第52話 英雄の待ち方
「エンド……」
セレナの呟きが、誰もいない空に吸い込まれるように響いた。
彼が連れ去られた場所には、まだわずかに残る血の匂いと、焦げた匂いが漂っている。
その場に立ち尽くすセレナの背に、複数の視線が突き刺さる。
「セレナさん……」
誰かの声が、震えるようにして彼女を呼んだ。だがその優しさは、すぐに別の色に塗り替えられていく。
「おい、今の見たか? アイツ……牙が……」
「吸血鬼だ……やっぱり、吸血鬼だったんだよ、あいつ……!」
ざわめきが、恐怖と憎悪の波となって膨れ上がっていく。
「だから俺たちが狙われたんだ……!」
「一緒にいたアイツらも……絶対に仲間だ!」
指差される。睨まれる。誰もが、正義の名の下に石を投げる準備をしている。
セレナは黙っていた。睫毛ひとつ動かさず、ただ空を見上げていた。
どこかで聞いた声が、脳裏にこだまする――
『皆の憧れのお前らが……生者を殺すのかよ!!』
言葉が、胸に刺さったまま抜けた
ざわめく群衆の中で、ひときわ大きな声が響いた。
「――あいつを悪く言うんじゃねぇ!!」
その声に、誰もが振り向く。
群衆の輪の中、ひとり立つ少年――カナオの瞳は燃えていた。怒りと、悔しさと、涙を堪えるような光が宿っていた。
「……あいつはなぁ、なんでもなさそうな顔して……全部ひとりで抱えちまうんだよ……!」
拳を握る音が聞こえるほど、彼の手は震えていた。
唇を噛みしめながら、それでも声はしっかりと、真っすぐに響く。
「あいつ、不器用なんだ。器用そうに見えるかもしれねぇけど……ほんとは、下手くそなんだよ。
うまく頼れなくて、言葉にもできなくて……それでも、全部抱えて――全部背負って、立ってんだよ……!」
誰もが黙った。
カナオは、言葉を吐き出すたびに胸を叩かれているようだった。
「人の痛みも、それ以外の痛みも……全部知ってるやつなんだ、あいつは!
誰かを守るために、誰かの代わりに……何度だって、血を流して、倒れて、それでも立ち上がるような――そんなやつなんだよ!」
喉が震えても、言葉は止まらない。
「そんなやつを……悪く言うなんて、俺は絶対に許さねぇ……!」
カナオは前に出た。群衆の中心へ。まるで、エンドの代わりにそこに立つように。
「俺は、あいつの……友達だ。――親友なんだよ。
だから、あいつのことを信じる。それが、俺にできる……たったひとつの戦いだからさ……!」
「お前らのために戦ってたんだよ!――見てただろ!!」
張り裂けるような叫びに、群衆は言葉を失った。
その中心で、カナオの肩が震えている。けれどその目は、ただ真っ直ぐに前を見ていた。
「カナオ……」
小さく、セレナが名前を呼ぶ。
その声に振り返ると、カナオはにかっと笑って――いつもの、けれどどこか儚い笑顔で言った。
「セレナさん。……エンドが心配なんだろ?」
セレナの視線が揺れる。言葉を探すように口が開いて、けれど何も出てこなかった。
「行ってこいって」
まるで背中を押すように、カナオは冗談めかして歯を見せた。
でもその目だけは、冗談ひとつなかった。
「……でも……」
セレナの声は、わずかに震えていた。
迷い、怖れ、そして――自分を責めるような色が混ざっていた。
そのとき、カナオはふと遠くを見るように目を細めて、ぽつりと話し始めた。
「……俺、幼い頃さ。魔物に襲われたことがあるんだ」
ぽつり、ぽつりと語られるその言葉に、セレナは息をのんだ。
「俺も、家族も――運良く助かった。……あの人のおかげで」
カナオの目に、過去の光景が滲んでいた。
「名前も知らねぇ。でも……その人は、戦いながら“笑って”たんだ。
『大丈夫だ』ってさ、血まみれになりながら……笑ってた。
……けど、その人は――死んだ。俺たちを助けたせいで、命を落としたんだ」
唇を噛みしめる音が聞こえた。
でも、カナオは笑った。苦しそうに、だけど確かに前を向いた笑顔だった。
「だから俺、思ったんだよ。
次は――今度は、俺が“笑う番”なんじゃねぇかって」
拳を握る。
「牙もねぇ、剣もねぇ、力もねぇ。
それでもさ……誰かを安心させるくらいのことなら、俺にもできるだろ?
あの人の分まで、笑って……誰かを“笑わせて”やるくらいなら、俺にもできるはずだって」
その笑顔に、セレナの胸が締めつけられた。
「だからさ、セレナさん」
その言葉は、まるで祈るように――けれど迷いなく放たれた。
「エンドには、セレナさんが必要だ。
……あいつ、“強い”けど、“独り”にはさせちゃダメだよ。
誰よりも強がって、誰よりも寂しがってるくせに……自分のことなんか、ぜんっぜん分かってねぇやつなんだからさ」
その声に、セレナは一歩踏み出していた。無意識のうちに。
心が、動かされていた。
風が吹いた。春の匂いを含んだ土臭い風が、二人の間をすり抜けていった。
そしてセレナは、静かに頷いた。
「……ありがとう、カナオ」
「……んじゃ、景気づけに俺の一発ギャグ、行きますか!」
沈んだ空気を吹き飛ばすように、カナオがおどけた声を張り上げる。
肩を竦め、両手を広げて――まるで舞台の上に立つような仕草で。
だが、それに被せるように、セレナが静かに言った。
「……それは、帰ってきたら見せて」
その瞬間、カナオの動きが止まる。
けれど、振り返った彼の顔は――どこか照れくさそうで、嬉しそうだった。
「ははっ……そっか。そりゃそうだ。じゃあ新しいの、考えとくよ。めっちゃ面白いやつな。……最強クラスの」
その声の裏にある“祈り”に、セレナも気づいていた。
カナオはふと背後を振り返り、さっきの怪しむ目を向けて来た、傷ついた人々を見つめた。
怯え、寒さに震える者たちの姿に、彼は言葉を続ける。
「……あの生き残った人たち、俺が近くの町まで連れてくよ。守る力は――ないけどさ。
でも、笑って、あったかいラーメンを作ってあげることはできる。それが……“いちばん強い”って、俺は知ってるから」
セレナの目が少し見開かれる。
けれど、それは否定ではなく――尊敬に近い眼差しだった。
「戦うだけが、強さじゃない」
その言葉を心の中で反芻していると、カナオは真っ直ぐにセレナを見つめ、力強く言った。
(……この人は、戦わずに守る強さを持ってる)
「エンドとセレナさんが魔王をぶち倒して帰ってきたらさ、この国の英雄だよ。
でもな、俺にとっちゃ――“帰ってくること”の方がよっぽど英雄的なんだよ。
だから……」
言葉の途中で、カナオの声が少しだけ震えた。
「だからさ。絶対、帰ってこいよ」
風が吹いた。空はまだ曇っていたけど、どこかで雲が晴れ始めているような気がした。
セレナは静かに目を伏せ、そして、ゆっくりと頷いた。
「うん。……必ず」
それは誓いだった。
命に代えてでも、帰るという意思だった。
その返事に満足したように、カナオはくしゃっと笑った。
涙の気配を、冗談に隠しながら。
「そんじゃあ俺、英雄様たちの帰りを、ラーメン煮ながら待ってっからさ。……湯加減は完璧にしとくぜ?」




