第53話 赦さぬ目、裁きを携えて
気がついたら――また知らない天井を見ていた。
薄暗い空間。木の梁がむき出しの天井、見慣れないベッドの感触。
意識がじわりと戻ってきて、思考が冷えた刃のように研ぎ澄まされる。
「……はっ!」
脳裏に一気に流れ込む――戦い、炎、セレナ、カナオ……
そして、焼け落ちるような痛みと、血の渇き。
上半身を跳ね起こす。
「――あら、起きたの?」
あの時の……あの女の声。
すぐさま影を展開。
意識が本能に飲まれるより早く、影に身を溶かし、視界から消える。
「え――」
女の背後を取る。
指先から血を凝固させ、刃へと変換。
迷いはなかった。
敵なら、今、ここで――
「喉を裂いて終わらせる。」
剣が振り抜かれる、その瞬間――
「ちょ、ちょっと待って!!」
女が驚愕しながら叫んだ。が、止めるには至らない。
「待ってくださいっ!!」
一際大きな声が空気を裂いた。
視線を向けると、見知らぬ男がこちらに両手を広げ、必死な顔で立っていた。
「俺たち、敵じゃない!ほんとに、敵意はないです!!」
動きを止める。
影の中、静かに呼吸を整える。
男の言葉は真っ直ぐで、恐怖も焦りも混じっていたが――嘘ではなかった。
「……誰だ?」
絞り出すように低く問うと、男は胸に手を当て、深く頭を下げた。
「ルアンと申します。……以前戦った時は人狼でした」
人狼?
その響きに、本能が僅かにざわめく。
だが続く言葉が、その鋭さを少しだけ和らげた。
「上位吸血鬼の血の契約で人狼にされた。元はただの人です」
沈黙。
その間に、背後にいた女――
「あっぶなぁ……寝起きで殺されるとか、シャレにならないわよ……」
ぼやきながら、のそっと腰を上げる。
だが、その目は笑っていた。どこか、眠たげな猫のように。
「彼女は“ネムさん”って言います。サキュバスです」
「……どーも、ネムでーす。見た目は無害、中身は……まあそこそこ害かも?」
茶目っ気たっぷりにウィンクしてくる女。
エンドの視線が、二人を順に捉える。
影の気配は解かれていない――まだ、信用するには遠すぎる。
「……それで、お前たちの目的は」
短く、鋭く。威圧でも怒りでもない、ただ事実だけを引き出す声。
すると、ルアンがやや戸惑いながらも、言葉を選びつつ口を開いた。
「……俺たちの“魔王様”に、会ってほしいんです」
「……魔王?」
眉が僅かに動く。
「なんでだ? なんのつもりだ。罠か?」
その声には、わずかな棘が混じった。
“魔王”――それはこの世界で、何よりも慎重に扱うべき言葉だった。
ルアンが慌てて両手を振る。
「ちっ、違いますっ!俺は……魔王軍、序列八位です!」
「……は?」
思わず眉をひそめる。
(こいつが“八位”?……この軍、見た目より大したことないな)
エンドの視線が鋭く細まる。だが、ルアンは真剣だった。
胸を張り、まるで誇りを守るように言葉を続ける。
「魔王軍は、あなたのような“強き者”を待っています。
魔王様は――カムシャン連邦を支配しようとしているお方。
きっとあなたも、歓迎されるはずです」
「……支配、ね」
その響きに、エンドの顔から表情が消える。
(なら――“赦す”わけにはいかない。
俺の刃は、“裁き”のためにある)
「魔王様に、あなたを紹介します!」
ルアンが一歩前に出る。
「それに……魔王様は、とても強い」
「……なんでそこまで、“魔王”に忠誠を?」
問いかける声は低く、どこか探るような響きを帯びていた。
すると、ルアンの瞳がわずかに揺れる。
「俺が……上位吸血鬼に“人狼”にされた時。
意思なんか関係なかった。ただ命令されて、戦わされて、吠えさせられて……
そんな時、魔王様が――その吸血鬼を、俺の前で倒してくれたんです」
少しだけ、声が熱を帯びる。
「人狼は、“王”に従うのが定めです。
だから俺は、魔王様に従ってる。ただそれだけです」
沈黙が落ちる。
エンドが静かに問う。
「じゃあ、俺がその“魔王”を殺したら?」
一瞬、ルアンの顔が強張る。けれど、口元に力を込めて答えた。
「……王が変わるだけです。
俺たち人狼は、吸血鬼に“本能”で逆らえない。
下位の吸血鬼ならまだ抗える……でも――」
その瞳が、まっすぐにエンドを見た。
「――あなたほどの吸血鬼になれば、俺たちは……もう逆らえません」
それは恐れではなかった。
屈辱でもなかった。
「――そもそも」
エンドの声が、低く、氷のように鋭く落ちる。
「お前たちは“無垢な人間”を襲い、俺の友達まで殺しかけた。
……それを“赦せ”と?」
空気が、張り詰める。
その瞬間、部屋の温度が数度下がったように感じられた。
影がわずかに揺れる。
今にも刃が生まれそうな、その圧。
ルアンが一歩踏み出し、慌てて頭を下げる。
「っ……すみませんでした! 本当に……本当にすいません!!」
「“あの中”に、あなたの友達がいたなんて……知らなかったんです!」
必死に訴える声。
だが、エンドの目は冷たいままだった。
「知らなければ、殺してもいいのか?」
「そんなこと、思ってません!」
ルアンの声が震える。
「でも今、俺たちを――“ここで”殺すのは不味いです!」
その言葉に、エンドのまぶたがわずかに動いた。
「……理由を言え」
「俺は……これでも“序列八位”です。」
息を整えながら、ルアンは懸命に言葉を紡ぐ。
「それでも、俺が帰らなければ――魔王軍は必ず“異変”に気づきます。
あなたに“興味”を持つ。
そして――“牙を剥く”理由を得ます」
エンドの指が、わずかに動く。
血が、影が、命の線をなぞるように波打つ。
「このカムシャン連邦は……魔王様がただ強いだけじゃない。
軍の数が多いんです。戦えば、街が焼かれる。無関係の人間が巻き込まれます」
「――それが、脅しか?」
「違います! これは……警告です」
ルアンの瞳が、必死に訴えるように見開かれる。
「俺を殺すのは……正義でも、裁きでも構いません。
でも、“ここ”でやられると、“貴方の友達の命”も危険にさらされます」
沈黙が落ちる。
ルアンの言葉が虚空に溶けたあと、
空気は張り詰めたまま、刃が落ちるか否かの瀬戸際だった。
だが――
その静寂を、低く、短い声が破った。
「……連れてけ」
そう言って、まとわせていた影をほどく。
その気配に包まれていたネムの足元が自由になる。
ルアンが顔を上げた。
「え……?」
エンドの目は、変わらず冷たいまま。
まるで凍てついた夜の底に、火の粉が静かに燃えているような――そんな眼差し。
この目で確かめてやる。
“魔王”とやらが――どんな顔で“支配”を語るのか
言葉に感情は乗っていない。
だが、その背後にあるのは、明確な“意志”だった。
ネムが小さく肩をすくめる。
「うわ……怖、その目」
ルアンは戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
だがエンドの眼差しは、感謝など求めていなかった。
その目は、まだどこか遠くを見ていた。
まるで――まだ見ぬ“敵”を、睨み据えているかのように。