黙”が戻る。
重く、湿った霧が地を這い、祈りの言葉が低く響く。
吸血鬼の女が去ったあとも、村人たちはなお手を合わせ続けていた。
まるでその存在が、今も頭上に降り注いでいるかのように。
風が鳴る。
木々が揺れる。
石碑の陰で、何かが動いた気がした。
蝋燭の炎が、一つだけ、音もなく消える。
それでも誰も気づかない。誰も声を上げない。
ただ、ひたすらに――“夜”を崇め続ける。
そして、確かにそれは、この小さな村に限った話ではなかった。
夜の王たち――“貴族級吸血鬼”の台頭。
それは、“世界の夜化”の序章に過ぎなかった




