第54話 新月、影は息する
ルアンに導かれ、洞窟のような通路を抜けた先――
そこは、開けた谷に刻まれた異様な光景だった。
谷間をくり抜くようにして作られた集落。
崖沿いの斜面には無数の家々がへばりつくように連なり、その中心には山の側面を抉って築かれた、まるで“獣の牙”のような黒城がそびえていた。
だが、もっと目を引いたのは――そこに生きる“魔物たち”の姿だった。
二足歩行の獣人、角を持つ巨人、異様な目をした幼子……
どれも、明らかに“人間”に近い。
だが、その瞳には理性が宿っていた。
「……人に近い姿の魔物が多いな」
そう呟くエンドに、ルアンが頷く。
「知性が高い魔物ほど、人間に近い姿をしてるって統計があります。
ここは“未開の地”でありながら、知を持つ者たちの“終の住処”でもあるんです」
「知性がない魔物は、ただの兵隊なのよ」
ネムが肩をすくめながら笑う。
その表情の裏には、どこか達観したような諦めの色が滲んでいた。
「さっ、さっ、怖いかもしれないけど――お城、行きましょ?」
城は想像を遥かに超えていた。
広い。無駄に広い。
いや、“広すぎる”と言ってもいい。
空間が人間の尺度で造られていない。天井は高く、柱は太く、壁の彫刻は神話のように精密だった。
「……なんでこんなに広く作るんだ」
誰に向けた問いかもわからないまま呟くと、ルアンが振り返った。
「……ここから先に、“魔王様”がいらっしゃいます」
その声に導かれるように、重い扉が開かれる。
ギィ……と軋む音。
そして、姿を現したその存在は――
玉座に、沈んでいた。
黄金の毛皮。
白銀の鬣。
筋骨隆々とした肉体に、漆黒のマントをかけ、獅子の如き威容を湛えて座している。
だが――その目だけは、猛獣ではなく“王”だった。
どこまでも静かで、どこまでも支配的。
高みから見下ろす者の、それだった。
「……お前が、ルアンが言っていた吸血鬼か」
低く、地を這うような声。
その響きに、空気が震えた。
「我の名は――魔王ライネル。
カムシャン連邦より世界を支配せんとする者。
……見れば分かる、なかなかに強いな。
だが――我の方が強いがな」
口角を上げて、彼は笑った。
(……この男、“本気で”世界を支配するつもりだ)
そう直感できるだけの“王の匂い”があった。
「どうだ。世界の支配の“末席”に加わらないか?
お前のような牙は、我の傍にあってこそ生きる」
エンドは一歩、前に出る。
(……今、戦っても勝てない)
それは確信だった。
この空気の中で、動けば死ぬ。
そして――今、死ぬわけにはいかない。
「……まだ、考えさせてくれ」
そう告げる声は、感情を殺した冷たい刃だった。
ライネルは薄く頷いた。
「そうか。ならばよい。
ゆっくり考えるといい。ここは“人間”にはたどり着けぬ地だ。
急ぐ必要はない。……どうせ、いずれ同じ地に立つことになる」
やがて一行は、ルアンの住まいへと戻った。
谷の静けさに包まれたルアンの家。
周囲には、人の気配どころか、魔の気配すら感じられない。
着いて早々、エンドは辺りを一瞥し、警戒を解かぬまま口を開いた。
「……お前の“人狼になる感覚”を教えてくれ」
ルアンが目を見開いた。
「え?」
「いいから、話せ」
鋭い声に、ルアンは戸惑いながらも真剣な表情で頷いた。
「……あの、“変わる時”のこと、ですか?」
エンドは黙って頷く。
内心でひとつの仮説が確信へと変わろうとしていた。
(やはり……俺は、あの少女の“呪い”を吸収した。
なら――これは、“人狼化”の亜種か?)
「まず、血が熱くなります。喉が焼けて……皮膚が裂けるみたいな痛みが走って……」
「それから、意識が急に“獣”の方に引っ張られて……」
語りながら、ルアンの声はわずかに震えていた。
「……気がついた時には、爪も牙も、声も、全部変わってて……俺はもう“人じゃない”って、分かるんです」
その言葉を聞いても、エンドの表情は変わらなかった。
だが――目の奥に、僅かな光が灯る。
(あの時、俺の内で何かが弾けた。
あの呪いの力……“吸った”というより、“受け入れた”。
……なら、俺はもう――)
エンドは静かに、自分の手のひらを見つめた。
その奥に眠る、獣の気配と血の衝動。
自分が今、何に“なろうとしているのか”を、問いかけていた。
――同時刻。
「……エンド……」
セレナは呟いた。
空気が揺れた。
地が鳴った。
彼女はもう、ただの追跡者ではなかった。
光――それこそが彼女だった。
ルアンの示した方向へと、一直線に。
まるで、世界の法則を無視するような加速。
その先に立ち塞がる魔物たちは、彼女の進路に気づいた瞬間にはもう、塵となっていた。
「光だ……!」
誰かが叫んだ。だが、その声が終わるより早く、視界は白に包まれた。
神速。
いや、神そのもの。
彼女の進む先にあるのは――“テンガン山・未開の地”。
「待っていて、エンド……」
その言葉は風に消え、光だけが山を駆けていった。
そこから日が昇るまで、人狼化の特訓を続けていた。
骨が軋み、血が熱を帯びる感覚。
何度も転げ、吠え、影の中で己の形を失いかけながら――
それでも、彼は自分の中に眠る“獣”と向き合い続けた。
そして、向かえる新月。
空には一切の光がなく、夜は深く静かに沈んでいた。
人狼の力は、この夜だけは確かに鈍る。
だが――
吸血鬼にとって、闇は広がる。
光が退けば、影が支配する。
それは“脆さ”と“強さ”が、交わる一夜。
牙を隠す者も、牙を剥く者も。
この夜、何を選ぶかは――すべて、自分次第だった。




